きらきら 15

 綱吉が暮らしているというアパートは三階建ての小さな建物だった。
 二階の一番東の端の部屋の鍵を開け、散らかってるけど、と招き入れてくれる。
 学生向けらしいワンルームの室内を見た瞬間に、彼の部屋だ、と思った。

 隅に適当に積み上げられた漫画雑誌、テレビの前のゲーム機とソフト。ほどほどに片付いて、ほどほどに散らかっていて、何気ない生活感に溢れている。
 かつて毎日のように訪れていた沢田家の二階の部屋も、こんな感じだった。
 たった二年余り前のことであるのに、たまらなく懐かしい。
 その思いは、大きめのスポーツバッグの横に積まれた、奈々がしていたのと同じ畳み方の服を見た時に更に強まった。

「とりあえず、適当に座ってて?」
 綱吉はまだコートも脱がないままファンヒーターのスイッチを入れ、狭いキッチンへ立っていって、ケトルに水を汲んでコンロにかける。
「緑茶でいい? コーヒーはインスタントしか置いてなくて」
「え? いいですよ、そんな……」
「お茶を入れるくらい、大した手間じゃないよ」
 言いながら、やっと綱吉はコートを脱いで、壁に作り付けのハンガー掛けのハンガーにかけた。
「獄寺君も、コート貸して」
「え、あ、はい」
 言われて慌ててコートを脱ぎ、差し伸べられた手に渡す。
 と、それも手際良くもう一本のハンガーにかけ、キッチンに戻りながら、綱吉は何気ない調子で尋ねた。
「獄寺君が今住んでるマンションは、広いの?」
「……一応2DKなんで……。昔、並盛で借りてた部屋と同じくらいです」
「そっか。それくらいの広さがあるといいよね。色々と物が置けるし」
 羨むように言う綱吉の声を聞きながら、自分たちはこんな話をしたこともなかった、と改めて獄寺は気付く。
 再会して以来というもの、互いのことは、住んでいる場所すら聞いてはいけない、話してはいけないような気がしていた。
 一歩でも踏み込んだことを口にしたら全てが壊れてしまいそうで、まるで薄氷を踏むように、おそるおそる当たり障りのない会話ばかりを繰り返していたのだ。
 そんな自分をこれまで恥じていたが、しかし、自分の方だけではなかったのだと、ようやく思い至る。
 あんな形で離れ、そして再会した自分たちの危うい均衡が壊れることを恐れていたのは、きっと綱吉の方も同じだったのだろう。
「ワンルームの不便なとこは、収納場所がないことなんだよね。部屋一つだから、掃除は簡単なんだけど」
 綱吉がそう言ううちに、ケトルから白い蒸気が上がり始める。何気ない動作で電熱式コンロのスイッチを切る彼の手元を見て、獄寺は彼の距離感が危ういことを思い出した。
「手伝います」
 一時呆然としていたとはいえ、何故忘れていたのだろうと自分自身を叱り付けながら綱吉の傍へ行くと、その意図を悟ったのだろう。綱吉はまた小さく笑む。
「大丈夫だよ。自分の家だし」
「ですが……」
「相変わらず心配性だね」
 でもそれなら、と綱吉は、シンク横の洗い籠に伏せられたマグカップと、食器棚のマグカップを指差した。
「それ、出してくれる? 湯飲みは置いてないんだ。お茶もコーヒーも全部、マグカップなんだよね」
「はい」
 素直に従って動きながら、しかし、一人暮らしで(一つは片付けてあるにせよ)カップが二つあるのだろう、と獄寺は思う。
 と、見透かしたように、綱吉が茶葉を急須に入れながら言った。
「どうして二つあるのかとか思ってる?」
「え、いや、そういうつもりじゃ……」
 熱湯を冷ますために一旦、ケトルからマグカップに注ぎながら尋ねる綱吉の声は、どこか面白そうに笑んでいるから、気分を害していないことは分かる。とはいえ、獄寺としては慌てずにはいられない。
「もちろん、一つはお客用なんだけどね。ごくたまにだけど、母さんとか山本が来ることがあるし、大学にも友達がいないわけじゃないから」
「──山本、ですか」
「うん。あ、そうだ。連絡しろって山本から君に伝言。……昨日、向こうから電話があったから、その時に君のこともね、言ったんだ」
 うつむき加減にまなざしを落とし、ごめんね、と綱吉が告げる。
「どうして謝られるんですか。俺は別に何とも……」
「でも、気分良くないだろ? 知らないところで自分のことを話されるのって……」
「構わないですよ、沢田さんなら。──まあ、相手が山本だってのは微妙なとこですけど。でも、いいです。本当に」
 本心から言うと、綱吉が見上げてくる。その綺麗な濃琥珀色の瞳に、獄寺は不意に胸を騒がせた。

 こんなに甘い色をしていただろうか。
 彼の瞳の色は。

「獄寺君は、昔っから俺に甘すぎ」
 ふっと困ったようにはにかむように、綱吉がその瞳をほのかに笑ませる。
 そして、ゆっくりと奈々そっくりの手つきで、緑茶を二つのマグカップに注いだ。
 ふわりと香ばしい冬茶の香りと白い湯気が立ち昇る。
 はい、と片方のマグカップを差し出されて、獄寺は反射的にありがとうございますと受け取った。
 綱吉がその場を動こうとしなかったから、そのままマグカップを口元に運ぶ。
 日本茶など寿司屋やうなぎ屋で極まれに飲む程度で、こんな風に丁寧に入れられた緑茶は久しぶりだった。
 ほどよい温度で湯気を立ち昇らせる、やわらかな春を思わせる水色の茶は、昔、沢田家で出されたものと同じくらいに優しい風味がして、またあの家の空気がたまらなく懐かしくなる。

 どうなっているのだろう、あの家は。
 どうしているのだろう、あの優しい女性は。
 この二年余りの間、いつも思い出していた。

 でも、一番会いたかった人は。
 今、ここにいてくれる。

「沢田、さん」
 そっと名前を呼ぶと、なに、と問うような優しいまなざしが返る。
 その瞳があまりにも澄んでいて綺麗で、心の内の想いをどう口に出せばいいのか分からなくなる。
 と、綱吉は獄寺を見つめたまま、静かにまばたきして口を開いた。

「……もっと傍に行っても、いい……?」

「あ……はい……」
 我ながら間抜けた返事だとは思ったが、他に言葉が出てこない。
 戸惑ううちに、マグカップを置いた綱吉が、そっと半歩の距離を詰めた。
 とん、と右肩にやわらかな衝撃と重みがかかる。
 それだけのことで、魂が震えたような気がした。
「──ごめんね……」
 ひっそりとそう呟いた綱吉の表情は、うつむき加減に右肩の辺りに伏せられていて、獄寺からはほとんど窺えない。
「何が、ですか……?」
「色んなこと……。俺、いっぱい君のこと傷つけてた……」
「そんな……、全然あなたのせいじゃないじゃないですか!」

 傷ついていない、とは咄嗟には言えなかった。
 あの事故以来、辛くて辛くて死にたいくらい、正気を失ってしまいたいくらいに心はボロボロだった。
 けれど、それは綱吉のせいではない。
 断じて、この優しい人のせいではなかった。

「あなたのせいじゃないです。俺が弱くて情けない奴だっただけで……」
「ううん、違う。獄寺君は優しいんだよ」
 そう言い、綱吉は顔を上げた。
「優しいから……、俺を……大事に思ってくれてたから、あの事故で俺以上に傷ついて、悲しんでくれたんだ」
 ごめんね、ともう一度繰り返す。
 見える瞳と見えない瞳、美しい双眸で獄寺を見つめて。
「俺、分かってるつもりだったんだ。君はあの事故に責任を感じてるんだって。でも、間違ってた。君が、そんなにも俺を大事に思ってくれているなんて……ちっとも気付いてなかった。……だから、あんな酷いこと……っ」
 獄寺を見上げた綱吉の綺麗に揃った睫毛が震え、瞳にうっすらと涙の幕が張る。
 間近でその様を目にした獄寺の胸は、締め付けられるように痛んだ。



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