sweet sweet home 10

「あの……お話というのは……?」
「あら、そんなすごい話じゃないのよ。ただ御礼が言いたくて」
 綱吉が出てゆくのを待って、少しばかり恐る恐る切り出した獄寺に、奈々はふんわりと笑った。花が咲くような優しい笑顔に、獄寺は肩の力が抜けてゆくのを感じる。
 昔からそうだった。奈々の温かな笑顔は、獄寺の心に嫌というほど生えている棘を、まるで薄い氷のようにたやすく溶かしてしまう。
 この女性(ひと)には敵わない、と心の中で白旗を揚げて、それから、御礼というのは?、と考えた。
「御礼って……俺、何かしましたか?」
「もちろんよ。帰ってきてくれたじゃないの。それが私にとって一番、嬉しいこと。きっとツナにとってもね」
「お母様……」
 意表を突かれて、思わず獄寺が呟くと、奈々は笑って、まなざしを少しだけ遠くした。
「獄寺君がどうして並盛を出て行ったのか、少しは分かっているつもりよ。そして、ツナも分かってた。分かっていたから、あの子は一度も、獄寺君が居なくなって寂しいとか言わなかったわ。でも、いつもものすごく寂しそうだった」
「──俺は……」
「責めているわけじゃないのよ。私くらいの年齢になると、分かってくるの。そういう悲しいことも、人生には時には必要なんだって。あの事故は本当に辛かったけれど、あなたたちを大人にもした。違うかしら?」
「そう、なんでしょうか」
「そうよ。あなたたち二人とも、あの事故を境に子供から大人になったわ。それは悲しいことかもしれないけれど、悲しむばかりのことでもなかったと思いたいの。だって、今のあなたとツナは、すごく幸せそうだもの」
 そう言い、獄寺君、と奈々は名前を呼んだ。
「あんな幸せそうなツナを見るのは、私は初めてよ。獄寺君だって、そう。昔とは全然表情が違う。うんと辛いことを二人で乗り越えたから、そうなれたんだということはないかしら?」
「……そうかもしれません」
 多分、と獄寺は考える。
 あの事故が起きずに時が過ぎたとしても、いつか必ず、自分は大人にならなければならなかった。
 それは綱吉も同じだっただろう。
 互いに大人になって、そしてその時、今味わっている幸福が得られたかどうかは分からない。
 場合によっては、あの頃のままの関係だったなら乗り越えられない、別の何かに遭遇している可能性も、ないわけではない。
 そう考えると、何が良くて悪いのか、判別をつけるのは難しかった。
「──結局、『今』しかないんだと俺は思います。たらればを考えても仕方がない。大事なのは今目の前にある現実で、大事にしなければならないものも、今、目の前にあるものじゃないんでしょうか」
「……ええ、そうね」
「上手く言えないんですけど……、人生で何が起きたとしても、今を大事にすることが未来に繋がる。そんな気が、今はしてます」
「そうね、その気持ちを大切にすることが大事だと思うわ。何が正しいかなんて、分からない。だったら、精一杯に頑張るしかないものね」
 そして、奈々は優しい目を獄寺に向ける。
「ありがとう、獄寺君。そんな風に綱吉のことを大切にしてくれて。あの子にとって最大の幸運は、あなたに出会えたことだと思うわ」
「え……」
 思わず見返した獄寺に、奈々は微笑んだ。


「獄寺君、あの子のことを好きでしょう?」


 うんとうんと好きでしょう、と言われて、獄寺は目を大きく見開く。
 世界で一番大切な人の母親から、そう言われて、平静でいられるわけがない。
 動揺もあらわな顔で奈々を見た獄寺を、しかし、奈々はやわらかな笑みで包んだ。
「この二日間、見ていて分かったのよ。昔から二人は仲良しだったけど、今はその何倍も気持ちが大きく、深くなってるんだって。
 ツナは、右目を悪くしてから、他の人の手を借りるのを嫌がるようになったのに、獄寺君の手助けは自然に受け入れてるし、私も見たことがないような優しい目で獄寺君を見てるんだもの。
 獄寺君だってそうよ。お互いが傍にいるのが一番の幸せだって、私にまで伝わってくる感じ」
「……あ、の……俺は、」
「なぁに?」
「────…」
 何か言おうにも、言葉が出てこない。
 困惑と狼狽の極地に至った獄寺に、奈々は微笑んだまま手を伸ばし、獄寺の頭を撫でた。
 いい子いい子、と語りかけるような優しい感触に、獄寺は思わず目頭が熱くなる。
 そして、気づいた時には叫ぶように告白していた。

「俺は、あの人が……綱吉さんが好きです。ずっと、ずっと好きで……!」

 自分にはそんな資格はないと、ずっと思っていた。
 あの人を幸せにすることなどできないと、ずっと諦めていた。
 けれど、そんな自分を綱吉は望んでくれて。
 好きだと、傍にいて欲しいと言ってくれて。
 そんな人を、自分はもっともっと好きになって。

「不相応なのは分かってます。俺はロクな人間じゃありません。我儘で自分勝手で、エゴばっかりです。でも、あの人が好きなんです。あの人がいないと、生きていけないんです。
 だから、綱吉さんを俺に下さい……!」

「はい、あげます」

 その答えは、あまりにもあっさりと聞こえて。
 思わず、獄寺は顔を上げる。
 と、マリアのような、と形容するには、いささか楽しげな奈々の笑顔が目の前にあった。
「あ、の……」
「獄寺君に綱吉をあげます。私の大事な子供だから、うんと大事にしてくれると嬉しいわ」
「お母様……」
「獄寺君が大事にしてくれれば、綱吉もきっと獄寺君を大事にするから。獄寺君は、綱吉に幸せにしてもらいなさい」
 幸せにしてもらいなさい。
 そう言われて、思わず獄寺は考え込む。
「……幸せにしなさい、じゃないんですか」
 問いかけると、奈々は自信たっぷりの顔で笑った。
「あら、綱吉をナメちゃ駄目よ。あの子は見てくれはヤワでも、ちゃんと幸せを見つけられる子よ。そういう風に育てたもの。本当に欲しいものに対しては、諦めが悪いのよ。
 でも獄寺君は、その辺が少し下手みたいだから、あの子にべったりくっついて、幸せにしてもらうといいわ」
「は……」
 思わず目を丸くしながら、この女性には敵わない、と改めて獄寺は思い知る。
 この素晴らしい女性が、あの素晴らしい人を生み育てた。
 奈々は、綱吉の最大の幸運は獄寺に会えたことだと言ったが、獄寺にとっての最大の幸運は、この母子に会えたことだ。
 綱吉を愛し、愛されたことだ。

「俺、頑張ります……!」
「ええ、信じてるわ。獄寺君も、うちの子だもの」

 当たり前のことのように、奈々は信頼と肯定に満ちた言葉を紡ぎ出す。
 魂の隅々まで満ちてゆくような温もりに、改めて獄寺が目頭を熱くしたところに、タイミングが良いのか悪いのか、綱吉が戻ってきた。
「終わったよー、って……獄寺君、どうしたの!?」
 獄寺の様子がおかしいことにすかさず気付いた綱吉が、近づいてくる。
「母さん、一体何言って……って……!!」
 獄寺はもう、我慢しなかった。我慢し切れなかったと言う方が正解かもしれない。
 立ち上がり、綱吉の腕を引き寄せて強く抱き締める。
「獄寺君!?」
 慌てふためいた綱吉の声が耳を打ち、細い手が何とか自分を引き剥がそうと躍起になっている。
 だがもう構わずに、獄寺は綱吉をきつくきつく抱き締めた。



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