sweet sweet home 06

「……そろそろ、部屋に行く?」
 突然、甘く脈打ち始めた鼓動を感じながら、そっと問いかける。
 獄寺の返事は短かった。
「そうですね……」
 言葉は曖昧なようだったのに、獄寺は手を伸ばしてテレビのリモコンの電源ボタンを押した。
 途端に、リビングはしんと静まり返る。
 鼓動の音さえ聞こえそうだと思いながら、綱吉は自分の湯呑みを取って立ち上がろうとする。と、獄寺はさりげなく湯呑みを綱吉の指先から攫った。
「あ、ありがと」
「いいえ」
 やわらかく微笑んで、獄寺はダイニングキッチンの方へ行き、そのままシンクで簡単に二人分の湯呑みを洗って、食器籠に伏せる。
 その一連の動きはごく自然で、その程度の家事には慣れていることと、この家でそうすることに何のためらいも持っていないことを窺わせた。
「お待たせしました」
「ううん」
 戻ってきた獄寺を、リビングのドアのところで迎えた綱吉は、そのまま部屋を出ようとする。
 と、またもや綱吉がドアを開けようとするよりも早く、手を伸ばした獄寺がドアを開けた。
「ありがと」
 昔からの習い性と、距離感がおぼつかない今の綱吉を気遣っての行動だと分かるから、これくらい大丈夫なのに、と思いつつも、腹立ちより温かな思いの方が胸に広がる。
 だから、獄寺を見上げて微笑み、綱吉は短い廊下を通り過ぎて、階段を昇った。

 部屋に入り、ドアを閉める。
 そのパタンという軽い音にさえ、甘く鼓動が高鳴り──。

「え……」
 ドアが閉まってから、随分と速くなった鼓動を、ほんの二、三回感じるだけの間しかなかった。
 背後から伸びた腕に、ふわりと体を抱き込まれる。
 引き寄せられ、獄寺の胸にやわらかく背中と後頭部がぶつかるのと同時に、綱吉は彼の匂いを感じた。
 この家の中では煙草を吸わないせいだろう。常に身にまとっている紫煙の香りはいつになく薄く、コロンの香りもしない。
 風呂上りのシャンプーの香りと、彼自身の肌の匂い。
 高鳴る一方の鼓動とあいまって、くらりと目が回りそうになる。
「獄寺、君?」
 名前を呼んだ声は、かすかにかすれ、震えている。普通の声を出そうと思うだけの余裕すらなかった。
「すみません」
 耳元で、獄寺の低い声が呟くように囁く。
 その声にさえ、ざわりと全身の血が騒いだ。

 昨日付き合い始めたばかりで、ああもこうも無いが、獄寺が積極的に手を触れてきたことは、この三十時間ばかりの間に殆ど無い。
 むしろ、右目が不自由な綱吉をかばって気遣うことはあっても、綱吉が手を伸ばさない限り、獄寺の方から触れてきたことはないというのが正しかった。
 けれど、今。
 背に、髪に、獄寺の体温が触れている。
 それを感じて、反射的に綱吉のうちに込み上げてきたのは、喜び、だった。

「すみません、沢田さん」
「……なんで、謝るの?」
 繰り返して詫びた獄寺に、綱吉はそっと問い返す。
 震えてしまいそうな手をゆっくりと上げて、自分を抱き締めている獄寺の腕に触れた。
 少し驚きはした。けれど、嫌がっているわけではない。むしろ、嬉しい。そんな想いが伝わればいい、と思いながら。
「なんか俺、色んなことがメチャクチャ嬉しくて。幸せ過ぎて、箍(たが)が外れちまいそうなんです」
「そう、なんだ?」
「はい」
 うなずく獄寺の声を至近距離で聞きながら、そういうことか、と綱吉は納得する。

 確かに今の自分たちの状況は、昨日の朝までに比べたら、天国と地獄もよいところだ。
 昨日、獄寺と会うまでは、自分たちの先には別離しかないのだと失恋を覚悟していた。そして、それは獄寺も全く同じだっただろう。
 なのに結果は真逆で、互いに好きだったからこそ、すれ違いつづけていたことが分かって。
 しかも、一日明けた今、二人が居るここは沢田家の屋根の下である。
 あんな形で並盛を去った獄寺にしてみれば、感無量の思いがするのは当然のことだった。
 そして、感情の起伏の激しい獄寺のことだ。もしかしなくとも、リビングに居た時から感情の高まりを懸命に抑えていたのかもしれない。そう考えると、先程、部屋に戻ろうかと提案した時の手際の良さも、辻褄が合うように思えた。

「……そんなに幸せ?」
「はい。今すぐ死んでも、このまま天国に行けそうな気がします」
「あ、こら、死ぬとかは禁句」
「はい。すみません。死にたくないです。このまま五十年でも百年でも、一緒に居たいです」
「──うん」
 それならいいよ、と小さく呟く。
 五十年でも、百年でも。
 獄寺の声で紡がれたその言葉は、極上の幸せの呪文のように綱吉には思えて、獄寺の腕に添えていた手にぎゅっと力を込める。
 すると、獄寺の腕の力が緩み、え、と思う間もなく、肩に手を添えられてくるりと体を回転させられた。
 向かい合って目が合うと、獄寺の目が愛しさと切なさを湛えて細められる。
 そして、この上なく優しい仕草で、獄寺の指先が綱吉の頬に触れた。

 最初、触れるだけのキスは、ただ優しく、温かかった。
 少し長く触れた後、ついばむように繰り返されるやわらかく甘い感触に、うっとりと溺れながら、綱吉はそっと唇を開く。
 それに応えて獄寺の舌が控えめに唇をなぞってくると、自分もそっと舌を伸ばして、濡れた表面をやわらかく触れ合わせた。

 少しずつキスが深まってゆくのに合わせて、互いの腕も互いの体に回る。
 背を抱き寄せられて、綱吉もまた、獄寺の肩に腕を伸ばす。
 互いを深く感じ合うキスは、どこまでも甘く、湧き上がる幸福感に蕩けそうになる。

 先に膝が崩れたのは、綱吉の方だった。
 天井知らずに甘くなる一方の酩酊感に体が震え始めると、背を支える獄寺の腕が力強さを増し、そのまま誘導されるように深く唇を重ねたまま、床に膝を付く。
 が、床にしてはやわらかい感触であることに気付いたのは、長いキスがやっと終わってからのことだった。
 綱吉の部屋は普通の六畳間で、決して広くはない。勉強机とベッドが床面積の半分を占めており、そこに客布団を引けば、残りの床面積が埋まってしまうのは当然のことである。
「……獄寺、君」
「はい」
 自分たちが客布団の上に座り込んでいることに気付き、どうしよう、どうなるのだろうと半ばときめきつつ、半ばうろたえながら名前を呼ぶと、低く返事が返る。
 そして、もう一度、やわらかく唇が重ねられた。

 深く、ひたすらに優しく、それでいて全てを探り尽くそうとするキスは、そのまま獄寺の心情を伝えてくる。
 そしてそれは、綱吉の想いでもあった。
 傍に居たい。
 離れたくない。
 もっと近くへ行きたい。
 そんな本能にも似た想いのままに、二人は求め合い、互いに手を伸ばす。
 何度もキスを繰り返し、熱と想いに潤んだ瞳を綱吉が向けると、獄寺もまた、熱の滲んだ瞳を細め、そっと綱吉の首筋に唇を寄せた。

「──っ…」
 耳の下の薄くやわらかな皮膚を、ごく軽く吸い上げられて、背筋を鳥肌が立つような感覚が走り抜ける。
 だが、綱吉は嫌だとは思わなかったし、やめて欲しいとも思わなかった。
 むしろ、もっと欲しくて、獄寺の肩に掛けた指先に、半ば無意識に力を込める。
 すると、それに応えるように獄寺は、薄い肌のあちこちについばむようにキスを繰り返し、細く浮き出た鎖骨を甘く唇で喰んだ。
 その感覚に綱吉が体を小さく震わせると、ゆっくりと上体を倒される。
 日向の匂いのする布団はやわらかく二人分の体重を受け止め、とくとくと速まる一方の鼓動に、獄寺の肩を抱く指先が震えた。

 熱を帯びた視線が交差し、また唇を重ねる。
 これまでで一番深く、長い、濡れたキスを交わし、そして。



 綱吉を抱き締めて首筋に顔を埋めた獄寺は、そのまま動きを止めた。



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