I am. 39
魔が差したというのは、ああいうことをいうのだろう。
不意に、彼にならば殺されても良いと思った。
或いは、彼ならば、もういいですよ、と言ってくれるのではないかと思った。
何の脈絡もなく。
自分を楽にしてくれるのではないかと、思ったのだ。
だが、それは綱吉の勝手な妄想で、彼の反応は全く違った。
まるで彼自身に銃口を突きつけられたかのように、蒼白になって表情を引き攣らせ、己の命乞いをするかのように綱吉の命を乞うた。
そして、裏切らせないで欲しい、と。
哭くように吠えた。
彼に対する気持ちが全く分からなくなったのは、その瞬間だ。
その前までは──少なくとも、戦闘開始時に分かれた時までは、綱吉の中には彼に対する特別な感情があった。
始まりは、やはりビアンキの昔語りではなかったかと思う。
小さいとはいえ一つのファミリーのボスの息子であった少年。立場的には綱吉と似たようなものであったはずなのに、母親の死を期に、全てを捨てて家を出た少年。
結局逃げ出せなかった綱吉にとっては、ビアンキの弟は憧憬の対象足り得るものだった。
今どこでどんな風に生きているのか。会ったこともない少年について、眠る前の一時に思いを巡らせたことは何度もある。
しかし、どんな想像も現実に及ぶものではなく、年月を経て皮肉極まりない形で出会った本物の彼は、猜疑と暴力の臭いを身に纏わりつかせているにも関わらず、何故か荒(すさ)み切れていない何かを滲ませた裏社会の男だった。
顔立ちはモデルか映画俳優のように美しく整っているのに、表情は鋭く険しい。けれど、銀色を帯びた深い緑の目はとても綺麗な色をしていて。
ほんの一秒か二秒のことではあったが、綱吉は彼に見惚れた。
けれど、結局、顔の美醜は問題にはならない。
リボーンや情報課の部下から定期的に送られてきた、カテーナの町に関する報告書。それらに目を通す度に、綱吉の中で決定的な何かが生まれてゆき、その果てに、視察の日、住民たちの面前で命を懸けた立会いを申し出た彼に──俗な言い方をするのなら、恋に落ちた。
ただ、それが本当に恋だったのかは、未だに良く分からない。
とにかく、彼だ、と思ったのだ。
自分の望みを理解してくれる存在。言葉にして頼んだわけでもないのに、自分と同じ方向を見て進もうとしてくれる存在。
見つけた、と思った。
同時に、絶望もした。
彼は、決して自分を愛してはくれない。自分は親の仇、望まない仕事を押し付けた憎い相手に過ぎない。
けれど、それでも。
彼の身上書にあった、過去に手がけた仕事で見せた誠実さ。そして、このカテーナの件においても示された、一旦守ると決めたものは全身全霊を懸けて守り通す強さ。
それだけは、どうしても欲しいと思った。
一人の人間として愛されなくても、ボスとして真の忠誠を捧げられることがなくても。
獄寺隼人という存在。
それさえあれば、自分は今しばらく、ドン・ボンゴレという煌めく銘に飾られた玉座の冷たさに耐えられるような気がしたのだ。
だが、結果から言えば、綱吉は彼という人間を見誤っていたということになるのだろう。
彼は綱吉が想定していた以上に、誠実で、優しかった。思いやり深かったと言ってもいい。
綱吉相手に躊躇いもなく永遠の忠誠を誓い、綱吉が繰り返し、執務室から逃走しても腹を立てる素振りは見せず、毎回探しに来てくれた。
言葉数は少なく、愛想もなかったが、怜悧な表情の下で綱吉のためを考えていてくれることは伝わってきていた。
彼の父親のことを持ち出せば、少しだけ不機嫌になったが、それだけで、やはり綱吉を責めはしなかった。
そんな彼に急速に傾倒し、依存するようになったのは仕方のないことだった、と言い訳するように綱吉は思う。
とにかく誰かに傍にいて欲しかった。誰かに支えてもらいたかったのだ。
傍にいてくれると安心する。
探しに来てくれると嬉しくなる。
自分が投げかけた試すような言葉に、愛想はなくとも懸命に選んだと分かる誠実な言葉を返されると、泣きたくなる。
そんな想いは、やはり恋と呼んでも良かったのではないか。
そして、そんな優しい男は。
綱吉の命を奪うことを、哭くように吠えて、拒絶したのだ。
──俺はあなたを殺したいんじゃない、生きていて欲しいんだ!
命を、望まれた。
その家族の命を奪った相手に。
唯一人、彼になら殺されてもいいかもしれないと思った相手に。
『もういいですよ』と言ってくれるのではないかと、勝手に期待した相手に。
生きてくれと言われた。
その魂からの叫びは、綱吉の中の何かを揺るがし、打ち砕いた。
これまでずっと感じていた、逃げたくてたまらなかった思いや、彼に対して感じていた恋のような想いや、彼の父親の仇だという頑なな後ろめたさや、そんな諸々のものがあの瞬間、粉々に砕けて飛散した。
そして、何も分からなくなったのだ。
自分が彼をどう思っているのか、本当はどうしたかったのか。
そんな真っ白の状態で。
おそらく初めて、綱吉は正面から彼という人間を見た。
寿命が二十年縮んだ、と言った彼は、本当に真剣な目をしていて、本気で言っているのだと素直に呑み込めた。
そうして彼を見つめていたら、不意にキスをされて、キスをした理由を問うたら、彼は分からないと答えた。
本当に分からないのだと、その目が言っていたから、自分も試すようにキスをしてみたら、本当に分からなかった。
キスをしたい。
キスをされたい。
目の前の相手に触れたい。
触れられたい。
それだけは分かるのに、その理由が分からない。
ただ、キスをしなかったら──触れなかったら、このまま死んでしまうような気がした。
彼の方もそうだったのかは、聞かなかったから分からない。それでも抱き合っている間は、互いに必死だったように思う。
言葉にして伝えたわけではないが、手探りの行為の中で彼は何かを懸命に差し出そうとしていたし、自分も同じように名前の分からない何かを相手に渡したくて懸命だった。
そして、互いの熱の極みを感じたその時、これが本当のセックスなのだと──互いを繋ぐということなのだと、唐突に理解した。
昨夜のことは、一生に何度も起きないことだと分かっていた。
同性同士の行為がという意味ではなく、あんな風に互いに全てをさらけ出し、与え合うようなセックスは特別なものだ。大人になればなるほど人は心に鎧を着けて本心を偽ってしまうし、子供のうちは自分のことに手一杯で、欲しがりはしても与えることまで気が回らない。
奇跡に等しい経験をしたのだと、心よりも魂が訴えかけてくる。
だが、それをどう受け止めればいいのか。
彼に──獄寺隼人に対する感情は、昨日、一旦白紙に戻ってしまった。
あの瞬間に、それまでの沢田綱吉という人間は崩れ去ってしまい、言ってみれば、生まれ直したようなものだ。
隼人は拳銃の引金は引かなかったが、その魂からの言葉で、己の感情に縛られて雁字搦めになっていた綱吉を解き放った。
そんなまっさらな状態で、綱吉は隼人を見つめ、キスをして、体を重ねた。
そこに感情は確かにある。
以前とは少し違う感情で、彼を欲しいと求める心を否定する気はない。
だが、それにどう名前をつければいいのか。
今朝からずっと考え続けているが、まだ答えは出なかった。
溜息をついて、ずっと歩き続けていた足を止める。
深呼吸すると、秋薔薇の甘い香りが隅々まで染みた。
初夏の一番花とは異なった風情で、あでやかでありながら、どこかしっとりと慎ましげに咲いている無数の薔薇を眺めやりつつ、ただ咲いて散るだけのこの花のようになれたらいいのに、と詮のないことを綱吉は思う。
花は咲くことにも散ることにも、何の疑いも躊躇いも持たないだろう。
無心に己が命の役割を果たす。
そうあれたら、どれ程美しく、潔く見えることか。
あまりにもぐずぐずと悩んでばかりの自分にうんざりしつつ、再び、二歩、三歩と足を進めた時。
背後に慣れ親しんだ足音と気配がした。
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