I am. 38

 空はこの季節らしい薄曇りで、風が少し強くそよぐと肌寒さを感じるほどだった。
 逃避行には似つかわしいな、と考えながら、綱吉はゆっくりと庭園の小道を歩く。
 最近のお気に入りは、流水階段から池を経て続く、細い流れに沿った小道を歩くコースだ。
 軽やかなせせらぎの音に耳を傾けながら、四季折々の花を咲かせる木立や花壇を巡り、奇妙な形の彫刻群(グロッタ)を眺めつつ先へ進んでゆくと、最後は薔薇園に辿り着く。
 総本部内には百人を超える人間が常に立ち働いているはずだったが、庭園は時折、園丁が樹木や草花の手入れをしている以外、ほぼ無人で、鳥や虫の鳴き声や風のざわめきしか聞こえない。
 そんな中をゆっくりと歩くのは、常に何かしら疲弊している心にとっては、かけがえのない癒しの一時だった。

 執務室を抜け出したのは、つい先頃だから、まだ彼も探しには来ないだろう。
 大体彼は、一時間毎に綱吉の元に書類を届けに来る。
 何かというと執務室を抜け出す綱吉の性癖を知っているくせに、書類を運んでくるペースを変えないどころか、傍らに張り付きもしないということは、一時間なら見逃すと言っているようなものだ。
 ならば、と綱吉も遠慮なく、逃走を繰り返させてもらっている。そして文句を言われたこともないのだから、これはこれで正解なのだろう。
 常に無愛想で、意外なほどに生真面目で。
 笑顔など、片手で数えられるほどしか見たことはない。
 けれど、綱吉の秘書である彼は──獄寺隼人は、とても優しい男だった。
 それこそ綱吉が、こんな風に意味もなく甘えてしまうほどに。

 綱吉が獄寺隼人こと、ルッジェーロ・ジェンツィアーナの名前を知ったのは、今から十年ほど昔にまで遡る。
 綱吉の家庭教師として日本にやってきたリボーンにくっついてきた、うら若い美女。ビアンキという名の彼女は、時折ではあったが、彼女の弟のことを口にした。
 八歳で家出して消息知れずだというその弟と綱吉は同い年だったために、どうしても思い出さずにはいられなかったのだろう。
 懐かしげに、愛おしげに、そして少しだけ悲しそうに、寂しそうに。
 ビアンキは頻繁にではなかったが、十年の月日の間に繰り返し、彼女の小さな弟について語った。
 やんちゃで、鼻っ柱が強くて、負けず嫌いで。
 ピアノが好きで、猫が好きで。
 人に対しては不器用で、照れ屋で、それでも優しい思いやりをいっぱいに持った少年。
 そんな異国の少年について聞くのは楽しかった。
 会ったことは勿論、写真さえ見たことはなかったのに、彼のことを良く知っているような……昔からの友達であるような錯覚に陥ることもしばしばだった。

 なのに、運命はどれほどに皮肉なのか。
 初めて本物の彼と会った時には、綱吉は彼の父親の仇という立場だった。
 ビアンキからは、弟は父親を憎んでいるはずだし、それは自分も同じだから、気にしなくていいと言われていたが、はいそうですかと平静で居られるわけがない。
 綱吉にとって両親はかけがえのない存在だったし、どれほどいがみ合っている親子であっても、根底には何かしらの情があるものだと信じたかった。
 結果として、それは世間知らずの思い込みだったのかもしれない。少なくとも、隼人自身はそう主張したし、リボーンも綱吉の方を非難する構えを見せていた。
 だが、今となっても、隼人が父親に対して一切の情を持ち合わせていなかったとは綱吉には思えない。
 彼の憎しみも恨みも本物には違いなかったが、それだけではない何かを綱吉はいつも、彼の言動から感じ取っていた。
 おそらく、自身の出生の秘密を知る以前は、彼は普通に父親のことを愛していたのではないか。父子の触れ合いがどの程度だったかは知る由(よし)もないが、小さいながらも一ファミリーのボスとして御館様と呼ばれ、周囲の尊敬を集めていた父親を、幼い少年が誇らしく思うのは不自然でも何でもない。
 そんな敬愛する父親が、自分の実の母親を死に至らしめた。その現実の惨(むご)さが、よりいっそう純真な少年に父親を激しく憎ませた。綱吉にはそう思えてならないのだ。

 けれど、彼は決して綱吉を責めようとはしなかった。
 それどころか、逆に綱吉の望みを次々と叶えてくれたから、つい甘え過ぎてしまったのだ。
 毎日毎日、執務室から逃走するなど、自分でもやりすぎだったと思う。
 だが、彼はそれさえも許容する素振りを見せたから。
 調子に乗った生来の軟弱な性分が、うっかりと踏みとどまるべき一線を越えてしまったのに違いない。
 それは彼の罪でも何でもない。すべて綱吉自身の責任だ。

(それにしても、昨日は本気でどうかしてた、よな……。)

 綱吉は別に死にたがりではない。
 少なくとも自殺願望を抱いたことは、これまでに一度もない。
 ただ、重苦しいものは次代のドン・ボンゴレという自分の立場を知らされた十四の歳からずっと感じ続けており、逃げ出したいという思いは常に心の奥底にあった。
 ボンゴレから、或いは、自分自身から。
 ドン・ボンゴレ十世であることを強要された人生を打ち捨てることができれば、どれほど楽になれるか。考えずにはいられなかったが、その思いは常に諦めと表裏一体だった。
 自分がドン・ボンゴレになれば、全ては丸く収まる。そう言われたのは、まだ十代の頃だ。
 初代直系の血を引く綱吉は、現時点において最も妥当なボンゴレの後継者であり、加えて、最強のヒットマン・リボーンに鍛えられた白兵戦の技術があれば、反対派の口をも閉ざさせることができる。
 『ファミリーの安寧のために。』
 そう言われてしまえば、もう逃げ道はなかった。
 もっとも、ドン・ボンゴレとて命ある人間だから、永遠に玉座に君臨していられるわけではない。
 綱吉が居なくなれば、ファミリーは機械的に次のボスを選び出す。それだけのことであり、その程度の存在なのだ。
 だが、そうと分かっていても、綱吉はどうしてもファミリーを裏切れなかった。
 かといって、自分で選んだものの望んだわけではない座に在り続けることは、どうにも辛くて。
 昨日も、うっすらと白煙が立ち込める戦場で、そんなことをぼんやりと考えている最中に、彼は現れた。
 雲間から差し込んだ傾いた薄日に銀の髪を所々煌めかせ、綱吉の身を案じていたのか、ひどく厳しい表情の中で宝石のような銀緑の瞳が鋭く光っていた。
 そんな彼の姿を見た時。
 彼ならば良いか、と思ったのだ。



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