I am. 36

 声も出なかった。
 目の前で何が起きているのか理解できない。
 白く焼き付いた思考に、静かな綱吉の声だけが響いた。


「今ここで俺を殺しても、誰も君を疑わないよ。目撃者は居ない」


 静か過ぎる声と、真っ直ぐに自分を見据える黄金色の瞳に、ざわり、と背筋が震える。
 彼は何を言っているのか。
 彼は何をしているのか。
 理解できない。
 理解、したく、ない。
「止……めて…下さい……」
 声が震え、全身が瞬く間に冷たい汗に濡れそぼる。
「弾室に……弾が入ってるんです……!!」
「そうだろうね。安全装置が下りてるから」
 あくまでも冷静に綱吉は言う。
 戦場に立っている人間が、いつでも銃を撃てる状態にしておくのは当然だとばかりに。
「お願いです、止めて下さい、十代目」
 引金に指をかけた状態の手を掴まれていては、力任せに振り払うこともできない。何の弾みに引金を引いてしまわないとも限らない。
 恐ろしかった。
 心臓までも凍るような、悪魔に魂を鷲掴みされたような恐怖が背筋を這い上がってくる。
「嫌、です。俺は、あなたを殺したくない」
 やっとの思いで恐怖に凍りつきそうな声帯を動かし、正真正銘、掛け値なしの本音を搾り出す。
「本当に、殺したくないんです。俺はあなたを恨んだことなんか、これまで一度もない」
 これまでに何度も何度も、繰り返した。
 その度ごとに綱吉は、不可解さをほのかに浮かべながら、そう、とうなずいた。
 けれど、それだけだ。
 何も伝わっていない。何一つ、彼は理解していない。
 この半年間、傍に居たのに。
 永遠の忠誠を誓い、毎日毎日、彼を探しては見つけ出していたのに。
「止めて下さい、十代目」
 恐怖と悔しさと。
 込み上げる感情に耐え切れず、
「俺はあなたを殺したいんじゃない、生きていて欲しいんだ!」
 隼人は吠えるように叫んだ。



「一番最初にあなたが言ったんでしょう、俺の誠意が欲しいと!?
 だったら、その俺にあなたを裏切らせないで下さい……!!」



 そう叫び、何分何秒が過ぎたのか。
 ゆるり、と綱吉の手が隼人の手から離れた。
 黄金色の瞳は相変わらず、至近距離から隼人を見つめている。
 だが、そこに浮かぶ表情は驚愕しているようでもあり、虚脱しているようでもあり、どこか捉え所がなかった。
 そんな綱吉を横目で見ながら、隼人は自由になった手で銃を空に向けて素早く一発、空打ちし、弾室を空にする。そして、震える手で安全装置をかけ、ホルダーに納めた。
 それから、小さく震え続ける体を持て余しつつ、綱吉に向き直る。
 生まれてからこの方、ずっと裏世界で生きては来たが、これほどの恐怖を味わったことはなかった。
 その恐怖を味合わせてくれた相手を、じっと見つめる。
 だが、口から出てきたのは短い一言だった。
「帰りましょう、十代目」
 そう告げた隼人を、綱吉はどこかぼんやりと見上げ、ふと思い出したように呟く。
「君の怪我の手当て、しないといけないね」
「かすり傷ですから大丈夫です」
「でも、」
「今ここで応急手当をしなきゃならないほどの怪我じゃありません。──撤収しましょう、十代目。もう戦闘は終わりました」
「──分かった」
 ややあってから、綱吉は静かにうなずく。
 そして、未だきな臭さに満ちた戦場を見渡し、ゆっくりと歩き出した。

*     *

 山本に一足先に綱吉と共に撤収すると伝え、隼人は待たせてあった車に乗り込んで一時間余り離れた町にあるホテルまで移動した。
 時刻的には総本部まで帰れなかったわけではないが、尋常でない恐怖を味わった隼人は精神的にひどく消耗していたし、また、虚脱したような沈んだ表情で口を開こうとしない綱吉のことも気がかりだったため、念のために取ってあった部屋に宿泊することにしたのだ。
 それが正解だったのか、不正解だったのか。
 小さいが格式高く、由緒あるホテルの最上階のスイートに足を踏み入れた綱吉は、室内をぐるりと見渡した後、獄寺を振り返り、
「傷を手当しないと」
 と思い出したように言った。
「別に大丈夫ですよ。出血も大したことありませんし」
 血はすぐに止まっており、今では周囲の衣服が少しばかり赤黒く乾いた血に汚れているだけだ。
 だが、綱吉は譲らなかった。
 携帯電話でホテルに待機している部下を呼び出して、救急箱を持ってこさせる。そして、隼人に上着を脱いでソファーに座るように告げた。
「シャツも脱いで」
「これくらい、自分で手当てできますよ」
「消毒くらいならね。でも、これ以上傷口が広がらないように、周囲をテーピングしておいた方がいい。それは片手じゃ無理だろ」
「そこまでしなくても……」
「しておかないと完治が遅くなるよ。傷跡も残りやすくなるし」
 至極真面目な顔で言って、座って、と再度命令する。
 綱吉に命令の意図はないかもしれなかったが、隼人にとっては、やはり抗いがたい『命令』だった。
 溜息を押し殺しながらシャツのボタンを手早く外し、左腕を袖から抜く。その動きに、忘れていた痛みが傷口を中心にぴりりと広がった。
「着替えは持ってきてるよね?」
「ええ。搬入担当の奴に渡しはしました。忘れられていなければ、届いているはずです」
「そう」
 うなずきながら綱吉は救急箱の蓋を開け、消毒薬やガーゼを手際よく取り出す。そして精製水で濡らしたガーゼで傷口を拭い、綺麗な傷でよかった、と呟いた。
 そこからは特に何かを言うこともなく、手際よく綱吉は傷の処置を済ませ、それから、バンデージテープで、周囲の筋肉が動かないよう固め始める。
 その一連の動きはいかにも慣れていて、彼が長年、こういった暴力の中に身を置いていることが隼人にもよく伝わってきた。
 きっと彼は、もう何年も……経歴を聞く限りは十年も、こうして誰かの手当てをしたり、自分の手当てをしたりされたりして過ごしてきたのだろう。
 本当は、暴力も血もまったく似合わないにもかかわらず。
 けれど、その中で彼は生きてきた。生き抜いてきたのだ。
 ギリギリのところで、身も心も戦いながら。
「はい、おしまい」
 淡々と告げて、綱吉は残ったテープやガーゼ類を元通りに救急箱にしまう。そして、蓋を閉め、ふっと宙に浮いた手を隼人は掴んだ。

「もう二度と、あんな真似はしないで下さい。寿命が二十年縮みました」
「──二十年も?」
「はい」

 小さな驚きも顕わに問い返してきた綱吉に、隼人は真面目に答える。
 ごく近い距離で、瑪瑙色に透ける瞳を真っ直ぐに捉えると、綱吉は静かに目をまばたかせ、それからまなざしを伏せた。

「……ごめん」

 子供のように拙い、言葉足らずの謝罪だった。
 だが、隼人にはそれで十分だった。
 分かってもらえればいいんです。しかし、そう告げるはずの言葉は声にならず、ふと心の奥から湧き上がってきたものに突き動かされるままに、掴んでいた細い手をもう少し自分の方に引き寄せる。
 なに、と見上げる綱吉の目を見ながら、顔を傾けて、そっとその唇をついばんだ。
 触れるだけで離れると、隼人の目を綱吉のまなざしが追ってくる。

「──どうして?」

 突然のキスに、綱吉はかすかに驚いているようではあっても、その表情は殆ど変わらず、静かなままだった。
 そのせいだろう、隼人もひどく正直に、答える言葉を紡いだ。

「分かりません」

 不誠実極まりない答えだった。否、答えにすらなっていない。
 だが、それが真実だった。
 何故、この人にキスをした?
 それが分かっていたら、先に言葉にしている。
 言葉にならなかったから、体の方が先に動いたのだ。
 ただキスをしたかった。
 確かなものは、それだけだ。それ以外は何も分からない。
 胸の中に、これまで他の誰にも感じたことのない感情が湧き上がり、渦を巻いている。
 綱吉を見るたびに湧き上がってきていたそれは、時には怒りややるせなさにも似ていたが、全くそれとは似ても似つかない感情が根底にはいつも流れていて、隼人を突き動かし、あるいは身動きを取れなくするのだ。
 こんな想いを言葉にする術を、隼人は知らなかった。

「……そっか」

 じっと隼人を見つめていた綱吉は、不誠実な隼人の返答に怒りもせずに小さく呟き。
 先ほど隼人がしたのと同じように、そっと顔を寄せ、隼人の唇をついばむ。
 隼人がしたのよりも一秒ほど長く留まった唇は、触れた時と同じようにそっと離れていった。

「俺も、分かんないや」

 至近距離で隼人の瞳を見つめ、困ったように、途方に暮れたように微笑んで呟く。
 その表情がひどく悲しげにも切なげにも見えて、隼人はもう一度、綱吉を引き寄せた。
 今度はゆっくりと唇を重ね、温もりとやわらかさを感じ合い、分かち合うキスを繰り返す。
 いつしか互いの背に回した手は、知らず互いの体を引き寄せていて。
 そこから先はもう、言葉は必要なかった。



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