I am. 33

 執務室は、案の定、空っぽだった。
 窓の外の空は、既に宵闇に覆われ始めている。空と風の色に秋になったと感じたのは最近の話だが、夏に比べると日が暮れるのは確かに早くなってきていた。
 かすかな溜息を押し殺して、手にしていた書類を執務卓の上に置く。
 そして室内を一瞥してから、廊下へと出た。
 秋の初めの宵に綱吉を探しに行くのは、これが初めての経験だったが、何となくどこにいるかは分かる気がした。
 彼の行動パターンは、以前に彼自身が言った通り、確かにワンパターンである。だが、その心の内は決して単純ではない。
 単純であれば、こんなにも彼は苦しまないだろう。
 隼人はこれまで、綱吉との出会いを悔やんだことは一度もなかった。正確に言えば、一番最初だけは恨みかけたが、それはカテーナで半年を過ごすうちに感謝に変わった。
 だが、今日初めて、この出会いを恨みたい気分になっていた。──出会ったことにではなく、その出会い方を。
 父親がもう少し賢明であったなら、あるいは、ジェンツィアーナと全く関係のない出自であったならば。
 全く別の出会い方をしていたら、こんな風に信頼はされなかったかもしれない代わりに、彼の負い目にもならずにすんだだろう。
 また父親を恨む理由が増えた、と思いながら、涼しい夕風を頬に感じつつ広大な庭園の一角を目指して歩いていると、やがて空気に甘い香りがふわりと混じる。
 思った通り、やっと咲き始めた秋薔薇の中に彼はいた。
 瀟洒なデザインの常夜灯の明かりの下で、物思いするように沈んでいた顔が、近付く気配に気付いてはっと上げられる。
「隼人……」
「執務室においでにならなかったので」
 探しに来たのだ、と言外に告げると、常夜灯の下で深みを増した瑪瑙色の瞳が揺れた。
 そして、そのまなざしが弱く伏せられる。
 ごめん、とひそやかな声が、小さく鼓膜を打った。
「庇ってくれたのに、酷いこと言った……」
「気にしてません」
 静かに隼人は答える。思ったよりもやわらかな声が出て、そのことに少し安堵した。
「見解の相違です。俺はあなたを恨んでませんし、憎んでもいません。俺がずっとそうしてきたのは、父親に対してだけです。ただ、あなたがそうと思えないことも、理解できなくはないですから」
「───…」
 綱吉はじっと隼人を見上げている。その瞳は相変わらず、分からない、と告げていた。
 その色を見詰めていると、分かって欲しいとも思うし、分からなくていいとも思う、いつもの気持ちが湧き上がってくる。
 理解したらしたで、彼は親子の断絶という事実に心を痛めるだろう。しかし、だからといって、親子の仲がどうであれ、隼人の父親を死に至らしめたという負い目は、彼の中から消えることはないのだ。
 彼の抱える痛みは、形を変えるばかりで決して軽くはならない。
 そうと見当が付くくらいには、綱吉の傍にいる月日も長くなりつつある。
 だから、隼人はこの件についてはこれ以上何かを言うのを止めて、ここに来た要件の方を告げた。
「そろそろお屋敷に戻られませんか。宵の風は心地良いですが、気温が下がってきてますし、当たり過ぎると体に毒です」
「──仕事は? 書類があるんじゃないの?」
「明日の朝でも間に合うものばかりですから」
 執務室に置いてきました、と告げると、そうなんだ、と瑪瑙色の瞳が軽く伏せられる。
 次にまなざしが上がった時には、いつもの綱吉の表情だった。
「分かった。戻るよ。あんまり食欲はないけど、食べるだけは食べておかないとまずいしね」
「はい」
 隼人が応じると、綱吉はいつものように薔薇園を一瞥してから、ゆっくりと歩き出す。
 その後に隼人も無言のまま、続いた。

*     *

「立派に色ボケしてるようだな、馬鹿ツナ」
「──誰が色ボケだよ、誰が。来るなり言う言葉がそれかよ」
「お前だろうが。何ぼけーっとしてんだ。ボンゴレのボスってのは、そんなに暇な役職か?」
「ボスをやりたけりゃ、いつでも代わってやるよ。大体さあ、色ボケって何だよ。してないよ、そんなの」
「ほー。俺が聞いたところじゃ、あの若造相手に四六時中、かくれんぼしてるって話だったが」
「……俺は元々、仕事嫌いだもん。今に始まったことじゃないだろ」
「にしたって、毎日毎日執務室から逃走ってのはやりすぎだろう」
「……だから、元々この仕事、好きじゃないんだって」
「ま、俺の知ったことじゃねーけどな。不毛な色恋沙汰は、ほどほどにしとけよ。見苦しくて仕方ねーからな」
「だから、色恋沙汰じゃないって」
「ふん。どうだかな」
「違うってば。──それよりさ、リボーン」
「何だ」
「彼さ、俺のこと恨んでないって言うんだよ。……俺は彼のお父さんを殺したのに」
「まだそんなこと言ってんのか。あれから一体、何ヶ月経ったと思ってるんだ」
「……だって、俺は割り切れないし、忘れるなんて絶対無理だし。でも、彼はいいって言うんだよ。自業自得だったって。……本当にそんな風に思えるのかな。だってビアンキとは仲がいいんだよ、口ではあれこれ言ってるけど……」
「──ったく、いつまで経ってもダメツナだな。お前の狭い価値観で考えるなと、何度言ったら分かるんだ? ぬるい考えのせいで、これまで散々痛い目に遭ってきただろうが」
「────」
「世の中には、ぬるま湯の中で育ったお前には理解できねーもんがいっぱいあるんだ。お前は、家光が奈々を見殺しにするところが想像できるか? できねーだろうが。だが、あの若造はそういう場所で育った。お前が理解できないものの考え方をしたって、不思議でも何でもねーんだよ」
「────」
「分かったら、考えても無駄なことをもう考えるな。あいつはあいつ、お前はお前だ。何度も言っただろ、お前の価値観を他人に押し付けるな」
「…………」
「じゃあ、俺は行くからな。次に来る時までには、もう少しマシになってやがれ」
「……………………価値観を押し付けるな、か。……でも、そうしたら彼は本当に、俺を恨んでも憎んでもないってことになるんだよ、リボーン。本当に……それで合ってるの……? そんなことって、あるのかな……?」



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