I am. 30

 午後からの視察先は、三ヶ月ほど前に買収した水産物加工の工場だった。
 買収といっても友好的な取引であり、何のトラブルもこれまで起きてはいないが、新しい経営者が現場を気にかけているというアピールは、様々な問題の発生を未然に防ぐ効果がある。
 ゆえに、よほどの遠方でない限り、こういった新規に取得した現場には極力、ドン・ボンゴレ自身が赴くことが慣例になっていた。
 そんなわけで綱吉がこの工場を訪ねるのは初めてだったが、隼人自身も、書類で詳細は確認していても、この工場に足を踏み入れたのは初めてである。
 通常、買収されるような工場は何かしらの問題を抱えていることが多く、この工場も大規模な設備投資が裏目に出て資金繰りが悪化し、リストラを重ねた挙句に身動きが取れなくなってボンゴレに買収された。
 そして、買収後のボンゴレは、余剰設備を整理し、従業員を雇い直して操業を再開したのである。
 それから三ヶ月、隼人が綱吉と共に見た工場内は清潔で、従業員たちの表情も明るく、労働環境が素晴らしく良いことが感じ取れた。
 事務方も、ボンゴレが経営者となってから様々な改善が行われたとかで、この三か月分の様々な伝票類や帳簿等はきちんと整理されている。
 この調子で管理されてゆくのなら、市場の動向を読み間違えない限り、経営そのものも順調に伸びてゆくだろうと思われた。

「悪くない感触でしたね」
「うん、いい感じ。いつもこういう風だと楽なんだけどなぁ」
 視察を終えて車に乗り込み、後部座席に落ち着いたところで隼人が切り出すと、綱吉も同感とばかりにうなずく。
「今回は例外。いつもはね、もう少してこずるんだよ。現場の工場長が困った人間だったり、原材料や製品の横流しをしてる下っ端がいたり……」
「──確かに、そういう小者の尻尾を掴むのは、案外に難しかったりしますね」
「うん。小さなネズミ一匹、簡単そうでそれが簡単じゃないんだよね。小さい分、こそこそ用心深く立ち回るのが上手かったりして……。今回はリストラのし過ぎで、従業員がろくにいなかったのが逆にラッキーだったよ」
「はい」
 うなずきつつ、隼人は窓ガラス越しに周囲の風景を確かめる。
 ボンゴレの総本部から約2時間の距離にある視察先の工場は、港に隣接した立地であるため、辺りの建物は工場や倉庫のような建物が多かった。
 工場地帯と呼べるほどの地域ではないため、それらはどれも大きくはなく、古びて潮風に錆が浮いている。
 その間を縫って走る道路は、いずれもトラックが行き来できるギリギリの幅で曲がり角も多く、決して走り良くはなかった。
 付近の海からは、格別な何かが取れるわけではないし、町の規模自体も大きくはない。
 利潤に敏感なボンゴレがこの港湾地域に初めてまとまった金額を投資したのが、今回の工場の買収という事実が、この町の平凡さ、あるいは発展性の無さを端的に示している。
 だが、今回の工場の操業再開で、新たに賃金を得ることになった人々が、町の商取引を刺激することができれば、そこからまた何かの芽が出るかも知れず、その内容によっては次のボンゴレの投資を呼び込むこともできるかもしれない。
 この町に利益をもたらし、ボンゴレにも利益をもたらすことのできる形とはどんなものがあるか、と思案しながら窓の向こうの景色に視線をめぐらせる。
 ───その時。

「伏せろっ!!」

 不意に血相を変えた声で綱吉が叫び、隼人のスーツの上腕を乱暴に掴んで、自分も身を低くしながら座席に引き下ろす。
 隼人が反応すると同時、半秒遅れて耳障りで硬質な、悪意に満ちた雹が降り注ぐような音が車体の側面に響くのを聞きながら、隼人もまた、叫んでいた。
「止まるな! 走り抜けろ!!」
 ここで車体が停まったら、襲撃者の格好の的になるだけだ。裏社会に十数年間、身を置いてきた者ならではの脊髄反射による指示だったが、それは運転手も同じだった。
 端然とした印象の強い壮年の運転手は、隼人が言葉を終えるよりも早く猛然とアクセルを踏み、それまでの丁寧な運転とは人が変わったような勢いで、味方の後続車さえ遥かに引き離し、ぎりぎりの車幅の細い道を猛り狂った悍馬のように駆け抜ける。
 だが、襲撃者はどれ程の執拗さで、ドン・ボンゴレの命を狙ったのか。
 角を一つ曲がるごとに、短機関銃の、あるいはアサルトライフルの銃弾が襲ってくる。その繰り返しが何度も続き、自分たちが身を預けているのが乗用車としては規格外れに剛性を上げてある特別仕様のドン・ボンゴレ専用車であると分かっていても、背筋に脂汗が滲む。
 ようやく銃声が絶え、五感に届くのが獰猛なエンジン音ばかりになったのは、港湾地域を抜けて寂れた印象の市街地に入った後だった。
 それでも車はスピードを緩めず、見通しの良い海岸沿いの国道に出てやっと速度を落とし始める。
 エンジンの回転音が落ちたことで隼人はそのことに気付き、伏せていた身を起こした。
「十代目、大丈夫ですか」
 反射的に我が身の下に庇ったままだった綱吉が身を起こすのを手伝いながら、ちらりと腕時計を見やる。視察先の工場を出てから十二分。前後の移動時間を考えると、実質の襲撃時間は五、六分というところか。
 体感時間がひどく長かったのは、こういう時の常であり、襲撃時間の短さは驚くことではなかった。たかが五分でも、ばら巻かれた銃弾の数は数百発、あるいは千を越えていたかもしれない。
 改めて見回せば、特殊コーティングを何層にも施した特殊防弾ガラスにも、幾らかひびが入っている。持ちこたえたのだから良かったが、もう少し襲撃が激しく、あるいは長ければ、危うかっただろう。
 敵が撤甲弾を使用しなかったのが幸いというべきであり、今でも、この状態の防弾ガラスにライフルを撃ち込まれたら、およそ命は無い。
 だが、その件について隼人が口を出す必要はなかった。
「十代目、あと十分程で代車が参りますので、乗換えをお願い致します」
 先程から携帯電話で低くやり取りをしていた運転手が、通話を終えて声をかけてくる。
 何事もなかったかのような落ち着いた運転手の声に、身を起こしてシートの背に体を預け、何やらを思案しているようだった綱吉も、分かった、と静かに答えた。
 その平静なやり取りに、慣れている、と隼人は感じる。
 綱吉は無論のこと、この運転手も敵の襲撃を受けたのは今日が初めてではないのだろう。綱吉の性情がどうであれ、暗黒世界に君臨する帝王であることには変わりなく、その姿を目障りと感じ、憎む者は数知れない。こんな襲撃は、既に彼の日常の一部となっているのかもしれなかった。
 だが、それにしても、と隼人は考える。
 少しばかり、綱吉が静か過ぎる気がした。普段の彼なら隣りに居る隼人に対し、一言二言、声をかけても良さそうなものなのに、先程、運転手の言葉に応えた以外は全く声を発していない。
 無論、襲撃に慣れている様子とはいえ、多少のショックはあるのだろう。顔色は決して良くはない。
 血の気の薄い唇を真っ直ぐに引き結び、何かを一心に考えているらしく、運転席の背を──宙の一点を見つめている。
 敵の正体か、あるいは、今後の処置か、どれ程の被害を受けたか知れない後続車の部下か、それとも他の何事かについてか。
 彼が何を思っているのかは想像もつかなかったが、その真剣さに声をかけるのも憚られるような気がして、隼人はそっと視線を外した。
 そのまま十分後、運転手の言葉通りに黒塗りの代車と落ち合い、運転手共々、三人は車を乗り換える。
 降車して、改めて眺めてみれば、車は酷い状態だった。官能的なほどになめらかなラインを描いていた前後のドアもボンネットもルーフも、稚拙な芸術作品のように激しい凹凸がつき、塗装があちらこちら剥がれてしまっている。
 四本のタイヤも、至る所から自動修復用の樹脂がこれまた前衛芸術のような染みを作っており、まさに満身創痍という表現が相応しかった。
 こういう状況を想定して誂えられた特別車両ではあるが、この姿を見ると、命を守られたということがつくづく実感できる。
 隼人はそれほど叙情的な人間ではないが、おそらくこのままスクラップ工場に直行するだろう車に対し、心の中で感謝の言葉と、十字の祈りを贈らずにはいられなかった。
「隼人」
 全く同じ外装と内装の代車の後部座席に落ち着き、車が走り出すと、やっと綱吉は口を開いた。
「総本部に連絡。被害状況の把握と、報復の準備を。標的はカーシェ」
「カーシェ、ですか?」
 思わず聞き返した声は、明らかに疑問符が付いており、そのことに自分で気付いて内心で舌打ちする。失態だった。
 だが、綱吉は構わず、平坦な声で繰り返す。
「カーシェだよ」
「──分かりました」
 どういう理由で、綱吉がカーシェという小さなファミリーに目星をつけたのかは分からない。しかし、これ以上の異見は認められないだろうと、隼人は言われるままに携帯電話を取り出して、総本部に連絡を取った。
 短く現在の状況と、綱吉の指示を伝えて通話を切る。
 そして隣りを伺えば、綱吉はまた硬質な沈黙の内に沈んでいた。
 まなざしは窓の向こうに向けられているため、表情の半分以上は隼人からは見えない。そのせいもあってか、元から繊細に整った容姿をしているだけに、精巧な彫像のようだった。
 聖人像、あるいは半神像として、どこかの教会か神殿に丁重に安置されていてもおかしくない。
 そう思えるほどに声を掛け難く、触れ難い横顔だった。



NEXT >>
<< PREV
<< BACK