I am. 29

「失礼します」
 短いノックをして、いつものように返事を待たずに室内に踏み込む。
 と、
「あら、隼人」
 予想だにしない甘い女の声に名を呼ばれて、隼人はぎょっと書類に向けていた視線を上げた。
 ボンゴレ十代目の執務室は、賓客用の応接室を兼ねており、かなり広い。
 その執務室の正面奥、巨大なマホガニー製執務卓の向こう側には、いつもと変わらない様子の綱吉が居り、そしてこちら側には、長いストロベリーブロンドの若い女が、くつろいだ姿勢で立っている。
 約九ヶ月振りの再会だが、その印象深い姿を見間違えるはずがない。
「ビアンキ!?」
 名を呼ぶと、異母姉は嫣然と微笑んだ。
「ええ。半年振りね」
「な…にしてんだ、こんなとこで」
「あら、何もどうもないでしょ。ツナとあなたに会いに来ただけよ。聞いてないの? 私とツナは昔からの知り合いなのよ」
「は……」
 そういえば、と隼人は思い出す。
 もともと綱吉は、隼人の個人情報をこの異母姉から聞き出したと言っていた。
 しかし、こんな風に個人的に執務室に立ち入ることができるほど親しいとは、まさか想像もしていなかった。
 せいぜいが、綱吉の元家庭教師であるリボーンを通じての知り合い、その程度に考えていたのだ。
 しかし、室内を見る限り、彼女はこの部屋に単独で入室し、綱吉と直接に言葉を交わすほどの仲であるらしい。
 しかも、二人の様子はかなり親しげで、隼人はそのことに戸惑わずにはいられなかった。
「悪いわね、ツナ。こんな弟で」
「ううん、隼人はすごく良くやってくれてるよ。彼が来てくれて、仕事が本当に楽になったし」
「そう? ならいいけど」
「ホントホント」
 二歳しか違うにもかかわらず、まるっきり保護者の顔で言うビアンキに、綱吉は朗らかに笑う。
 二人とも随分と楽しそうだったが、隼人としては居たたまれないことこの上なかった。
 身内と上司が言葉を交わす場面に行き会うなどという場面は、はっきり言って、かなり痛い。
 けなされるにしても、褒められるにしても、願わくば当人に聞こえない所でやってもらいたい。
 というより、そもそも、この組み合わせで会話などしないで欲しい。普通なら有り得ないのだ、こんな場面は。
 しかし、だからといって、今の隼人になす術はなかった。
 ビアンキはまだしも、綱吉は直属の上司だ。その会話を中断させるような権限は、まったく持ち合わせていない。
 手にしている書類が緊急のものであれば良かったが、いずれも今日中に決裁をもらえれば十分なものばかりである。ビアンキを追い出す理由には、到底足らない。
 もう一つ、これらの書類を綱吉に渡すだけ渡して、この場を立ち去るという逃亡方法もあったが、それはそれで、ビアンキが何を話すか知れたものではない。
 共に暮らしていたのは、隼人が八歳になる頃までだとはいえ、それまで隼人のあれやこれや、子供らしい失敗エピソードを彼女はたんまりと握っているのだ。
 それについては、既に話してしまっているという可能性も当然あるのだが、精神安定上、その分は考えない方がいいだろう。
 ともかくも、どうしたらビアンキをこの場から立ち去らせることができるか。
 何か良い方法はないかと思案していると、綱吉が、不意に目線を向けてきた。
「隼人、それ新しい分の書類だよね?」
「あ、はい」
 呼びかけられ、救われたような気分で執務卓に歩み寄る。
「どれも急ぎではありませんが、今日中に決裁をお願いします」
「って言っても……。今日は午後から視察が入ってたよね。実質、午前中にってことにならない?」
「視察は午後四時までの予定ですから、戻られてからでも十分に時間はありますよ」
「帰ってからなんてヤだよ。俺は定時きっかりに仕事、上がりたいんだから」
 視察先の工場から戻ってきたら、もう六時じゃないかとぼやき、綱吉は軽く溜息をつく。
 そして、ビアンキにまなざしを向けた。
「ごめん、ビアンキ。仕事しなきゃいけないみたいだ」
「そのようね」
 綱吉の断りに、彼女は気を悪くしたようでもなく微笑んでうなずく。綱吉がどれ程多忙であるかは、彼女も十分に承知しているのだろう。
「久しぶりに話せて楽しかったわ。また寄らせてもらうわね」
「うん。リボーンにもよろしく言っておいて」
「ああ、彼なら今日明日中に顔を出すはずよ。パレルモまでは来てるから。市内で何か用事があるらしくって、今日はお前一人で先に行けって言われたの」
「あ、そうなんだ」
「ええ。それじゃあね、隼人。あなたもしっかりやるのよ」
「……言われるまでもねぇよ」
 声は自然、ぶっきらぼうになったが、微笑んだ彼女に頬にキスを贈られれば、こちらも返さないわけにはない。
 十五年も会っていなかったのに、これではうんと仲の良い姉弟のようではないかと思いながらも、じゃあな、と溜息混じりに彼女を送り出し、そして、さて、と振り返ってみれば。
「……何ですか?」
 綱吉が実に楽しげな笑顔で、こちらを見つめていて、隼人はかすかに眉をしかめた。
 彼がこういう表情をした時は、大概、隼人の心情にそぐわないことを口にするのは、これまでの経験で重々承知している。
 案の定、
「やっぱりビアンキとは仲がいいんだね」
 朗らかにそう言われて、隼人は決してポーズではなく深い溜息をついた。
「──良くないですよ」
「そう?」
「はい。つい最近まで十五年間、音信普通だったことは御存知でしょう?」
「それは知ってるけど。でも、連絡を取ってなかったからって、気にかけてなかったってことにはならないだろ?」
 隼人を見つめたまま、同意を求めるように綱吉は小さく首をかしげる。
「俺は昔から、君の話をビアンキから聞いてたよ。彼女がジェンツィアーナの娘だっていう素性を知ったのはカテーナの件が起きてからだけど、そのずっと前、知り合った頃からさ。俺と同い年の弟がいるんだって」
「は……」
 その言葉に、思わず隼人は目を見開いた。
「本当だよ」
 隼人の表情から内心を読んだのだろう。綱吉は、やわらかな笑みを瑪瑙色の瞳に滲ませた。
「いつもじゃないけど、時々ね。特に誕生日とかクリスマスとか、イベントがある時は、君のことを良く思い出すみたいだった。……俺もまさか、こんな形で本物の君と知り合うことになるとは思ってなかったけど」
 さらりと、そして最後の言葉だけは、ほろ苦さを込めて告げる。
 だが、隼人としては、それをどう受け止めればいいのか分からなかった。
 ビアンキが、ジェンツィアーナの娘としてボンゴレに問われる以前から、自分のことを誰かに語っていたなどとは。
 それも、季節のイベントがある毎に、もしかせずとも──懐かしさと悲しさを込めて。
 まさか、という思いが胸に渦巻くものの、それはないと否定はできなかった。
 むしろ、有り得る話だった。
 昨年のクリスマスに会いに来てくれた彼女なら。
 あの二枚の写真を届けてくれた、彼女ならば。
「──ねえ、隼人」
 無言のまま立ち尽くす隼人を、綱吉はやわらかな声で呼ぶ。
「ビアンキは素敵なお姉さんだね」
 俺は一人っ子だから、ちょっと羨ましい、と告げられて。
 獄寺はどう返答したものか、心底困惑する。
 とりあえず、素敵という表現には同意しかねた。
 かなりの美人だとは認めるが、性格的には子供の頃からきつくて、人の話をあまり聞かない傾向があった。
 今は多少改善されたようにも思うが、言いたいことを言う部分はそのままだ。
 だが、彼女がどんな性格の持ち主であれ、自分のことを気にかけているのは、おそらく掛け値なしの真実だった。
 彼女は愛情深い。それはそのまま執念深さにも繋がるが、一度愛したものは、そのまま愛し抜く性分を持っている。
 そして、彼女が愛しているのは、恋人と、亡くなった母親と……腹違いの弟。
 それだけは、多分、間違いない。
「──あんなので良ければ、いつでも差し上げます、と言いたい所ですが、あの性格では十代目に申し訳なくて差し上げられません」
 五秒ほど考えた挙句、綱吉の言葉に応えて出てきたのはそんな言葉だった。
 それを聞いた途端、綱吉は相好を崩す。
「えー、俺はビアンキ好きだけどなぁ。キツイとこもあるけど、根っこは優しいし、リボーンといると可愛いし」
「可愛い、ですか?」
「可愛いよ。本当に恋する女の人って感じで」
「……そんなもんですかね」
「うん」
 はっきりとうなずかれても、ビアンキが恋人といる場面を見たことがないため、何とも応じがたい。
 クリスマス・イヴに見た笑顔からすれば、相手に全身全霊で惚れ込み、幸せでいるのは感じ取れたものの、具体的に『恋人に甘える可愛らしいビアンキ』というものは、想像の範疇外だった。
 だが、綱吉は、
「やっぱり、ちょっと羨ましいよ」
 そう言い、獄寺が持ってきた書類に手を伸ばす。
 その横顔は、改めて見ても穏やかで、兄弟姉妹があることを羨ましがる、それ以上の意味があるようには思えない。
(兄弟があれば重荷を押し付けられるのに、なんて考えるような人じゃねーよな)
 そんなことをちらりとでも思った自分を少し恥じ、隼人はいつものように書類の内容について説明を求める綱吉の声に集中した。



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