I am. 28

「本当は俺、こんな仕事したくないし、あの部屋も好きじゃないんだ。だから、逃げ出す。でも、君がこうして俺を探して見つけてくれるのは、嬉しいんだよ」
「――どうしてですか」
「……子供の頃、かくれんぼをしたことがないから、かな」
 それはよく分からない答えだった。
 かくれんぼ、隠れ鬼は、子供なら誰でもやる遊びだろう。隼人ですら、姉や街の子供たち相手に経験がある。
 だが、彼は静かに前を向いたたまま続けた。
「俺は子供の頃、すっごくどんくさくてねえ。誰にも相手にされなくて、友達が一人もいなかったんだよ。
 本当は一度だけ、幼稚園の頃にかくれんぼをしたことがあるんだけど、その時も、一緒に遊んでた子たちは俺のことだけ探さないで帰っちゃったんだ。
 でも俺はそんなこと全然知らなくて、一生懸命隠れてて、でも日が暮れて暗くなってきてさ。心細くなってわんわん泣いてたら、俺を探してた母親が見つけてくれて家に帰れた」
 しんと静かな打ち明け話に、隼人は返す言葉を見つけることができなかった。
 子供同士ならば、時々ある小さないじめだ。だが、目の前の彼がそんな経験を持っているとは、想像すらできなかった。
 今の彼は、穏やかで美しい、だが一度牙を剥けば何者をも引き裂く黄金の獅子だ。誰もがその前にひれ伏さずにはいられない。
 そんな彼にも、無力な子供時代があったという事実は、衝撃だった。
 けれど、そんなものかもしれないとも隼人は思う。
 彼の優しさは、上に立つ者が──満ち足りた者が与える 慈悲とは、どこか色合いが違う。もっと深く、共感に満ちた優しさだ。
 その優しさの理由が、そんな幼少時の経験の積み重ねからきているのだというのなら、それはそれで納得できる話だった。
「俺のかくれんぼ経験はそれだけだから、今、君が普通に俺を探して、見つけてくれるのが嬉しいんだよ」
「……俺でなくたって、あなたが居なくなれば皆、探しますよ」
 彼が逃走を悪びれない理由の一つは分かったが、その続きについてはまた別の話だ。
 隼人が彼の秘書となって、彼を探すようになったのは、このほんの一月の話で、それ以前は誰かが彼を探していたはずである。もっとも、山本の話によれば、これほど逃走は頻繁ではなかったということだったが。
「うん、探すだろうね。でも君が来る前は、見つかる前に戻ってたから。息抜きはしたかったけど、そのせいで十代目に相応しくないと責めるネタにされるのは嫌だったからさ」
 その言葉で、また一つ、理由が解ける。
 彼が安心して逃走できるのは、隼人が九代目ではなく十代目に忠誠を誓った部下だからだ。
 彼の逃走に渋い顔をしても、無駄な手間を取らされたと怒ったり蔑んだりすることはない。少なくとも、隼人の内にそんな気持ちはない。ただ、何故彼が毎日のように執務室から逃走するのか、それが不思議なだけだった。
「……俺は別に、あなたが執務室から逃走しても腹を立てたりはしません。どうしてなのだろうとは思ってましたが」
「深い理由なんかないよ、別に。ただ、あそこにずっといると息が詰まってくるだけ」
 ほのかに笑んだ声で彼は答える。
 だが、息が詰まると言いながらも、彼は総本部の敷地からは出てゆかない。隼人が書類を持参すれば、必ず内容を確認してサインをする。
 その事実が、彼の内にある覚悟を何よりも雄弁に語っている。
 確かに度重なる逃走も、隼人に見つけられることを喜ぶのも、彼の甘えだと一言で片付けてしまえるかもしれない。
 だが、そうと片付けてしまうには、彼はあまりにもギリギリの所にいるように思える。
 だから、隼人はできる限り素っ気ない口調で、こう答えた。
「別に構いませんよ。あなたが居なくなる度、俺は探しにいきますから。そして、あなたがどこに居ようと、必ず見つけて書類にサインしてもらいます」
 そう告げた言葉に、即答はなく。
 初夏の午後の風が吹き抜けるだけの間を置いて、静かに笑んだ声が返った。
「手のかかるボスで、ごめんね」
「いいえ」
 悪びれてはいない、けれど、いつかと同じ、悲しい諦めをかすかに含んだ声に、はっきりと隼人は答える。
 そして、彼はこのままでいい、と心の底から思った。
 平和な国で愛情深く育てられた、人間らしい寂しさも悲しさも知っているボンゴレ十代目。
 彼が犯罪組織の頂点に立ち続けることは、苦しいことの方が多いのだろう。それでも彼は逃げない。逃げたくてたまらなくても、必ず踏み止まる。
 この人でいい、と思った。
 自分が永遠の忠誠を捧げる相手は、この人で間違っていない。
 ならば、求められる限り、その役割を果たせばいい。それが今の自分のすべきことだった。
「あなたを探すことなんて、手がかかる内に入りません。あなた自身がおっしゃったように、あなたの居場所を推測するのは難しいことじゃありませんから。その点に限っては、俺の能力を信用して下さって結構です」
「――その点だけの、能力に限定?」
「はい」
 彼は、くすりと笑ったようだった。
 その声の響きに翳りはなく、隼人はかすかに安堵する。
 ボンゴレ十代目という至高の立場にある以上、彼が憂鬱を忘れられるのは、常にほんの一瞬でしかないのだろう。今の言葉のやり取りも、その一瞬であればいいと素直にそう思った。
「……うん。でも、それでもいいや。ありがとう、隼人」
「いいえ」
 そこまでのやり取りを終えたところで、本館に辿り着き、西側通用口から二人は中へと入る。
 そして、階段の所で彼は足を止めた。
「ここまででいいよ。ちゃんと真っ直ぐ執務室に戻るから」
「……分かりました。それでは俺は、この書類を各部署に届けてきます。次の書類は四時半にお持ちしますから、それまでは執務室にいて下さい」
「……逃げたら駄目?」
「駄目です。十五分くらい、我慢して下さい」
「仕方ないなあ。まぁ、いいよ。武と世間話でもしてるから」
 肩をすくめて彼は了承し、それじゃあ、と階段に向かう。
「また後でね。それから、今日の書類は四時半のを最後にしてくれると嬉しいな。残業は嫌いなんだ」
「……俺だって好きじゃありませんが、書類については各部署に言って下さい。期限ギリギリの書類を上げてくるのはそいつらですから」
「うーん。そのへんはまだ改善の余地があるなぁ。カイゼン、って英語にはなってるけどイタリア語にはなってないよね。この効率の悪さも、のんきで嫌いじゃないんだけど、最終的に困るのは俺だもんなー」
「この国の気質はカイゼンには程遠いですが、過去にはドイツ人に改善されたF1チームの例もありますからね。やってやれないこともないでしょう。もっとも、フェラーリはそのドイツ人が居なくなった途端、またスクーデリア・デタラメに戻りましたが」
「組織のカイゼンは、監督する人間次第ってことか。まぁいいや、その辺はまた今度考えよう」
 仮結論を出して、それじゃあ、と今度こそ彼は階段を上がってゆく。
 姿が見えなくなるまで彼を見送ってから、隼人もまた、歩き出した。

*     *

「実際のとこ、どうなんだ、ツナ?」
「どうって……何が?」
「あいつンこと。かなり気に入ってるだろ?」
「……そりゃあ、まあ。こっちの予想以上に真面目だし、律儀だし、デスクワークは有能だし。文句のつけようがないよ」
「とっつきが悪くて、愛想がない割に、人の感情には結構敏感だしな」
「うん」
「こっちが距離を取りたい、それ以上聞くなってサイン送ると、絶対に見逃さねーもんな。あいつ自身、踏み込まれたくない領域が大きいせいなんだろうけどさ。俺としては、すげー話しやすい」
「……確かにそういう所、あるね」
「ツナも楽なんじゃねーの、あいつと一緒に居ると」
「──何か、さっきから武の物言い、含みを感じるんだけど」
「そりゃあ、たっぷり含んでるからな」
「……もー。やめてくれよ、そういうの。はっきり過ぎるのも嫌だけど、含みがあるのはもっと嫌だなんだって」
「ツナは薄いオブラートに包んだ物言いが好きだもんなー」
「俺は日本人なの。繊細で曖昧などっちつかずが好きなの。──で? さっきから何を言いたいわけ? ってもう言わなくてもいいけど!」
「──面白ぇなー、ツナ。最近、あいつが絡むと結構別人だぜ。自分で気付いてるか?」
「──もー、うるさいよ。俺も悩んでるんだから、放っといてくれよ」
「あれ、別に悩む必要ねーんじゃねえ? あいつ、嫌いな人間の傍には絶対寄ってかないタイプだぜ。警戒心の強い野良猫そのまんまじゃん」
「……だから、色々あるんだって。俺の中にも」
「──色々考え過ぎだと思うけどな、俺は。あんまり悩むとハゲるぜ」
「……うちはハゲの家系じゃないから、いいんだよ。もー、そろそろ戻ったら? 報告済んだだろ?」
「おう。じゃあ、またな。何か進展あったら教えてくれ」
「………………教えないよ、何にも。っていうより、最初から進展なんかしないし。……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………あー、もうヤだなー……」



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