I am. 27

「俺を信頼されるのは結構ですが、俺が書類の内容を摺り替えて伝えていたらどうされるんです? サインをされる書類だって、一枚目のタイトルを確認されているだけでしょう。
 サインのページの書類が全く別件のものに摺り変わっていないと、どうして言えるんです?」
「それは多分、今この場で、そのクリップボードの書類を上から下まで全部確認しても、君が説明した内容と違うものはないし、サインだって正しく入ってるからだろうね」
「――だから、どうしてそう断言できるんですか」
「じゃあ賭けようか? 今からその書類を全部読んで、一枚でも俺が君から聞いた事実と違うものがあったら、俺の負けでボンゴレのボスの座から降りるよ。で、君に後釜を譲る」
「……止めて下さい」
 どこまでが冗談だか本気だか知れないが、実行されてはたまらない。諦めと共に隼人は自分の敗北を認めた。
 全体としてはともかく、この場は間違いなく自分の負けだろう。
 だが、信頼した方が勝ちというのは、一体どういうことなのか。信じた方が負け。隼人が生きてきた世界はそれが不文律であり、彼もまた、同じ世界の住人であるはずなのだが。
「あのねえ、隼人」
 不条理に悩んでいると、隼人、とまた彼は名前を呼んだ。
 遠い東の果ての国の青空のような、穏やかに澄んだ、やわらかな響きの声で。
「君が何か不正をしたら、俺はきっと分かるよ。いくら君がポーカーフェイスの名人で、嘘の達人でも、きっと俺は分かる。傲慢に聞こえるかもしれないけど、それが俺のたった一つの特技なんだ」
「――たった一つのかどうかはともかく、それは俺も聞いてますが」
 ボンゴレ内部に入るまで知らなかったことだったが、歴代のドン・ボンゴレは異様に勘が鋭く、判断ミスをすることが全くと言っていいほど無いという。
 今現在の十代目も例外ではなく、日本生まれの日本育ちでマフィアに縁なく成長した彼であるのに、重要時に決して判断を誤ったことがない。
 だからこそ、反目する勢力を内部に抱えつつも、彼はドン・ボンゴレの座から引きずり下ろされることなく至高の玉座に君臨し続けているのだという話だった。
「だったら、もう少し信じてくれてもいいんじゃない? 根拠は俺の勘だけだけど、一応、本当に大丈夫だと思って君に全部任せてるんだよ。――それとも、俺に信頼されるのは、そんなに居心地が悪い?」
「そういうわけでは……」
 ない、と言いかけて、言葉が止まる。
 居心地が悪い、と言い切るのは少し違う気がするが、だが、全く違うとも言えない。
 どうにも慣れないのだ。相手が彼だからというわけではなく、信頼されることそのものが。
 だが、それをどう伝えたものか。
 言葉を選びかねて彼を見つめると、深みのある瑪瑙の瞳は、やわらかな光を宿して答えを待っていて。
「――俺は、」
 その目は反則だろう、と心の中で訴えながらも、渋々隼人は白旗を揚げた。
 責められ、なじられるならともかくも、そんな全部を見透かし、許しているような目をされたら、何が何でも真実を話さなければならないような気になってしまう。
 おそらく真実を話さなくても、彼は責めないのだろうが、穏やかな許容は下手に信頼される以上に居心地が悪い。
 ゆえに、隼人はまたもや正直に心情を打ち明けるしかなかった。
「生まれた時からこの世界にいた人間です。ずっと信じた方が負け、裏切られる奴が悪いと思って生きてきました。……ですから、あなたに限らず、誰かに信頼されるというのは慣れないんです。正直、ものすごく困ります」
「――どうして困るの?」
 聞き返す声も、本当に分からなくて尋ねているというよりは、隼人の葛藤を承知した上で、それをやわらかく包み込むような響きで、ますます隼人はたまらなくなる。
「――どうしても、です」
 それ以上は、どうしても答えられなかった。
 どうして口に出せるだろう。どうすれば彼の信頼に応えられるのか、裏切らずに済むのか分からないからだと。
 彼は、隼人にカテーナを遅まきながらも守らせてくれた、いわば恩人だった。
 彼の恩情に対して借りを返さなければという思いもあるし、自分のような人間を必要だと言ってくれるのは、得難い話だという思いもある。
 だからこそ、彼に仕える気になったのだが、しかし、カテーナの住人のような昔なじみならともかくも、縁もゆかりもない誰かに信頼されるのは初めてのことで、どうして彼が自分を信じようとするのか、全く理由が分からない。
 どうして自分のような人間を、と思えば思うほど、彼の信頼を受け止めることが難しくなる。
 そして、受け止められないものを返せるはずがなく、今の隼人は、彼が投げてくる信頼というボールにどう反応することもできず、立ち尽くしているだけの木偶(でく)の坊だった。
 困り果てて口をつぐんだ隼人に、また彼は静かな声を響かせる。
「それじゃあ、俺が君を信頼するのを止めた方が、君に取っては楽?」
「――…」
 はい、と即答しようとして、声が出なかった。
 自分のような人間は信じない方がいい。これまで何度も自分から彼に告げたことなのに、彼の口から出ると、それは礫(つぶて)のようだった。
 彼が自分を信じるのを止めてくれたら。
 きっと楽になれる。こんな風に困惑しなくても済むようになる。
 そうと分かっているのに、うなずけない。
 どうすることもできず、再び固まりかけた隼人の耳に、ふっと彼が微笑む声が聞こえた。
「ごめんね。その方が君が楽だとしても、俺には無理。君がどんなに嫌だと言っても、俺は君を信じるよ。君には多分、慣れてもらうしかない」
「――どうしてですか」
 まなざしを上げて、隼人は彼を見つめる。自分はひどく途方に暮れた顔をしているだろうと思った。
 だが、こんな場面では到底、ポーカーフェイスなど作れない。そこまで器用にはなりきれない。
 しかし、そんな隼人を嘲笑うでもなく、彼は微笑んだ。
「何度も言ったと思ったけど。君はカテーナの件で、俺の気持ちを理解してくれた。それだけなんだよ、きっかけは。でも、結局の所、俺が勝手に信じてるだけだから。君はいつ、俺を裏切ってもいいんだよ」
 信じると言ったのと全く同じ口調で、裏切ってもいい、とはっきり彼は告げた。
「君は、俺が好き勝手してもいい玩具じゃない。君は一人の人間として、俺に復讐する権利も裏切る権利もある。君は君で、好きなようにしてくれていいんだ」
「――俺の方こそ、あなたを恨んではいないと何度も言ったと思いますが」
 またその話かと思いながら、隼人も言い返す。
 この件に関しては、彼は妙に頑固で、隼人が復讐したがっていると信じて疑わないのだ。
 おそらく彼は両親の愛情に包まれて、温かな家庭で育ったのだろう。実父が実母を見殺しにした、そんな家族関係の中で育った隼人の心理など、理解しようにもできないのに違いない。
 だが、実の父親を殺したいほどに憎む息子の心理が分からない彼で良かったとも、隼人は別の部分で思わずにいられなかった。
 彼はこのままでいいのだ。親子間での冷たく濁った憤怒になど無関係の人生であればいい。
 そう心の底から思いながら、隼人は小さく首を横に振った。
「この話は止めておきましょう。多分、堂々めぐりになります」
「――君がそう言うのなら」
 隼人の提案に彼も逆らわず、素直にうなずいてから、小さく首をかしげた。
「で、今処理しなきゃならない仕事はこれで終わり?」
「書類の方は。ですが、山本が報告に上がりたいとの伝言です。四時から十五分ほど欲しいとのことですが……」
「四時? もうあと十五分しかないじゃんか」
「そうですね」
 腕時計の針の位置を確認して眉をしかめた彼に、隼人は冷静に返す。すると、彼は大きく溜息をついた。
「仕方ないなぁ。戻るよ」
 溜息と共にベンチから立ち上がり、池にまなざしをやってから、木立の隙間からのぞく傾きかけた日射しを見上げる。
 それから彼は隼人にまなざしを向けた。
「行こうか」
「はい」
 まるで散歩の続きのようなのんびりとした彼の足取りに合わせて、隼人もゆっくり歩く。
 そして、もう一度、何故彼は執務室から出てゆくのだろうと考えた。
 いっそのこと逃走するのなら、もっと遠くに出てゆけばいい。携帯電話も置いて出てしまえば、隼人は容易に彼を探し出せなくなる。
 彼がしていることは、まるで子供の隠れ鬼だった。見つかることを前提に、決められた狭いエリアの中で身を隠す。そして、見つかってしまったら、よく見つけたね、と笑うのだ。
 何故、何度も何度も、飽きもせずに毎日そんなことを繰り返すのか。
「――まるで隠れ鬼ですね」
 考えるうちに何となくたまらない思いに突き動かされて、思わずそんな言葉が口をついて出る。
 すると、一歩前を歩いていた彼が肩超しに振り返った。
「そうだね」
 主語のない台詞だったのに、持ち前の察しの良さで何の話か察したのだろう。歩きながら隼人を見つめて、やわらかく微笑む。
 そして再び、前方へと向いて言葉を続けた。
「君はいつも俺を見つけてくれるから。それが嬉しいし、安心するんだろうな、多分」
「―――」
 それはどういう意味か、と考えて、毎度の脱走の理由の一端だと気付く。
 だが、見つけられて嬉しいとはどういうことなのか。彼は明らかに、執務室にいることを望んではいないのに。
 隼人がそう思うのと同時に、彼は何もかも見透かしているかのように、静かに答えを明かした。



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