I am. 26

 ボンゴレ総本部の敷地は広大だが、そのうち建物の敷地面積は三分の一ほどで、あとは広大な庭園が締めている。
 種々の様式を取り入れた複雑な庭園は幾つもの区画に分かれ、ありとあらゆる種類の花や樹木や流水、風雅な四阿(あずまや)に神話や伝説を題材にした怪奇彫刻(グロッタ)で彩られており、その中で隼人が目指したのは、総本部の西側にある区画だった。
 その区画では庭園内を巡る流水が池となり、この時期は色とりどりの睡蓮の花が池の半ばを埋め尽くす。
 そして、鬱蒼と茂る木立に囲まれた池を周遊できる小道には所々にベンチが置かれており、その内の一つに隼人は予想通り、目的の人物を見つけた。
「十代目」
 声をかけると、彼はベンチに腰を下ろしたままこちらに顔を向けて微笑む。
「隼人」
 逃走中を発見された犯人にしては、その笑みは随分と晴れやかで、隼人は一瞬、戸惑わずにはいられない。
 いつも彼はこうだった。逃走を悪びれもしなければ、反省してみせることもない。
 探しにきた隼人に嫌な顔を見せるでもなく、まるで待ち合わせでもしていた友人であるかのように迎えるのだ。
 その様子はひどく自然で、そんな彼を見る度に、隼人は何故彼がまるで日課でもあるかのように執務室から逃走するのか、考えずにはいられなかった。
 先程山本は、彼の脱走は隼人に対する甘えだと言ったが、果たしてこれがそんな可愛いものであるのかどうか。
 隼人が見たところ、彼は掴み所がないが決して浅薄な性格でもない。己の立場を重々承知しているらしい彼が頻繁に執務室から姿を消すのは、もっと深い何かがあるような気がしてならないのだ。
 だが、どれほど思考を巡らせたところで、隼人は彼のことをまだ殆ど知らない。彼の中に、山本の言うような極めて浅薄な部分がないと断言できるわけでもなかった。
「今日は早いね。俺が執務室を出てきてから、まだ三十分しか経ってないのに」
「俺が気付いたのは十分前です。その後、ここに来る途中で山本に行き会って、五分ロスしました」
「へえ」
 隼人が愛想なく事実を告げると、彼は目を丸くした。
「じゃあ、実質五分で俺を見つけ出したってこと? よくここが分かったね」
「――運が良かっただけです」
 その返答は、ほぼ嘘だった。
 各部署での研修を終えて、隼人が正式にボンゴレ十代目の秘書となってからかれこれ一月。彼の行動パターンは少しずつ読めてきている。
 季節がうつろえばまた変わるだろうが、今日のこの時間、この天候ならば、この場所にいる確率が一番高いと推測した。それが当たっただけのことだ。
 だが、それを正直に言わなかったのは、奇妙な自己防衛本能が働いたからだった。
 何となくのことで、具体的に何故と説明できるわけではない。ただ、自分の持てるものについて、彼にすべて明かすのは嫌だと感じたのだ。
 これまでにカテーナ絡みで幾つかの事柄について真実を打ち明けてしまってはいるが、すべてを言葉で説明してしまったら、本当に負けが決まってしまう気がした。――元から勝てるような相手ではないし、何が勝ち負けなのかさえ、実の所よく分かってはいないのだが。
 しかし、そんな隼人の内なる葛藤さえ見透かしているかのように、彼は小さく笑った。
「嘘」
「――何がです?」
「運じゃないだろ。俺は基本的に単純で、ワンパタだし。よく晴れて、ちょっと暑いくらいのこんな天気なら、涼しげな水辺で花盛りの睡蓮でも眺めてるはず。そう思ったんだろ?」
「―――…」
 ずばりと言い当てられると、本当に返答に困る。
 かすかに眉間にしわを寄せた隼人に、彼はまた微笑んだ。
「それより、書類は? 急ぎのサインがあるんじゃないの?」
「……分かっていらっしゃるのなら、最初から逃げ出さないで下さい」
「それは無理」
 きっぱりと否定しながら、彼は隼人を手招く。ベンチの隣に座るようにとジェスチャーされたが、どこの世界にボスの隣に腰を下ろす秘書がいるだろう。無視して隼人は、彼の斜め前に立った。
「急ぎの書類は幾つかありますが、最初にこちらをお願いします」
「内容は? 要約して」
 立ったまま告げた隼人を責めることなく、彼は先を求めて問いかける。
「フォルトゥーナ社に買収をかけている件です。交渉が折り合わないらしく、一千五百万ユーロの追加資金の増強を求めてきてます」
 そう答えると、彼は小さく眉をひそめた。
「それは投資に見合う利益があることなの?」
「――フォルトゥーナ社は、アパレルの製造メーカーとしては中堅どころです。悪い買い物にはならないと思いますが」
「そんなの、アパレルの製造メーカーなら、もううちの傘下に幾つかあっただろ? 買収にそれだけのお金をかけるのなら、うちで新しい工場を建てて、新しく二百人分の雇用を生み出す方がいいよ。却下。現状で折り合わないのなら手を引いて」
「はい。では次に、ルッキネリで先週起きた大火災で教会が焼失した件ですが……」
「あ、そっちはケチらなくていいよ。必要なだけの資金を使って。教会だけじゃなくて、被害にあった人たちにもね。下手に彼らに税金がかからないように、その教会かどっかの慈善団体を通すのがいいかな」
「はい」
 うなずき、クリップボードと万年筆を差し出してサインを求める。と、彼はさらさらとためらいのないペン運びで署名した。
 その調子で、持参した十二件の決裁をあっという間に終え、彼は「これで終わり?」と問いかけてくる。
「はい。――ですが、本当に書類の中身をお読みにならなくていいんですか」
「読んだって結論は変わらないよ。っていうより、下手に中身を熟読しちゃうと、返って俺は全然決断できなくなる性格だし。根が優柔不断だから、君の要約を聞いて、ぱっぱと判断するのが一番正しいんだよ、多分」
 困惑まじりの隼人の確認に、あっけらかんと彼は返してくる。
 正直な所を言えば、ここまでの彼の判断は、隼人には妥当だと思えるものばかりだった。自分が彼の立場だったら、多少の理由の差異はあれ、結論はほぼ同じだっただろう。
 だが、それと信頼されるということは別だ。彼のこういう態度は本当に扱いに困る。
 だから、ポーカーフェイスを作るのは止めて、気分のままに苦虫を噛んだ表情で苦言を呈した。



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