I am. 25

「失礼します」
 ノックの後、中からの応答を待たずにドアを開ける。
 このドアに内鍵がかけられていた試しはないし、いちいち許可をするのも面倒だからと、上司から入室についてフリーパスの許可は得ている。
 そんなこの職場のやり方にも随分慣れてきたが、しかしまだ、馴染めないことがある。それはつまり、室内のこの現状だった。
「……またか」
 明るく広い、年代物の家具で統一された重厚な印象の執務室を一瞥して、隼人は溜息を噛み殺す。
 室内はもぬけの殻だった。
 本来ならば、ドアに向かって正面にあるマホガニー製の巨大な執務卓になければならない人影がない。
 歩み寄って卓上を確認すると、積み上げられた書類には一応、全てにサインがされているようだった。
 やることはやったからいいよね、という上司の声が聞こえるような気がして、隼人は眉を小さくしかめる。
 確かにこの積み上げられた書類――午前中に届けた分は、決裁が完了しているかもしれない。
 だが、この広大なボンゴレの総本部全体からボスに対して上がってくる書類は、とめどなく溢れ出す湧き水のようなものだ。ボンゴレそのものが壊滅でもしない限り、決して涸れて無くなることはない。
 しかし、現に書類を決裁する人間は不在なのである。手をこまねいていたら、滞った書類があっという間に溢れ出して決壊してしまう。
 仕方がない、と隼人は手にしていた新たな書類の束を一旦、執務卓上に下ろして、常備してあるクリップボードに、慣れた手付きで緊急を要するものから順番に重ねて挟み込んだ。
 そして、整理し直した書類を片手に執務室を出て階下に降りる。
 本館のエレベーターは何故か建物の端の方にしかないため、自分の足を使って階段を二階まで降りた所で、見知った顔に行き会った。
「よう」
「……ああ」
 気安く日本語で声をかけられて、短く返す。
 この山本武というボンゴレ幹部の青年は、ボンゴレ十代目の昔からの友人だという話だったが、日本生まれの日本育ちという割には、異様なくらいにこの世界に馴染んで見えた。
 今も鞘に収まった長刀を背に負っているのは、どこかのきなくさい、あるいは緊張感の漂う現場に出ていたからだろう。
 なのに、向けてくる表情は飄々として屈託がない。
 日常的に接するようになってからまだ日が浅いため、何がどうとは上手く説明できないが、感情の読み取りにくい黒い瞳といい、飄々としているくせに微塵も隙のない物腰といい、全くもって底が知れないと感じさせる男だった。
「あ、ツナの奴、またいねーのか?」
「ああ」
「そっかー……。俺も報告しなきゃなんねーんだけどなー」
 隼人が手にしているクリップボードに挟んだ書類の束を見て、執務室の現況を察したのだろう。
 だが、山本の呟く声には単なる確認だけではないものが混じっていたような気がして、隼人は青年の顔を見直す。
 と、何かを思う風に見えた山本が、気付いてまなざしをこちらに向けた。
「あ、俺の方は後でも構わねーと思うけど、一応、俺が帰ってきたことはツナに言っといてくんねーか」
「それはいいが……」
 自分と山本の関係を一言でいうのなら、同僚ということになるのだろう。
 だが、これまでずっと一人で何でもこなしてきたために、同僚という存在に対する距離感が全く分からない。
 だから、どこまで何を言ったものかと迷いながら、隼人は相手を見つめた。
「――何か気になることでもあるのか」
 何しろ自分は、ボンゴレに入ってからの日が浅い。
 組織に入ったその日から総本部内の全部署に一週間ずつレンタルされて、フルにこき使われるという荒技を課されたおかげで、組織の概要や主だった構成員の顔は覚えたが、本質から理解していると言えることはまだ殆どなかった。
 ましてや、あの上司のことは殆ど何も知らないに等しい。
 対して、おそらくこの組織の中であの上司について最も詳しい人間は、目の前のこの青年だった。
 自分が気付かなくて、山本が気付いている何かがあるのなら、それは聞いておく必要がある。そう思っての問いかけだったが、山本はそれを察したのだろう。
 大したことではないと、小さく肩をすくめてみせた。
「いや、なんつーか、ちょっと回数が増えてんなぁと思ってな」
「……不在のがか?」
「ああ」
 どう説明したものかと言葉を選ぶように、山本は小さく口元に苦笑を浮かべる。
「ツナは元々、デスクワークが好きじゃねーんだけどな。前はもう少し真面目にあの部屋にいたと思うぜ。でも、最近はいないことの方が多いだろ?」
「……………」
 獄寺が今の職に就いて以来、上司の脱走はほぼ毎日と言って良かった。
 天気が良かろうが悪かろうが、書類へのサインが一段落ついた途端、執務室から逃走する。
 といっても、総本部内の敷地から出ては行かないし、携帯電話も持って出ているのだから、完全な逃亡ではないが、しかし、執務室にいないことには変わりない。
「あ、誤解すんなよ。お前のせいだって言ってんじゃねーから。第一、ツナが逃げ出さないように見張るってのは、お前の仕事じゃねーだろ? 俺が言いたいのはツナの方」
 多分、と前置きして山本は言った。
「ツナはお前に甘えてんじゃねーかな。それがいいのか悪いのかは、俺には分かんねーけどな」
「……俺に甘える?」
 口に出して呟くと、それは異様な響きだった。
 彼は誰かに分別なく甘えるような気質には見えないし、自分もまた、誰かが甘えたいと思うようなやわらかさは微塵も持ち合わせていない。
 ゆえに、相手の言葉の意味が全く理解できず、顔を見返すと、山本は困ったように頭に手をやった。
「変な風に聞こえるかもしれねーけどな。……まあ、俺から見ると、無理はねーって気がする。それにツナは、俺には弱音は吐かねーんだ。頼りにはしててくれると思うんだけどな」
 その言葉尻には、かすかに自嘲も混じっていたかもしれない。だが、それを確認する前に山本は表情をいつもの飄々としたものに戻していた。
「ま、とにかく頼むわ。何でかっつーのは横に置いといて、ツナもお前に面倒みてもらいてーみたいだし」
「――おい…」
 横に置くなよ、と反射的に思ったものの、隼人がそれを口に出すよりも早く、山本は立ち話はここまでだとでも言うように右手を軽く挙げた。
「ツナには、後で報告に行くって言っといてくれ。そーだな、一時間後。四時から十五分くらいありゃいい」
「……分かった」
 隼人に質問をさせないのは、説明する気がないからだろう。そのサインは明確過ぎるほどに明確だったし、上司のスケジュール管理も自分の仕事の内である。
 これ以上の会話は今は無意味だと判断した隼人は、小さくうなずいて山本とすれ違った。
 そして、今の山本の言葉の意味を考えながら更に階下に降り、建物の外に出る。
 空を見上げて日射しの具合を確かめ、風が殆どないことを肌身で感じてから、一つの方角に向かって歩き出した。



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