I am. 22

「隼人」
 中に入ると、部屋の主(あるじ)の顔を見るよりも早く、日本式の発音でやわらかな声に名を呼ばれ、思わず胸がどくんと鼓動を打つ。
 そうだ、と思い出した。
 こんな風に自分を呼ぶのは、彼だけだった。
 今ではルッジェーロ・ジェンツィアーナの名よりも獄寺隼人の名の方が通っているが、この国の人間は、この国の発音でHayatoと第二音にアクセントを置いて呼ぶ。
 母国語の発音であるのに、何故か隼人は、その発音に慣れなかった。
 だが、ドン・ボンゴレは違う。
 日本生まれで日本育ちの彼は、隼人、と第一音に軽いアクセントを置き、母音が際立つすっきりとした発音で呼ぶ。
 それはひどく軽やかで、澄んだ音に聞こえた。
「よく来てくれたね、遠いのに」
「いえ。それほど大した距離でもありませんから」
「そう? 俺だったら五時間もなんて、運転するのにうんざりするけどな」
「運転は嫌いじゃありませんから」
「そうなんだ」
 そういえば、この島に入る時も空便や船便ではなく、車だったっけ、とドン・ボンゴレは軽く首をかしげる。
 そんなことまで知っているのかと思いつつ、隼人はうなずいた。
 半年前、カテーナに戻るに当たって他の移動手段を使わなかったのは、一気に故郷に着くことに抵抗があったのと、また、自分の意志で動かすことができる乗り物以外によって、故郷まで運ばれることに抵抗があったからだ。
 丸二日近くをかけて、自分の運転する車で故郷まで戻る。あの時、その道の先に待ち受けているものを受け止めるには、それだけの行為と時間が必要だった。
「ミラノからの距離に比べれば、相当に近いですよ」
「比べるのがおかしいよ、その距離は」
「ですが、俺はまたこれから、その距離を走るつもりなので」
 そう告げると、ドン・ボンゴレは隼人を見上げて目をまばたかせる。それから、いつもの笑みで微笑んだ。
「……そう。大変だね」
 ドン・ボンゴレの相槌には、数秒の間があり、そのことが微妙に隼人の感覚に引っかかった。返答に詰まるような会話ではなかったはずである。
 だが、違和感の理由を窺うよりも早く、ドン・ボンゴレが執務席の椅子から立ち上がる。
 そして、彼に手振りでいざなわれるままに、隼人は応接セットの方へと移動し、美しい織り生地が張られたカウチへと腰を下ろした。
 改めてドン・ボンゴレに向かい合い、主題に入る前に、と一番最初に言わなければならないと思っていたことを切り出す。
「ドン・ボンゴレ」
「うん?」
「あなたは護衛を置かれないんですか?」
「置かないよ」
 即答だった。
 昼食を食べたかどうかを聞かれたよりも軽く答える彼に、獄寺は反射的に溜息をつきそうになるのをかろうじて抑える。
「ドン・ボンゴレ。部外者の俺がこんなことを言うのはおかしな話ですが、無用心過ぎます」
「そうかな」
「そうですよ。部外者と一対一で会うこともですが、それ以前に、俺をここまで案内人無しに来させるなんて、無謀にも程があります」
「でも、君は真っ直ぐにここに来ただろ。一歩も寄り道せずに」
 至極あっさりと切り返すドン・ボンゴレの声は、やわらかく笑んでいた。
「見張らせてたわけじゃないよ。ただ、君はそうするだろうと思っただけ。で、正解だった」
「……見張らせていたわけじゃないのなら、どうして俺が、どこも覗き見しなかったと分かるんですか」
「んー、勘、かな」
「勘?」
「そう。俺、心理学とかって全然知らないけど、何となくね、目の前の相手が善いか悪いかは分かるんだ。だから、君がどこかに寄り道したら絶対に気付くと思うし、そんなことをする人間だったら、そもそも案内人を省略したりなんかしない」
 その程度には用心してるよ、とドン・ボンゴレは微笑む。
 だが、その答えも微笑みも、隼人を困惑させただけだった。
 そんな風に信用をあからさまにされても困る。自分は誰の信用にも値する人間ではないし、信用されたところで応えられるだけの信義を持たない。
 だから、こう答えるしかなかった。
「あなたは、俺を何か勘違いなさっているんでしょう。俺はそんな正しい心構えのある人間じゃありません」
 隼人の言葉に、ドン・ボンゴレは少しだけ興味深げな表情でまばたきする。
 だが、口に出してはこう言っただけだった。
「……君がどんな人間かについては、俺は論評する気はないけど。今回は、君はどこにも寄り道せずに俺の所まで来た。それはそれで、事実としていいんじゃないの?」
「──それは構いませんが、こういう扱いをされるのは、俺は不本意です」
「じゃあ、見るからに強面(こわもて)の案内人をつけて、俺も護衛に囲まれてる方が良かった?」
「そちらの方が明らかに正しいでしょう」
 そういう態度を見せ付けられれば、返って、そんなものだと受け流しただろう。扱いにくく油断のならない一匹狼として遇されるのには慣れている。
 逆に、こんな風にあけっぴろげに迎え入れられてしまうと、覚えるのは困惑ばかりだ。
 ここまで来て思い知るのも情けない話だが、自分には友好的な人間関係という経験があまりにも少ない。
 親しみを見せ合うような関係に慣れていないから、どんな態度を取れば良いかも判断がつきかねるし、相手をどう捉えれば良いのかも分からなくなる。
 そして、その『分からない』権化であるドン・ボンゴレに対し、警戒心を持つように進言したのは、もちろん応対に呆れ果てたからであるが、一面では、自分にしてみれば精一杯のお節介でもあった。
 これ以上のやわらかさを出すのは、自分には不可能に近い。そう思いながら、隼人はドン・ボンゴレを見つめた。
「……やっぱり君で良かったなぁ」
「は?」
 つくづくとこちらを眺めながらの微笑と脈絡のない言葉に、隼人は思わず眉をひそめる。
「君で良かった」
「……カテーナのお話ですか」
「そう」
 良かった、と言われる心当たりは一つしかない。だから、そう聞き返すと、ドン・ボンゴレはうなずいた。
「俺、そういう勘だけは本当にいいんだよね。君を選んで正解だった」
 言いながら、ドン・ボンゴレは腕を伸ばして、卓上に置いてあったクリーム色の横長の封筒を取り上げる。上質の厚手の紙のそれは、封はされていなかった。
 ドン・ボンゴレはその封筒を手に取り、中から一枚の紙を取り出す。
 それが何であるかは、きちんと表を見るまでもなく察しが付いた。
「君としたい話は幾つかあるんだけど、まずはこれね。今回の報酬」
 応接セットのテーブルに、隼人の方に向けて置かれた小切手は白紙ではなく、既に金額が書き込まれていた。
 だが、ユーロの記号の後の数字にゼロが五つ続く額面を一瞥して、
「要りません」
 と、隼人は答える。
「金のためにやったことじゃありません」
「それは分かってるけど。でも、ボンゴレは君を半年間、ボンゴレの利益のために拘束した。その間の遺失利益として受け取ってもらえないかな」
「受け取れません」
 短く隼人は繰り返す。それは痩せ我慢でも何でもなく、本心だった。
 そんな隼人を、ドン・ボンゴレは美しい瑪瑙の瞳で真っ直ぐに見つめてくる。
 好意を拒絶する隼人に対して、怒りを抱いた風ではない。
 ただ、何故、と真意を静かに問いかけるような深い輝きに、隼人は少しためらった後、観念して心の中の閂(かんぬき)を一つだけ、外した。



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