I am. 16

 ドン・ボンゴレがカテーナへ視察に行く、という知らせが入ったのは、いつかの言葉通り、町がアーモンドの花に覆われ始めた頃だった。
 重苦しい冬空の雲が消え去り、青く晴れ渡った空にシチリアの太陽が眩しく降り注ぐ。
 エトナ山麓で少々春が遅い地方とはいえ、日差しに眩しさばかりでなく暑さを感じるようになるのは、もう時間の問題であり、今はまだ、かろうじて日差しが温かく心地良いと言える、そんな季節だった。
 そして、知らせから十日後。
 カテーナの町は静かにその日を迎えた。




 二台の車で、五人。
 ドン・ボンゴレと、護衛を兼ねていると思われる側近らしい男と、例の凄腕の殺し屋と、管理事務職らしい男が二人。
 それがドン・ボンゴレの一行だった。
 この国に君臨するドンの中のドンの道行きとしては、予想外に少ない人員だったが、もしかしたら当代のドンは、仰々しいことが好きではないのかもしれない。
 確かに彼の持つ独特のしなやかな雰囲気と、そういった重々しい演出は全く相容れないものだった。
 それに、若く、線の細そうな容貌ではあっても、彼には衆目を集める何かがある。
 それは、まなざしの配り方であったり、表情であったり、綺麗に伸びた背筋と歩き方であったり、ささやかな手の動きであったり、そんな全てが、少しでも敏感な人間には彼の内側に秘められたものを知らしめる。
 隼人もまた、彼に町の有力者を紹介し、町のあちらこちらを案内しながら、彼のなめらかな身のこなしから、彼が相当の修練を積んでいることを見て取っていた。
 腕の立つものは、普段歩く時の体重移動からして違う。
 ドン・ボンゴレの動きからは特にこれといった武術の系統は判別できず、おそらく総合的に様々な体術や武器を使った戦闘を叩き込まれているのだろうと思われたが、護衛兼腹心であるらしい背の高い東洋系の青年の動きは、明らかに東洋の古武術の達人が持つものだった。
 隼人も生まれた時から裏世界にいた者として、これまで様々な強さを持つ者たちを見知っている。
 だが、記憶にあるそれらのすべてと比較しても、彼らの身のこなしは別格といってよいレベルであり、こんな化け物クラスがごろごろしているボンゴレに父親は喧嘩を売ったのかと、改めて暗澹たる気分にならざるを得なかった。

「これで市内は大体、ご案内しましたが……」
「うん」
 隼人が告げると、ドン・ボンゴレは満足したとばかりにうなずく。
 二人の会話は、周囲をというよりはカテーナの住人を気遣って、ずっとイタリア語だった。
 日本名を持つドン・ボンゴレは、生粋のシチリア人のようにパレルモ訛りのイタリア語を話す。
 そして隼人もまた、故郷を離れていた十五年余りの間、その殆どを本土の中部から北部で過ごし、標準語のトスカーナ方言を使っていたのに、故郷の訛りを忘れ去ることができなかった。
 そんな二人が、シチリアの片田舎で、土地の言葉で会話をしている。その光景はどこか滑稽であると、心のどこかで隼人は思った。
「十分に見せてもらったよ。うちが送ったお金も、上手く町のために使われているようだし。もうカテーナは大丈夫かな」
「はい。そのつもりです」
 隼人の言葉に微笑んでうなずき、ドン・ボンゴレは周囲を見渡す。
 今、一行がいるのは町の広場だった。
 教会と市役所、そして昔ながらの商店が周囲を取り巻いており、町のシンボルとして一本だけ、アーモンド畑から離れて植えられた木が満開の花を春風に吹き散らしている。
「アーモンドの花が満開の今が、カテーナの一番綺麗な季節かな」
「はい。初夏にはジャカランダも良く咲きますが、町の者にとってはアーモンドが一番です」
 古来からの生活の糧(かて)であり、町のシンボルでもあり。
 アーモンドの花が咲くと、町の住民たちは春が訪れたことを実感する。それはおそらく、何百年も前から変わらないカテーナの町の風景だった。
 その思いを込めて告げた隼人に、ドン・ボンゴレはまっすぐなまなざしを向ける。
「カテーナはいい町だね。決して豊かではないけれど、人々は町を誇りに思う気概を失ってない」
 春の日差しの下、その目は虹彩の金の筋が光をはじき、綺麗な瑪瑙色に透けていた。
「君も御苦労様。難しい仕事をよくこなしてくれた。心から御礼を言うよ」
「ありがとうございます、ドン・ボンゴレ」
 丁重に返しながら、隼人は体の影でぐっと拳を握り締める。
 とうとうこの時が来た、という思いに知らず、体に力が入る。こんな武者震いのような感覚は、それこそ十代以来の久しい感覚だった。
「俺の功績を認めて下さるのなら、お言葉に甘えて一つ、お願いがあるのですが」
 身の内の震えをぐっと抑え込みながら、まっすぐにドン・ボンゴレの瞳を見つめ返す。
 その隼人のまなざしから、ドン・ボンゴレもまた、視線を逸らさなかった。
「何? 俺にできることなら聞くよ?」
 二人きりの会話ではない。
 ドン・ボンゴレの傍には護衛の男がいるし、少し離れたところにはリボーンもボンゴレの職員二人も居り、更にその周囲にはカテーナの町の住人がいる。
 そして、隼人もドン・ボンゴレも全く声をひそめはしなかったら、二人の会話は居合わせる全ての人々の耳に届いているはずだった。
 静かに一つ呼吸を整え、隼人は口を開く。

「一度だけで結構です。俺と手合わせを」

 その声がしんと静まった石畳に響き渡り、一瞬の間を置いて周囲がどよめく。
 ドン・ボンゴレもかすかに目を瞠ったが、しかし、すぐにうなずいた。
「いいよ。獲物は何?」
「ナイフで」
 素手で、とは言わなかった。
 素手で人間を殺すのは、案外に難しい。プロボクサー並の固い拳で頭部を数回殴れば、致命傷のダメージを脳に与えられるが、少なくとも隼人にはそれだけの技量はなかった。
 それでは意味がないのだ、ただの殴り合いでは。
 互いに命を懸ける、そういう戦いでなければ、意味がない。
 だが、ドン・ボンゴレは武器の選択にも事も無げにうなずいた。
「分かった。リボーン」
 そして、少し離れた位置にいる殺し屋に声をかける。
 と、名を呼ばれた殺し屋は、面倒くさげにダークスーツの上着の内から刃渡り20cm弱の戦闘用ナイフを引き出し、無造作にドン・ボンゴレに向かって投げた。
「刃毀れさせたら、十倍返しで弁償だぞ」
「分かってるって」
 投擲の要領で遠慮なく投げられたナイフの柄を、ドン・ボンゴレは林檎でも飛んできたかのように体の正面であっさりと掴み取る。
 恐ろしい程の動体視力と反射神経であり、また、戦闘用ナイフの扱いにも長けていることがそれだけで知れた。
 もとより勝てると思って申し込んだ勝負でもなかったが、予想以上の強敵だと自嘲しつつ、隼人もまたネクタイを外してスーツの上着のポケットにしまい、その上着そのものを脱いで、住民の輪の中にいたホテルのオーナーに預けた。
 坊ちゃん、と案じる声で小さく昔の呼び名を呼んだレオナルドに小さな笑みを向け、広場の中央に戻りながらホルスターから同じく刃渡り20cm弱の戦闘用ナイフを抜く。
 向かい合って立つと、ドン・ボンゴレは上着を脱がないばかりかネクタイもそのままだった。
 逆に、人前では季節を問わず、まず上着を脱がないこの国で下着に等しいワイシャツ姿になった隼人は、最初から自分の方が分が悪いと宣言しているようなものである。
 だが、それは事実だったから、取り繕おうとは思わなかった。
 捨て身で起死回生を狙うだけの価値がある。これは、そういう戦いだった。



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