I am. 15

「お母様はもちろん、あなたのことを良くは思ってなかったわ。……でも、私はあなたが可愛かったの。
 だって物心付いた時には、もう隣りに赤ちゃんのあなたが居たのよ? 少し大きくなって、あなたが私のお母様のおなかから生まれてきたんじゃないって分かった時には少し混乱したけれど、でも、だからって、あなたを可愛いと思う気持ちは変わらなかった。
 そうね、もっと成長して男と女のことが分かる年頃になってから、あなたが連れて来られたのなら、もう少し嫌悪とかそういうものも生まれたのかもしれないけれど。あなたが私の弟になった時、私はまだ三歳だったのよ」
 そう言い、もう一度隼人の頬を撫でる。
「あなたは私の弟で、たった一人の家族。それだけは、私たちが死んでも変わらないわ」
 間近で見る彼女は、本当に美しかった。
 甘い香りが鼻をくすぐったが、それは隼人に女性の体のやわらかさではなく、遠く懐かしい、根源的な愛おしさを思い出させた。
「隼人。あなたは外見はお父様に似ているけれど、中身は全然違うわ。親子だからって、あなたがお父様の影を引きずる必要はないのよ。あなたはあなたの心が望むままに生きて、誰かを愛せばいいの。私がそうしているように」
 愛、という言葉に、隼人は少しだけ戸惑う。
 隼人が感じたことのある愛は、実質的には、この姉からのものだけだった。
 実の母親の愛情は周囲の人々の言葉から感じ取ることしかできないものであり、彼女の腕に抱かれていた記憶は、思い出したくても思い出せない。
 否、家族以外から与えられた愛情も確かにあっただろう。
 隼人がこの町に戻ってきたのも、結局は幼い頃の思い出があったからだ。
 思い出の中の人々を見殺しにできなかったからだ。
 だが、それでもまだ、愛というものは隼人には遠く、慣れない感情だった。
 その戸惑いを見透かしたのか、ビアンキは小さく笑う。
「いいのよ。今は分からなくても、いつかきっとあなたにも分かるわ。いつか、誰かを本当に好きになった時にね」
 そう言う彼女の微笑みは、きらきらと輝いているようで、隼人は彼女には今、恋人がいることを思い出した。
 一体どういう経緯があったのか想像もできないが、この微笑といい、ここまで彼女を連れてきたことといい、あの尋常ではない殺気を持った男は、ビアンキにとってはきっと優しい恋人なのだろう。
 以前にドン・ボンゴレも言っていたではないか。リボーンは彼女を大事にしている、と。
「……あんたは今、幸せなんだな」
「ええ」
 隼人の確認に、ビアンキは何の躊躇いもなくうなずく。
「そうか。……なら、いい」
 隼人もうなずいて、ずっと触れたままだった彼女の肩から手を離した。
 そんな弟をやわらかなまなざしで見つめ、ビアンキは軽く伸び上がって、隼人の頬にキスを送る。
「Buon Natale, Hayato.」
「ビアンキ……」
「私はお父様を許すつもりはないし、お父様のものを守る気もないけれど、あなたがすることに口出しはしないわ。どこにいても、あなたの幸せを祈ってる。それは忘れないで」
「……ああ」
「それじゃ、また会いましょう」
 優美な動きで隼人から離れ、ドアに向かっていく。
 その後姿に向かって、隼人は、ビアンキ、と呼んだ。
「何?」
 肩越しに振り返った姉に、隼人は言葉を探して短く惑う。
 誰かに感情を伝えるのは、子供の頃から苦手だった。
 だが、言わなければならない。彼女はそれだけのものを今夜、届けてくれた。
 思い切って隼人は口を開く。
「……会えて、良かった。おふくろの写真も。……Grazie e buon natale.」
 言葉にすれば、たったそれだけだった。
 他にもっと言いたいこともあるような気がするし、その数倍の感情が胸の中で渦巻いている。
 しかし、彼女に対して口にできるのは、それが精一杯だ。
 そして、それは彼女も十分に承知していることだったのだろう。
「どういたしまして。Ciao.」
 輝くような魅力的な笑顔を残して、ビアンキは部屋を出て行く。
 そして一人部屋に取り残されて、隼人は執務卓に寄りかかり、大きな溜息をついた。
 全身の力が抜けるようだった。
 突然の再会に驚かされたことが一番ではあるが、他にも理由は色々ある。姉があれほど父親を憎んでいるとは思わなかったし、まさか母親の写真を届けてくれるとは思ってもみなかった。
 そして、もう一つ───。
「……家族、か」
 呟いて、母親の写真を手に取る。
 あの父親とこの母親から自分は生まれ、腹違いながらも愛してくれる姉がいる。
 どれほど切り捨てたつもりでいても、決して断ち切れない何か。それをこの夜に感じ取ってしまった。
 おそらく、幸せなことではあるのだろう。
 記憶にはなくとも、母親は自分に愛情を注いでいてくれた。最後の最後まで愛していてくれた。
 全てを踏みにじったのは、父親だ。
 あの父親は、家族の誰一人、愛人の誰一人として幸せにはできなかった。
 もしかしたら、あの男にも言い分はあるのかもしれない。女性に対して誠実になれなかった理由が、生まれ育った環境のどこかにあるのかもしれない。
 だが、現実としては、家族が誰一人幸せになれなかった。それが全てだ。
「クソったれ……っ」
 吐き捨てて、もう一度、赤ん坊の自分を抱いた母親の写真を見つめる。
 今の自分よりも若い。確か、二十歳だったはずだ。輝かんばかりの若さと愛情に満ち溢れて微笑んでいる。
 生きていてくれたら、と思った。
 彼女さえ生きていてくれたら、自分はここまで自分を見失わずにいられたのではないか。
 世間並みの息子のように、母親を喜ばせようと真っ当に生きる道を選べたのではないだろうか。
 毎日働いて金を稼ぎ、母親の誕生日やクリスマスには花束とプレゼントとケーキを用意して。
 彼女さえいてくれたら、そんな生き方もあったかもしれない。
 だが、彼女はもう居らず、自分も存在意義を見つけられないままだ。
 それでも、生き続けなければならないことだけは、この写真を見れば分かる。
 彼女が最期まで愛し抜いてくれたこの命は、自分の勝手で断ち切っていいものではない。
 それは重く、切ない現実だった。
 そのまま物思いに沈んでいた隼人の耳に、ノックの音が届く。ミランダだった。
「隼人様、そろそろ晩餐の用意が整いますが……」
「……ああ、分かった」
 十五年ぶりのビアンキとの再会を気遣ってか、彼女の表情はいつになく心配げに見える。
 大丈夫だと伝えたかったが、そのまま言っても上手く心情が伝わらないような気がして、隼人はただ、手にしていた母親の写真を彼女に差し出した。
「ビアンキが届けてくれたんだ」
「──まあ! エリカ様の……!」
 思った通り、彼女は目を丸くして写真に見入る。
 見る見るうちに、セピア色の瞳に涙が溜まってゆき、隼人は苦笑した。
「泣くなよ、ミランダ」
「泣きますよ! 泣かずにいられますか、こんなお幸せそうなエリカ様のお写真……!」
 鼻をぐすぐす言わせながら反論するミランダに、隼人は更に苦笑を深める。
 母親は幸薄い女性だったと思う。だが、自分がこれまで思っていたほどに不幸ばかりでもなかったのだろう。
 彼女の写真を見て、こんなにも泣いてくれる他人がいる。それは間違いなく、幸せであるに違いなかった。
「ミランダ、それに合う写真立てを見立ててもらえると嬉しいんだが……」
「ええ、ええ! 私で良ければ素敵なのを探してきますよ。銀色のがいいですね。小花があしらってあれば最高……!」
 隼人の頼みに、ミランダは頬を高潮させて拳を握る。
「このお写真、うちの人にも見せてもいいでしょうか?」
「ああ」
「ありがとうございます、隼人様。それじゃあ、お食事にしましょう。うちの人が食堂で、首を長くして待ってますから」
「分かった」
 うなずき、隼人は寄りかかっていた執務卓から離れる。
 そして、胸に写真を抱き締めたミランダと連れ立って部屋を後にした。

*     *

「お待たせ、リボーン」
「もう気は済んだのか?」
「ええ、ありがとう。ちゃんと伝えたかったことは伝えられたし、プレゼントも渡せたわ」
「そりゃ良かったな」
「ええ。……本当に大きくなってたわ。昔は私より小さかったのに」
「十代前半までは女子の方が成長が早いからな、余計にだろう」
「そうね。でも、中身は変わってなかったわ。負けず嫌いで、突っ張ってるけど、うんと優しい子なのよ」
「……甘っちょろい奴だとは俺も思ったが。ツナのあの程度の脅しで、あっさり屈しやがるんだからな」
「昔からそうなの。身内と他人をはっきり区別する子で、敵に対しては容赦しないけれど、一旦懐に入れた相手にはとことん甘いのよ。そこが私とは全然違うところ」
「お前なら、どんなに脅されようとすかされようと、絶対に折れねーからな」
「ええ。ファミリーだろうがカテーナの町だろうが、どうなろうと知ったことではないわ。……でも、あの子の選択にケチをつける気もない。それに、ツナもカテーナを殲滅したくないんでしょう? だったら尚更、私が口を出す筋合いじゃないわ」
「ツナも甘いからな。一体幾つになりゃ、あの甘ちゃん気質が抜けるんだか」
「あら、私はツナは一生、あのままだと思うわ。あの子の気質こそ、変わるものじゃないのではなくて?」
「──最悪じゃねえか」
「ふふ、そう言いながらも、あなたも分かってるくせに。その甘い部分が、ツナの一番の魅力よ。恐怖と力だけで押さえ込めるほどボンゴレは小さくない……そうでしょ?」
「……面白くねーな」
「どうして?」
「弟子は幾つになっても甘ちゃん気質で、愛人は小賢しいときやがる。ったく、いつになったら満ち足りた平穏な生活を送れるんだか」
「あら、それじゃあ小賢しい愛人が予言してあげるわ。平穏無事な生活なんて、あなたは三日で飽きて、騒動の種を探し始めるはずよ。絶対にね」
「……ったく。ビアンキ」
「はい」
「────」
「────」
「それをやるから、レストランに着くまで黙ってろ」
「……すごく素敵なブレスレットだわ。きらきらして、とっても綺麗。それに、サイズもぴったりよ。ありがとう、リボーン」
「だから、もう黙ってろ」
「──はい」



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