I am. 14

「お母様が亡くなった後、私はすぐに城を出たのよ。あるものだけ、お父様からいただいて」
 あるもの?、と隼人が聞き返す前に、ビアンキは黒革のショルダーバックを持ち上げて開け、中から何かを取り出した。
 カード様の白い何か。
 それを表を返して、執務卓の上に置く。
「お父様の書斎の机の中に、私のお母様の写真と一緒にあったのよ。もちろん、他の女性の写真もいっぱいあったのだけど、他は全部捨ててやったわ」
 傷(いた)まないようにプラスチック製のカードケースに収められた写真。二枚もあった。
 一枚は、長い銀髪の若く美しい少女が、金のトロフィーを手に微笑んでいる姿。
 もう一枚は、幾つか年齢を重ねたかつての少女が、生まれたての赤ん坊を腕に抱いて微笑んでいる姿。
 隼人はもう、声も出なかった。
「いつかあなたに会えたら渡してあげようと思っていたの。今日、私はあなたにこれを届けに来たのよ」
 そう告げるビアンキの声すら、どこか遠くに聞こえる。
 隼人は母親の写真を一枚も持っていなかった。
 古い新聞を図書館で調べた際に、この国際ピアノコンクールで優勝した時の写真は見たが、切り取ることもコピーすることもしなかった。
 ましてやもう一枚の方は、初めて見るものだった。
 病室と思われる明るい白い部屋の中で、赤ん坊を抱いた美しい女性が、この上なく幸福そうに微笑んでいる。
「裏を見て」
 ビアンキに優しい声で指示され、写真を裏返す。
 すると、そこには見覚えのある父親の筆跡で、『199X.9.12. サンタ・エウラリア病院にて』と書かれていた。
 しばしその文字を見つめた後、また表に返す。
 そして、ただその写真に見入った。
 こんな風に、自分は母親の腕に抱かれていたことがあったのか。
 彼女が自分をこんな風に抱いて、微笑んでいたことがあったのか。
 写真の中の彼女は、コンクールで優勝した時以上に幸せそうで、満ち足りて輝いていた。
 ほんの一時であっても、自分の存在は彼女に幸せを与えることができていたのか。
 もしそうだとすれば、それは───。
「それから、もう一つ。あなた、自分が城を出ていった時のことを覚えている? 自分がどんな服を着ていたか」
「服……?」
「そうよ。あなた、綺麗な深緑色のセーターを着て出て行ったでしょう?」
 頭に血が上った子供の家出だったから、当然のことながら用意周到に準備ができていたわけではない。
 その日着ていた服の上に真冬用のコートを着て、手元にあった現金とキャッシュカード(すぐに限度額まで引き出して捨てた)、多少の身の回りのものをボストンバッグに詰め込んで飛び出した。
 今から思えば、実に無謀で無茶な家出だ。
 南イタリアとはいえ春まで凍死せずにすんだのは、幼いながらも裏社会の生まれとして多少の悪知恵が働いたことと、そこそこの現金があったおかげである。
 そんな無計画な行動ではあったが、何を着ていたかについては、実はきちんと覚えている。冬の夜の寒さをしのげたのは、そのセーターのおかげであったからだ。
 山のように詰まれていたその年のクリスマスプレゼントの中にあった、深緑色のアルパカのセーター。
 編み目の詰まったそれはふっくらと温かく、少しサイズが大きめで、翌年の冬まで隼人を寒さから守ってくれた。
 だが、それを自分が着ていたことを、何故姉が覚えているのか。
 それとも、自分の家出は、それほどまでにも姉にとっても衝撃的だったのだろうか。
 一瞬混乱しかけた隼人を、ビアンキの微笑が救った。
「あのセーターはね、あなたのお母様からのプレゼントだったのよ。あなたはちゃんと、お母様からの最後のプレゼントを受け取ったの」
「──え……」
 隼人は目を見開く。
 そんな弟を、ビアンキは遠く懐かしむような、いとおしむような瞳で見つめた。
「私も、あなたのお母様が送ったプレゼントを全部は知らないわ。あのセーターを知っているのは、たまたま、あなたのお母様が、プレゼントの箱を使用人に預けるのを見ていたから。
 それ以外に知ってるのは、七歳の誕生日のリストのピアノ曲集の楽譜くらい。あなた、すごく気に入って、絶対これを引けるようになるんだって頑張って練習していたわね」
「───…」
「他にもいっぱいあったと思うわ。うちの使用人は、あなたのお母様に同情している者が少なくなかったから、預かったプレゼントはちゃんと、他の人たちのプレゼントと一緒にあなたに届けられていたはずよ。
 皆、お父様を怖がっていたから、お父様の言いつけ通りに勝手口でプレゼントを預かるのが精一杯で、誰もお母様があなたに会えるようにはしてあげなかったけれど……」
 そう言い、ビアンキは少しだけ悲しげに微笑んだ。
「ごめんなさいね。あの頃、私がもう少し大人だったら、あなたのお母様のことも、どうにかしてあげられたかもしれないのに」
「…っ、あんたのせいじゃねえだろ……!?」
 思わず隼人は叫んでいた。
「何一つ、あんたのせいじゃねえ! あんただって精一杯だっただろ!? あの城の中で、あのクソ親父と母親と……!」
 そう、彼女もまた必死だったはずなのだ。
 自分を見ようとしない父親と母親との間で。
 ただ一人、あの年のクリスマスまで彼女を姉と慕っていた異母弟を失って、その後の彼女は一体どう過ごしていたのだろう。
 もしかしたらずっと悔やんでいたのだろうか。
 自分がもっと大人だったのなら、異母弟の母親があんな風に命を落とす前に何かをできていれば、と。
「あんたのせいじゃねーよ、ビアンキ! 頼むから、そんな風に自分を責めないでくれ。全部、あのクソ親父のせいにしときゃいいんだ!」
 思わず執務卓を回り込んで、彼女の正面に立ち、その細い肩を両手で掴んでいた。
 そして、その細さに愕然とする。
 別に病的というわけではない。ごく普通の女性らしい肩幅だ。だが、男の隼人にしてみれば折れそうにかぼそく、うんと華奢に感じられる。
 この華奢な肉体で、彼女もまた、家を出たのだ。
 隼人と同じように、父親への憎しみと母親への愛情に胸を焼きながら、どす黒い世界へ身を投じてしまった。
「──畜生…」
 今更ながらに、隼人は父親の罪深さを呪った。
 ビアンキは気性は激しいものの、この美貌だ。社交界の華となって、女王様のように振る舞うことも許されただろう。
 どんな男も望むままで、幸せな結婚もできただろう。
 父親があんなに愚かな男でさえなければ。
「隼人」
 優しい声と共に、ビアンキの細い指がそっと隼人の頬を撫でる。
「こんなに大きくなったのに変わらないわね。あなたは昔から、うんと突っ張っているのに優しい子だった。覚えてるわ。私が熱を出したり、お母様が寝込むたびに、あなたはお庭の花を摘んできてくれた」
「……ガキの頃の話だろ」
「今もよ。あなたはあなたのまま。ちっとも変わってない」
 そう言う彼女こそ、変わっていなかった。
 十五年経っても、身長差が逆転しても、姉弟は姉弟だ。
 隼人が何も知らなかったあの頃のまま、彼女は腹違いの弟を愛し続けてくれている。
「あんたは……最初から知ってたんだな。俺がクソ親父の浮気で出来たガキだってことも……」
「……ええ」
 ビアンキはわずかに目を伏せた。



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