I am. 09

 住人たちからの陳情書に一通り目を通し終え、隼人は小さな溜息と共に立ち上がり、執務室代わりに使っているホテルの一室を出た。
 宿泊している部屋は最上階だが、この部屋は二階にあり、誰でもすぐに上がってこられるし、隼人もすぐに建物の表に出られる。
 フロントに居たオーナー夫人に、「その辺を一周してくる」と声をかけ、表通りに出た。
 外に出ると、秋らしい灰色の雲が上空の大半を覆っており、弱いながらも風があるために少し肌寒い。
 今晩辺り、また天気が崩れるかもしれないと思いながら、隼人は広場を抜け、町の外れへと向かって歩いた。
 隼人がカテーナの町に戻ってから、そろそろ一月が過ぎようとしている。
 何もかもうまくいっているわけではないが、やっとカテーナは少しずつ変わろうとし始めていた。
 隼人が散々に焚き付けたからであるが、これまで何十年、あるいは何百年と耐えるばかりだった貧しい住民たちが、控えめながらも「ここをこうして欲しい」という要望を出すようになってきたのだ。
 先月の終わり、一番最初に隼人に届いた陳情は、二十年も前から壊れたままになっている橋の一つを直して欲しい、というものだった。
 街中を流れる細い川には三つの橋があったが、そのうちの一つは、隼人が幼い頃に嵐による増水で壊れ、残り二つの橋だけでもどうにかなるからと二十年も捨て置かれたままだったのである。
 そのことには隼人もカテーナに戻ってきてすぐに気付いていたのだが、自分からは一切口に出さず、壊れた橋の付近に住む住民たちが言ってきて初めて、予算をどうするかと市長たちを交えて相談の場を設けた。
 ボンゴレに請求すれば、それくらいの資金はすぐにカテーナに対する寄付として送られてくる。
 だが、それでいいのか、と住民たちの間で幾日も議論が続き、出た結論は、橋のかけ直しに必要な資材や機材を購入するための費用だけをボンゴレに借りて、あとは市内の石工や大工が総出で直そうというものだった。
 議論を黙って聞いていた隼人はそれを了承し、即、ボンゴレにその旨を申し送ったのだが、その二日後には市長宛にドン・ボンゴレの署名入り金銭貸借契約書が届き、市役所の口座に要求通りの金額が振り込まれた。
 そして、当然といえば当然の帰結なのだが、結果的にその金が住民たちの目を覚ますことになった。
 ボンゴレはカテーナの暮らしを良くするのに力を貸してくれる。たとえ、それが見え透いた懐柔策であっても、という認識が彼らの中に生まれたのである。
 無論、反発がないわけではない。だが、不満を漏らす輩には隼人は容赦しなかった。厳しい言葉で、ボンゴレの下で生きるのが嫌なら町を出て行けと突き放した。
 そんな日々を一ヶ月繰り返して。
 やっとカテーナは変わる兆しを見せ始めた。
 ジェンツィアーナがなくなった今、どんな風に町を動かしていくのか。どんな町にしてゆくのか。やっと一人ひとりが考え始めたのだ。
 とはいえ、絶望が安堵に変わり、希望や夢を持ち始めると、人間は増長しがちにもなる。
 ボンゴレは刃向かわない相手には手を出さないが、図に乗った傘下の勢力に鉄槌を下さないわけでもない。あくまでもカテーナは、大ボンゴレの新参者なのである。
 その辺りのバランス感覚を、半年間の猶予の間にいかに彼らに培わせるか。それもまた、隼人の重大な役割だった。
 そんなことをつらつらと考えながら、町の中央にある広場から北に向かって歩いてゆくと、少しずつ民家が途切れがちになり、石畳の舗装も消えて、やがてエトナ山へと続く荒れた道に繋がる。
 その途中、町の境界線ギリギリに一本の大きなジャカランダの木があった。
 初夏になると美しい天青色の花をいっぱいにつけるその木の下に、小さな石碑がある。
 白い石の表面に十字架を刻まれたその前に、隼人は立った。

『ERICA GOKUDERA 1971−1999』

 そう刻まれただけの小さな墓石の表面は綺麗だった。
 草に埋もれてしまっていてもおかしくないのに、誰か清掃をしてくれている人間が居るのだろうか、と隼人は考える。
 思い浮かんだのは、ホテルのオーナー夫妻の顔だった。
 彼らならやってくれるかもしれない、と思う。彼らは母親のことも良く知っていたし、彼女に同情も寄せていた。
 もっとも隼人がそれを知ったのは、十五年前、母親が死んだ後のことだったが。
 否、そもそも彼女が死ぬまで、自分を生んだ母親が他にいることなど隼人は知らなかった。
 父親と、その妻だった女性の子供だと信じて、それまで育っていたのだ。
 小さな子供の世界が崩壊した十五年前のその日。
 隼人は、まだ八歳だった。


 ───前夜のパーティーの興奮が冷めやらぬクリスマス当日の朝、当時家族と暮らしていた城の門の傍で、若い女性の凍死体が見つかったと連絡が入り、子供の好奇心で隼人も見に行った。
 やんちゃな子供特有のすばしっこさで人垣をくぐり抜けて、一番最初に目に入ったのは、雲間から差し込んだ陽光に凍りついた粉雪がきらきらと輝く銀色の長い髪だった。
 そして、ただ眠っているだけのような、白く繊細な顔。反射的にミケランジェロのピエタ像の聖母を思い浮かべた。
 彼女がグレーのコートを着ていたせいもあって、純白と純銀でできた彫像のようなその姿に呆然としていると、今度は使用人たちのささやきが聞こえてきて。

『まさか、あれからずっとここにいたのか』
『プレゼントはきちんと例年通り、坊ちゃまに渡すと言ったのに……』
『ここからだと大広間の窓が見える。一目でもと思ったのか』

 最初は意味を成さなかったそれらが、子供ではあってもずば抜けて利発だった隼人の内側で少しずつ形を成してゆき。
 城内の先祖の肖像画にも親戚にもない、自分の銀の髪。
 父親には似ていても、母親にはまったく似たところがなく、それどころか母親には、どれほど家庭教師に出されるテストで優秀な点を取ろうと、どれほどピアノを上手に弾こうと褒められるどころか目を背けられることが多かった現実。
 それらが一つに結び合わさった時。
『お…か…あさま……?』
 自然にそんな言葉が……答えが唇から滑り出た。
 そして、目の前の見知らぬ銀髪の女性に近づこうと、ふらりと足を踏み出し──子供の存在に気付いた使用人たちによってたかって取り押さえられた後の記憶は、しばらくの間途切れている。
 その次の記憶は、凍死体が発見された当日だったのか翌日だったのか判然としないが、城内の誰に彼女の正体を問いただしても、使用人たちも父親の部下たちも全員固く口を閉ざし、最後は父親にしたたかに殴られたことだ。
 だが、殴られたからといって諦めるような性格を、幼くとも隼人はしていなかった。
 ───あの銀の髪の女の人は誰?
 ───どうしてあんな所に居たんだ?
 ───俺は、誰……?
 湧き上がる黒雲のような疑念に胸を焼き焦がされながら、真実を必死に求める子供に、ついに本当のことを教えてくれたのは、カテーナの町で小さなホテルを経営していたレオナルドとミランダの夫妻だった。

『エリカ様は、毎年、坊ちゃまのお誕生日とクリスマスにプレゼントを持っていらっしゃいました。それだけでなく年に数度、こっそりとこのホテルにいらして、広場が見渡せるお部屋の窓から、町の中を元気に駆け回る坊ちゃまを御覧になっていました』

『エリカ様には身寄りがなく、坊ちゃまに絶対に会わない代わりにピアニストとして生きてゆくための援助をする、御館様のそういうお申し出をお断りになれなかったのです。ですが、坊ちゃまを手放された御自分をいつも責めておいででした。人間はどうやってでも生きてゆける、どうしてあの子を渡してしまったのか、と……』

『去年の春に、坊ちゃまに頂き物だと言って、特別に美味しいアーモンドのお菓子を差し上げたことがあったでしょう。坊ちゃまはとても気に入って下さいましたが、あれはエリカ様がここの厨房で一生懸命お作りになったものなんです。坊ちゃまが美味しいとおっしゃって召し上がっている間、エリカ様は食堂のドアの向こうで声を殺して泣きじゃくっておられました』

『きっとクリスマスイブの夜、エリカ様はどうしても坊ちゃまを一目、御覧になりたかったのに違いありません。三日前からこちらにいらしていたのですが、坊ちゃまが風邪気味で町には一度もおいでにならなかったから、今回は諦めてお城にプレゼントを届けて帰るとおっしゃって、夕方頃にチェックアウトされてお車で……。それでも、帰るつもりが、どうしても門の前からおみ足が動かなかったのでしょう』

 必死に子供を思う母親に情を寄せ続けていた夫妻は、カテーナの絶対君主である隼人の父親の命令にも逆らって、自分たちも泣きながら交互に全てを語ってくれた。
 情の深い夫妻にとっては、幸薄い若い女性は妹のような存在だったのかもしれない。
 しかし、いずれにせよ残酷な真実は、子供だった隼人を打ちのめした。
 自分だけ何も知らなかったこと。
 実の母親はもう死んでしまい、一度も面と向かって母と呼べなかったどころか、埋葬にさえ立ち合わせてはもらえなかったこと。
 詰まるところ、母親から幸せを奪い、死に追いやったのは父親と自分であること。
 全てを知った子供には、もう実家での居場所はなかった。そこは悪鬼の巣であり、毒蛇の住まう場所だった。
 怒りのままに父親をなじり、閉じ込められた自室の窓を破って城を飛び出し、そして十五年が過ぎて。
 その間に義母も病で世を去り、憎み抜いた父親も死んだ。
「───…」
 町の教会が管理する共同墓地にではなく、こんな町外れに埋葬された母親の小さな墓を見つめ、隼人は胸の前で十字を切る。
 母親の墓の前に来たのは、カテーナに戻った当日を皮切りにもう数回目だった。
 だが、今回もそれ以上どうすれば良いのかも分からず、墓石にかける言葉も見つからず、途方に暮れたようなやり切れない気分で、複雑な溜息を吐き出す。
 そして、ホテルに戻ろう、と思った時。

「それが、お母さんのお墓?」

 不意にイタリア語ではない台詞が耳に届き、驚いて振り返った。



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