パーティーは楽しいが、やはり少しだけ気疲れする。
 招待客が吟味されていたせいで、他のパーティーに比べれば随分と気は楽だったが、それでも迎賓館を出て夜風を頬に感じた綱吉は、ほっと息をついた。
「お疲れ様でした、十代目」
「うん、君もね」
 宴の後の夜は、いつもより一際静かに感じられる。草むらで虫が小さく、リリ、リリ、と鳴いているのさえ慕わしい。
 庭園のどこかで秋薔薇が咲いているのだろう。淡い甘い香りがほのかに夜風に混じっている。
 ほんのりシャンパンとワインの酔いを感じながら、ゆっくりと二人並んで歩く。こんな夜に言葉は必要ない。
 ただ、どちらからともなく手が伸び、互いの指が絡む。
 夜風に少し冷たくなった手に、互いの体温が優しく、心地良かった。
 そのまま十五分ほどの道のりを、ゆっくりと無言で歩いて。
 静かに主を待っていた館の玄関をくぐり、やわらかく明かりの灯された階段を三階まで昇る。
 そして突き当たり、綱吉の部屋の前で立ち止まった獄寺は、そっと繋いでいた手をほどき、いつもよりもいっそう丁寧な仕草でドアを開けた。
 ───途端。
 溢れかえったみずみずしく甘い香り。
 一歩室内に足を踏み入れて、綱吉は目をみはる。
 室内は薔薇で埋め尽くされていた。
 広い部屋の至る所に大小の花瓶が置かれ、薔薇が生けられている。
 純白、真紅、薄紅、朱赤、アプリコット、クリーム、暗紅、ピンクオレンジ、アッシュピンク、サーモンピンク、ベビーピンク……。
 ありとあらゆる色の薔薇が、それぞれに美しく取り合わせられ、やわらかな照明に照り映えている。
 そして、これほどの薔薇に埋め尽くされているのに、香りはといえば、むせかえるほどではなく甘くすがすがしい。そこまでを計算して花を選択したとしか考えられなかった。
「……君の仕業だね?」
 こんな真似をする人間が他にいるとは、とても考えられない。
 傍らを振り仰ぐと、獄寺は少しばかり照れくささを交えながらも嬉しげに笑った。
「ベタだとは思いましたけど、一度やってみたかったんですよ」
「でもそういうのって、定番は年齢と同じ数の本数じゃないの? これ、二十五×二十五くらいはありそうだよ?」
「だから、やってみたかったんですって。薔薇であなたの部屋を埋め尽くすのを」
 言いながら獄寺は、壁際のマントルピースの傍にある華奢な木象嵌のテーブルへと歩み寄った。
 綱吉もつられるようにそちらへ近づくと、テーブルの上には、また一輪の薔薇が置かれていて。
 長い茎に白いサテンリボンが結ばれたそれを、獄寺は綱吉に向かってうやうやしく差し出した。

「Buon compleanno.」

 ルビーを思わせる真紅の薔薇は、赤い薔薇にありがちな権高さは微塵も感じられず、ただ輝くばかりに美しい。
 そして、それを捧げ持つのは、一部の隙もないタキシードに身を包んだ銀髪碧眼の溜息が出るほどに端正な容姿の青年。
 あまりにも出来過ぎというか、やり過ぎだろうと心の中で溜息をつきながらも、そっとそれを受け取り。
「……馬鹿」
 甘く呟いて、綱吉は獄寺を抱き締めた。
「でも、ありがとう。すごく嬉しい」
 こんなに沢山の薔薇を贈ってどうするつもりなのだとか、薔薇を買わせるために高給を払っているわけじゃないんだとか、突っ込みたいところは幾らでもある。
 だが、獄寺の気持は充分すぎるほどに伝わってきたから、呆れるよりも嬉しさの方が込み上げてくる。
 薔薇は花色によって、それぞれに花言葉があるが、薔薇としての花言葉は唯一つ、今も昔も『あなたを愛しています』だ。
 綱吉の誕生日のためにと思ったら、十本や二十本の薔薇では到底足りなかったのだろう。
 部屋中を埋め尽くす、美しい薔薇の花。
 これが獄寺の気持ちだ。
 そして、こんな馬鹿な真似をしてしまうくらいに、彼の気持ちは綱吉に向かって溢れている。
 そのことがたまらなく嬉しかった。
 少しだけ腕の力を緩めると、そっと頬に温かな手のひらが添えられ、ゆっくりと唇が重ねられる。
 嬉しい。幸せ。愛してる。
 やわらかなキスに想いがいっぱいに満ち溢れる。
 ゆっくりと離れ、甘い余韻を感じながら、綱吉はそっと手を上げて指先で獄寺の頬を撫でた。
「シャワーは一緒に? それとも別々?」
 その艶めいた問いかけに、獄寺は小さく笑った。
「別々にしておきましょう。今夜は特別、あなたを大事にしたいんです」
「いつも特別大事にしてるくせに」
「今夜はもっと特別です」
「そうなの?」
「はい」
 くすくすと笑いながら綱吉は半歩分、獄寺から離れる。そして、正装姿の恋人を頭のてっぺんからつま先まで眺め、正直言えば脱がせたいんだけどな、と心の中でつぶやいた。
 いつも以上に隙がない格好をしているからこそ、乱してみたいし、乱されてみたい。そんな恋人ならではの醍醐味に対する欲は、綱吉も充分に持ち合わせている。
 けれど、まあ正装はちょっとしたパーティーならいつでもするし、と気分を切り替えた。
 今夜の獄寺は、どうやら演出に凝りたいらしい。それなら主導権を任せるのも、恋人としての義務だろうと思われる。
 ならば、とちょっとだけ先手を打ってみた。
「じゃあ、君が先にどうぞ?」
 シャワーの順番を促すと、案の定、獄寺は一瞬反応に困る顔を見せる。
 やっぱり、と綱吉は微笑んだ。
「どうせまだ何か企んでるんだろ? 俺は後からゆっくりシャワー浴びるから、先にどうぞ?」
 重ねてそう言うと、うー、あーと図星を差されてうなりながらも、獄寺は綱吉を抱いていた手を下ろした。
「……俺、そんなに分かりやすいですか」
「うん。君の考えそうなことなんて、十年も前から分かってるよ」
 それを上回るとんでもないことも沢山しでかしてくれるけど、今夜みたいに、と心の中で付け加えながらうなずく。
 と、獄寺は更に少しだけ複雑な顔になった。
「ええと……それは愛だと思ってもよろしいんでしょうか……?」
「多分、そうなんじゃない?」
 くすくすと笑いながら、綱吉は獄寺のタキシードのカラーを掴んで伸び上がり、唇に軽く口づける。
 そして、胸元をぽんと手のひらで叩いた。
「それじゃ、早く行っておいでよ」
「……はい」
 何となく流れを綱吉に握られて複雑なのだろう。喜ぶべきか、不甲斐なさを嘆くべきなのか、微妙な内心を映したままの笑みでうなずいて、獄寺は素直に寝室にあるバスルームへと向かう。
 その後姿を見送り、これくらいはね、と綱吉は心の中で悪戯っぽく呟いた。
 すべて獄寺任せでも充分に幸せなのだが、時々それでは物足りなくなる。詰まるところ、綱吉も性別は立派に男なのだ。
 恋人を可愛がりたいし、時には主導権を握りたい。
 でもまあ、今夜はこんなところかな、と綾布張りのソファーに腰を下ろす。
 手の中の赤い薔薇は、天井と壁のやわらかな間接照明に照り映えて、宝石のように美しい。
 その一際甘い香りを胸いっぱいに吸い込んで、綱吉は微笑んだ。



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