天国まで何マイル? 17

「それじゃあ、またね」
「おう。また月曜になー」
「また何かあったら、いつでも呼び出してくれ」
 夕方のファミリーレストラン前でそれぞれに分かれ、片手を上げて歩き去って行く笹川と山本を見送ってから、獄寺は綱吉に並んでゆっくりと歩き始めた。
「……お兄さんは、予想通りだったね」
「芝生頭は単細胞ですから」
 その分、場合によっては突飛なこともするが、基本的には読みやすい。獄寺にしてみれば、山本よりも遥かに分かりやすい相手だった。
「でも、お兄さんは、イタリア語は本当に勉強しなくても大丈夫なのかな?」
 ちらりと獄寺を見上げて、綱吉が問いかけてくる。
 先程、彼のイタリア語学習をどうするかという話になった時、やらなくてもいいと主張したのは獄寺だった。
「はい。ああいうタイプは机で勉強したところで、身になりゃしません。実践あるのみで、必要があれば野性の本能で覚えますよ。幸い、ボンゴレは基本的に日本語が通じますし、イタリアはボディーランゲージでもどうにかなる国です。それに悪口は、意味が分からなくたって通じますしね」
「そうだね。イタリア人はこっちが一生懸命しゃべれば、理解しようとしてくれるし」
 夏の旅行の時のことを思い返したのか、かすかに微笑みながら綱吉はうなずく。
「はい。それにあいつは、イタリア人好みの底の抜けた性格してます。あからさまに困っていれば、誰彼なく助けてもらえるでしょうよ」
「ああ、それは何となく想像つくなー」
 今度はくすっと笑って、綱吉は前を向く。
 そのまなざしがすっと何かに吸い寄せられ、軽い驚きの表情と共に足が止まった。
「十代目?」
 呼びかけながら素早くそちらへと視線を走らせ、獄寺は綱吉が何を見たのかを確認する。
「あれは……」
「クローム……」
 曲がり角の道路交通標識に軽く寄りかかるようにして、所在なげにたたずむ華奢な少女。
 久しぶりに目にする、うつむきがちの繊細な顔立ちと黒い眼帯の組み合わせは、何ともアンバランスな美しさを生み出しており、黒で統一した服装にもかかわらず不思議に可憐だった。
「ボス」
 近づいた二人に気付いて、クロームもまた細い声で綱吉を呼ぶ。
 片方しかない大きな瞳は、明らかにほっとした様子だった。
「どうしてここに……、もしかして骸に言われて?」
「うん」
 こくりとうなずく様子は、五年前と変わらず世間ずれしていない幼さが残る。
 それはおそらく、彼女が十三歳の時から学校に通うことなく、たった二人の仲間と人目を避けて放浪を続けているためだろう。そうでなければ──世間と関わりを持っていたならば、こんな純粋さが保たれるはずがない。
 そう確信できるほど、彼女の大きな瞳は子供のように真っ直ぐで無垢だった。
「ボスが私に会いたがってるって。ここで待ってなさいって言われたの」
「そっか……」
「ボス、私にお話……?」
「うん」
 昔に比べればクロームの背丈は伸びたものの、せいぜいが日本女性の平均身長くらいだろう。向かい合った綱吉の肩に届くか届かないかという辺りだった。
「難しい話でもないし、君たちにはあんまり関係ない話かもしれないけど……。俺ね、今度の三月になったらイタリアに行くんだ。ボンゴレの十代目として」
「本当のボスになるの?」
「そう。だから、君たちも正式な霧の守護者となる。それで君たちの何かが変わるわけじゃないけどね」
 そう言い、綱吉は年下の少女を真っ直ぐに見つめた。
「多分だけど、俺が正式に十代目になれば、復讐者の牢獄についての情報も多少は得られるようになると思う。だからって、あそこから骸を出してあげることは難しいんだけど……、骸は骸の罪を償わなきゃならないから。
 骸が、理由があっても絶対に許されないことをしたのは間違いないんだ。そしてその罪を、ボンゴレや俺が代わって引き受けることはできない。俺はボンゴレを守らなきゃいけないから。骸が霧の守護者でも、それは変わらない」
「──それは骸様も分かってると思う。出たいとか、出して欲しいとかは絶対におっしゃらないから。……私や犬や千種に、危険なことをさせたくないだけかもしれないけど」
「……うん」
 うなずいた綱吉の瞳は、深い優しさとも悲しみとも取れる静かな光を浮かべていて。
「俺は今の骸には何もできないけど、それでもあいつが君にここで待っているように言ったってことは、骸はこれからも俺の霧の守護者でいてくれるんだって勝手に解釈する。でも、クローム、君はそれでいい?」
「うん」
 綱吉の問いかけに、クロームはこくりとうなずいた。
「骸様が駄目って言ったら駄目だけど、私も霧の守護者のままでいい。……ボスはそれでいい?」
 幼い少女のような問いかけは、私でいい?と問いかけているようだった。
 果たして、綱吉の答えはそれを違えることなく。
「うん。君と骸じゃないと駄目だよ。犬と千種も一緒だと、俺はもっと安心できる」
「……ありがと、ボス」
 綱吉の言葉の温かさを感じ取ったのだろう。表情は殆ど変わらないものの、血の気の薄い少女の頬がほんのりと染まった。
「クローム。困ったことがあったら、いつでも俺のところに来て。何もできないかもしれないけど、できることがあれば手伝うし、その代わりに俺も、君たちに手伝ってもらうことが色々あるだろうから」
「うん」
 うなずいて、クロームは改めて真っ直ぐに綱吉を見る。
「それじゃ、これからもよろしくお願いします、ボス」
「俺こそよろしく」
「はい」
 最後だけ、はい、と答えてクロームは体の向きを変えた。
「それじゃボス、私、もう行くね」
「うん。会いにきてくれてありがとう。骸にも、ありがとうって伝えて」
「うん」
 そして、クロームは小走りに駅の方角へと走り去ってゆく。
 その後姿をしばし見送ってから、綱吉はずっと黙って控えていた獄寺を振り返った。
「──これで守護者全員、揃っちゃったね」
「そうですね」
 正確に言えば、イタリア在住のランボだけは、まだ連絡が取れていない。だが、あの幼くして殺し屋を名乗っていた少年が、今更、雷の守護者の立場を返上するとも思えないから、そういう意味では獄寺同様に確認の必要がない相手である。
 それよりも、獄寺は綱吉の顔に浮かぶ、辛さの潜んだどこか疲れ切ったような微笑の方が気になった。
 だが、それでも綱吉がこれで一通りの事が完了したと考えているのなら、まだ付け加えなければならないことがある。
 綱吉が今日、ここまでの守護者たちとの対話で気力を使い果たしかけているのを分かっていて、敢えてそれを口に出すには全身の力が必要だった。
「十代目、守護者のことは片付きましたが、イタリア行きに関してもう一人、問題のある奴がいます」
「え……?」
 綱吉の目が丸く見開かれる。濃琥珀色の虹彩が地平線に近づきつつある陽光に透け、美しい金色にきらめくのを獄寺は真っ直ぐに見つめた。
「三浦ハルです」
 その名を告げた途端。
 何を察したのか、綱吉の顔から血の気が引いた。
 だが、それを間近に見ながらでも、獄寺は続けなければならなかった。それが右腕ということだった。
「あいつはイタリア留学を計画してます。シチリアには日本人が留学するような学科で目立つ大学はありませんから、可能性としてはローマが高いです。ローマからなら飛行機で一時間でパレルモまで飛べますから」
「な…に……それ……!」
「山本の甲子園の祝勝会で、俺とあいつが話していたのに気付かれませんでしたか。あの時に、俺はあの女から直接、イタリアに行くつもりだと聞きました」
「そんな前から知ってたのかよ!?」
「はい。黙っていたことについてはお詫びします。ですが、ボンゴレのことを考えると、優先順位は守護者の方が上です。それが片付くまでは、こうして黙っているつもりでした」
「なんで……!?」
 真っ青な綱吉の顔には、獄寺に対する怒りよりも裏切られたという衝撃の色の方が濃く浮かんでいる。
 夏の終わりにハルから話を聞いた時から覚悟をしていたことだったが、想像以上にそれは過酷だった。
 今すぐ土下座してアスファルトに頭をすりつけ、謝ってしまいたい衝動と戦いながら、獄寺は声だけは平静に続ける。
「十代目が何をおっしゃっても、あの女は諦めないからです。誰の説得も受け付けません。親が反対したら、自分から縁を切って身一つでイタリアに渡るでしょう。それよりはまだ、留学の方がマシです」
「そんなこと……!」
 彼女が何と言おうと止めなければならない。そんな激しさに満ちた光を、綱吉はまなざしに輝かせている。
 こんな時ではあったが、その輝きを獄寺は何よりも美しいと感じた。
「分かりませんか、十代目。あの女は俺たちと同じです。あなたのためなら、地の果てでも地獄の底でも喜んで駆けてゆく。理屈も何もありません。俺たちやあの女を動かしているのは、感情だけなんです」
「だからって……ハルは女の子だよ!? しかも普通の……ビアンキやイーピンとは違う!」
「確かに出自も育ちも違います。でもボンゴレに、マフィアに関わってるのは事実です。敵から見れば、あいつも十代目の関係者です」
「でもそんな、ハル自身がボンゴレに来るなんて……」
「誰かが押し付けたわけじゃありません。あいつ自身が、何度も危ない目に遭ったくせに自分で選んだ道なんです。分かってやって下さい、十代目」
 分かってやってくれ、などという言葉を使うのは生まれて初めてだった。
 それも、綱吉に対して、女などの為に。
 だが、ハルと綱吉を直接対話させれば、綱吉は更に傷つく。
 そして、ハルではなく、男であり右腕でもある自分に対してなら、綱吉はまともに怒りをぶつけることができる。
 そう考えた上での、選択だった。
 綱吉も、獄寺が今まで一度も口にしたことのない、そして口にしそうにない言葉を告げたことで、その意図を悟ったのだろう。
 動揺しながらも獄寺を見上げる瞳からは、非難の色も憤りの色も、またたく間に消え失せる。
 そのまま重苦しい、張り詰めた沈黙が流れて。
「……そうだね」
 やがて、ぽつりと綱吉が呟いた。
「もし、山本の祝勝会の時に聞いてたら、俺は自分がまだ何も決めてないことを棚に上げて、ハルを止めようとしたと思う。今だって、獄寺君が言ってくれたんじゃなくて、ハルから直接聞いたんだったら……」
「十代目」
「……ハルが真剣に考えて決めたことなら、俺には止められない。俺を誰も止められないのと同じように」
 自分自身に言い聞かせるように言い、綱吉は獄寺を見上げる。
 その瞳はハルの話題を持ち出す前と同じ、ただ、疲れの色が更に濃くなった優しい微笑を浮かべていた。
「ごめんね、獄寺君。君が俺のためにならないことをするわけがないのに。俺は君を責めた」
「いいえ、十代目のお怒りは当然です。俺は独断で、怒られて当然のことをしたんです」
「ううん。君は間違ってない」
 優しくそう言って、綱吉は半歩、二人の間の距離を縮め、右手を伸ばす。
 何を、と驚いてその手の行く先を見つめた獄寺の目線は、ゆっくりとした動きで、己の左手へと届いて。
 ほんのりと温かい指先を手の甲に感じた途端、いつの間にか硬く握り締めていた左手の拳が、蕾が花開くようにほどける。
 そして開いた手のひらは、傷つき、赤く汚れていた。
 ピアノを習い始めた頃からの習慣で爪はいつも短く摘んでいるのに、とぼんやり思う獄寺の耳に、綱吉の声が静かに響いた。
「手当てしないと。ここからだと、君の部屋の方が近いね」



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