天国まで何マイル? 19

 おそらく沢田綱吉という人物は、他人を守ることで自分自身を癒し、精神の安定を得るタイプなのだろう。
 自分で手当てできると言った獄寺を無視して、傷口を水道水で洗い流し、スプレータイプの創傷保護剤を吹き付け終わった頃には、綱吉はいつもの彼に戻っているように見えた。
「はい、終わり」
「ありがとうございます。すみません、お手を煩わせてしまって」
「こんなこと、何でもないよ」
 笑って、救急箱の蓋を閉める。
 そしてソファーの背もたれに体を預け、ほのかに冗談めかした笑みを見せた。
「でも、さすがに今日はちょっと疲れたよ。雲雀さんにお兄さんにクロームに……おまけにハル。覚悟はしてたんだけどなー」
「誰に対しても、お見事でしたよ。十代目の真似は誰にもできません」
「そうでもないと思うけどね。……でも、やっぱり皆で行くことになっちゃったなあ」
「そうですね」
 獄寺からしてみれば自明のことだったが、それくらいは綱吉も分かっていただろう。ただ、彼の性格と立場上、守護者たちの選択を受け止めるには大きな覚悟が必要だったのだ。
 彼らの人生を、丸ごと引き受けるために。
 そして、守護者たちが無残に傷つくかもしれない可能性をも、その身に背負うために。
 それはいかにも彼らしい、優しさに裏打ちされた覚悟だった。
 だが、その優しさは別の面から見れば、綱吉の神経をすり減らすものでしかないのだろう。
 本当に疲れた様子を漂わせて室内を彷徨った綱吉の視線が、ふと、リビングをソファーセットと二分して置かれたグランドピアノに止まる。
 そういえば、しばらく彼の前では弾いていなかったな、と獄寺は思い出した。
「何か弾きましょうか」
 綱吉の返事を聞く前に立ち上がり、ピアノへと向かう。その背中を綱吉の声が追いかけた。
「え、あ、うん……って、手ぇ怪我してるだろ!?」
「これくらい怪我のうちに入りませんよ」
 実際、皮膚の表面がわずかに破れた程度だ。短く切った爪が、肌を深く傷つけることは有り得ない。保護剤を塗布した今は、痛みすらほとんど感じなかった。
 綱吉がそれ以上何かを言う前に、さっさとピアノの天井と蓋を開けて椅子に腰を下ろし、さらりと音階(スケール)を流す。
「何がいいですか?」
「何でも。でも、本当に平気?」
「平気です。リストでもベートーヴェンでも何でも弾けますよ」
 言いながら、獄寺は思い浮かんだフレーズをそのまま弾き始める。
 綱吉の表情はまだ気遣わしげだったが、二十小節も過ぎる頃には心配するのを諦めたらしい。
 ソファーから少し乗り出していた体が、再び背もたれに深く沈むのが感じられた。
「……その曲、初めて聴く気がする」
「はい、正解です」
 高音域をほとんど使わない、低音でゆったりとしたメロディーは哀感を漂わせてリビングに響く。
「この曲は、もともとはスウェーデンのトラッドなんです。パンフルートとピアノとヴォーカルとで演奏してるCDがあるんですが、そのピアノの伴奏が気に入ったんで、それだけを適当にアレンジして……」
「ふぅん」
 獄寺が、耳に残ったメロディーをピアノにアレンジして弾くのは珍しいことではない。そのことは綱吉も知っていることだったから、さして驚く様子もなく、曲に耳を傾けているようだった。
 蒼く冷たい北の海の、流氷に閉ざされた水底をたゆたう大いなる流れのような響きは、遠いこだまにも聞こえる。
 遠く彼方から彼らを呼ぶもの。
 包み込み、攫(さら)い、突き放し、時には癒すもの。
 うねるような左手のアルペジオと右手が生み出すメロディーが、二人のいる世界を満たしてゆく。
「なんか……安心する曲だね」
 ぽつりと呟いた綱吉に、獄寺は、はい、と答え、弾き続けた。
 その曲を繰り返して二度弾き、同じアルバムからの別メロディーを基にした曲を続けて数曲弾く。
 そうして最後の一音を静かに空気に溶け込ませ、手を下ろしてソファーを振り返ると、綱吉は上半身をソファーに横たえて眠っていた。
 先程彼自身が口にした通り、本当に心底疲れているのだろう。
 まだエアコンを入れる季節ではないが、既に日は落ちており、急速に気温は秋らしく下がってきている。
 疲労しているのなら尚更体を冷やしてはいけないと、獄寺は急いで寝室のクローゼットから予備の薄い毛布を取ってきて、綱吉の眠りを妨げないようそっとその体にかけた。
「───…」
 クッションを具合よく枕にした綱吉の寝顔は静かで、目を閉じると案外に長いまつげが目元に影を落としている。
 日本人の平均よりは色素の薄い頬は、なめらかで、触れたら温かそうに見えた。
 温かな指先だった、と不意に先程の記憶が蘇る。
 綱吉が獄寺に触れたのは、あれが初めてではない。中学生時代から五年も傍にいれば、手や肩が触れ合うようなことはかつては日常茶飯事だった。
 だが、思い返してみれば、ここ一、二年は余程の偶然を除いて、手指が触れ合ったことはない。
 獄寺自身が意図的に避けていたこともあるが、おそらくは綱吉もそうだったのだろう。少なくとも、この数ヶ月は偶然すら皆無だった。
 優しく、温かな指先。
 綱吉には何か意図があったわけではないだろう。一度こうすると決めたからには、強靭に貫く意志の持ち主だ。
 ただ獄寺の手が傷ついていて、そのことに獄寺が気付いていなかったから、触れた。それだけの意味だったに違いない。
 けれど、言葉で指摘することなく触れたことには、無意識の何かが彼の中で働いたのではないか。
 ふと、そう思い、そう思いたがっている自分に気付いて、獄寺は綱吉が手当てしてくれたばかりの左手を握り締める。
 改めて見れば、ゆるく結ばれた綱吉の唇は、女性とは違うほのかな色づきで、とてもやわらかそうだった。
 今、この場で口接けたら、きっと怒るだろう。悲しむだろう。
 けれど、心のどこかで喜んではくれないだろうか。
 自分たちが同じものを抱えているのであれば。
(十代目……沢田、さん)
 握り締めた左手の痛みを感じながら、そっと身をかがめかけ───獄寺は動きを止める。
(──駄目だ)
 自分に全ての信頼を預けると言ってくれた。あの時の綱吉の心を裏切ることはできない。
 身勝手な欲望で、彼の高潔な覚悟を傷つけることはできない。
 心を引きちぎられるような思いで、獄寺は一歩退き、綱吉をもう一度見つめる。
(あなたを愛してます。愛してるからこそ、俺はあなたを何一つ傷つけない。そう誓ったんです)
 互いのこの覚悟こそが、彼自身と自分自身を傷つけるのだとしても。
 それは感じてはならない痛み、無視しなければならない痛みなのだと言い聞かせて、そっとリビングを出る。
 この胸の痛みをやり過ごすには、せめて濃いエスプレッソの一杯が必要だった。






 キッチンからかすかに物音が届くのを聞いて、綱吉はそっと目を開いた。
 そして、やっぱりキスはしなかったな、と小さく呟く。
 別に、最初から寝たふりをしていたわけではなかった。
 低く静かなピアノの音に眠りに引き込まれたのは本当で、獄寺が毛布をかけてくれるまでは、本当にうたた寝していた。
 だが、所詮はうたた寝だ。どんなに気配を殺そうと、間近に寄られて毛布をかけられれば目は覚める。
 しかし、そこで正直に目を開けなかったのは何故かと問われたら。
(期待したから、だよな……)
 一瞬の歓びを望んで、彼が罪を背負ってくれることを望んだ。魔が差したとしか言えない。
 とはいえ、キスをされても眠ったふりを続けるつもりはなかった。自分は何も気付かなかったふりをして、獄寺一人に裏切りの罪をなすり付ける気など毛頭ない。
 そして表面上は……否、心の底から本気で怒り、悲しんだだろう。
 自分たちがボスと右腕の関係を超えて特別に結ばれてしまったら、誰に対しても何に対しても言い訳が利かない。
 他者に気づかれなくとも後ろ暗い思いを捨てられないだろうし、知られれば、自分たちの信頼関係は情に流された愚昧(ぐまい)なものと見られ、獄寺も正当に能力を評価されることは難しくなるだろう。
 一つの世界の頂点に立つ以上、そんな弱みを持つことはできない。
 だからこそ、自分たちは決して結ばれない道を選択したのだ。
 それなのに。
 獄寺の存在をすぐ傍に感じた時、触れたいと……触れられたいと思った。
 先程自分が手当てした古傷だらけの手を、自分の手で包みたかった。
 本当に好きな人と、愛し、愛されたかった。
(俺、卑怯だ……)
 込み上げてくるものを唇を噛み締めてこらえる。
 そして、どうにか波が静まったところで、ゆっくりと起き上がった。
 獄寺はまだ戻ってこない。先程の物音からすると、おそらくエスプレッソを入れて、そのままキッチンで飲んでいるのだろう。
 獄寺が出て行ってから五分以上は過ぎている。そろそろ彼も自分を取り戻した頃だろうか。
 綱吉は立ち上がり、ゆっくりと丁寧に毛布をたたむ。
 それから、閉められていたリビングのドアに歩み寄って開ける。その音で、獄寺はこちらの動きに気付くはずだった。
「獄寺君?」
 ごく短い廊下を歩いてキッチンを覗くと、カップをテーブルに置いた獄寺が、こちらへ急ぎ歩いてこようとするところだった。
「十代目。すみません、起こしちまいましたか?」
「ううん、もともとそんな熟睡してたわけじゃないから。毛布ありがとう」
 綱吉の笑顔に、獄寺の瞳も優しさを増す。
「お疲れなんですよ。今日は早く休んで下さい。……そろそろ帰られますか?」
「そうだね。母さんにも今日の夜は家で食べるって言ってあるし。あ、でも、送ってくれるのはいいけど、夕御飯、獄寺君も食べていってよ?」
「……はい。でも俺、今月後半はずっと十代目のおうちで御飯をいただいてるんですけど……」
「うちで毎日、勉強会してるんだから、それは当然だろ。いいんだよ。それに母さんの御飯が食べられるのも、今年の冬までなんだし」
「……そうですね」
「またそんな顔する。申し訳ないなんて思わなくていいんだよ、母さんにも俺にも。それより、美味しいって御飯を食べてあげる方が母さんも喜ぶと思うよ」
「……はい」
 ほろ苦さの混じった微笑で、獄寺はうなずく。
 その彼の心のやわらかい部分が剥き出しになった表情に、綱吉は先程、今以上の痛みを獄寺に背負わせなかったことに心底ほっとした。
 自分の胸も痛んではいるが、耐えられないほどの苦しさではない。
 だが、あの時触れ合ってしまっていたら、それは耐えがたい苦痛となって互いを苛んだだろう。
 そうならなかったことに心底安堵し、それから自分の卑怯さを悔やんだ。
 綱吉が絡むと、獄寺は心を鎧(よろう)ことを忘れて、あまりにもたやすく傷つく。それでいて、決して綱吉を責めたりはしない。
 そうと分かっていて、彼の心を試したり弄んだりするような真似は、彼を大切に思うのなら最もしてはならないことだった。
「それじゃ、行こっか」
「はい」
 綱吉が微笑みかけると、獄寺も笑みを見せる。
 痛みと隣り合わせの、けれど決して欺瞞(ぎまん)ではない笑顔を見交わして。
 二人は連れ立って、部屋を出た。

End.

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