天国まで何マイル? 15

 待ち合わせ場所である駅前のファミリーレストランに行くと、獄寺と山本は隅のテーブルで初級者向けのイタリア語テキストとイタリアのスポーツ雑誌を広げ、伊日辞書を片手に何やらやっているところだった。
 二人の間でどんな話し合いがあったのか、毎週土曜のイタリア語のレッスンに山本も加わることになったというのは、先日の山本との話し合いの翌日に獄寺から聞いていたことだったが、実際にその様子を目の当たりにすると、どうにも違和感がある。
 だが、教えている側の獄寺の様子は別段険悪そうでもなく、山本も集中して異国の文字を眺め、時折何かを質問している。
 そんな、もう少年とは呼べないほどの図体に成長した二人が、生真面目な表情でスポーツ雑誌に見入っている様子は微笑ましいというよりも、もう一回り華やかに人目を引くものであるようで、女性客ばかりでなくウェイトレスまでもが、ちらちらと彼らのテーブルを遠くから覗き見ており、何だかなぁと綱吉も、つい苦笑せずにはいられなかった。
「二人とも、お待たせ」
 ウェイトレスの案内を断って、テーブルに歩み寄りながら声をかけると、二人ともぱっと顔を上げる。
「十代目!」
「雲雀はどうだった、ツナ?」
「あっさりOKだったよ。予想通り」
 二人に笑って返しながら、席を空けてくれた獄寺の隣りへと腰を下ろす。
 そして、注文をとりに来たウェイトレスにコーヒーを一つ頼んだ。
「雲雀さんは、ボンゴレには興味ない人だから。リングのおかげで時々厄介な相手と戦えるのならそれでいいみたいだよ。直接連絡を取れるように、携帯電話の番号とアドレスも教えてくれた」
「そりゃすげーな」
「その雲雀の番号とアドレス、念のために俺も聞いておいてもいいですか?」
「うん。でも、つまんない用事で連絡したら噛み殺すとは言われてるから、連絡を取る時は気をつけてね」
「はい」
 携帯電話のアドレス帳から雲雀の名前を呼び出し、画面を獄寺に向ける。
 と、ちらりとそれを見た獄寺は、手早く自分の携帯電話に番号とアドレスを打ち込んだ。
「OKです。ありがとうございます、十代目」
「うん」
 律儀に礼を言う獄寺に小さく笑みかけて、綱吉は閉じた携帯電話をテーブルに置く。そして、小さなサブ液晶に表示されている時刻を確認した。
「雲雀さんの方が予定より少し早く終わったから、時間が空いちゃったね」
「芝生頭に、二十分早く来るように連絡しましょうか?」
「それはいいよ。時間指定したのはこっちなんだし。コーヒー飲みながら待ってればすぐだろ」
「イタリア語の勉強しててもなー」
 笑いながら山本が、広げたままだったスポーツ雑誌を指先でつつく。
「結構難しいのな。定冠詞とか名詞の性別とか、英語にゃなかったから、今の俺の頭ん中、ちらし寿司みてーにごっちゃになってるぜ」
「ちらし寿司?」
「おう。あ、寿司といえば、またうちに食いに来いよ。親父もツナたちにご馳走してーって言ってたし」
「……そうだね。迷惑でなければ」
「迷惑なんてわけねーだろ。いつでもいいって」
「ありがと、山本」
 小さく笑って、綱吉は答える。だが、心中は複雑だった。
 ここしばらく、山本の父親とは顔を合わせていない。敢えて避けているわけではないのだが、しかし、彼に会ったらどんな顔をすればいいのか、何を言えばいいのか全く見当がつかないのは確かだった。
 二人きりの家族で、息子は父親から離れてイタリアへ──それも、まっとうではない世界へと赴く。
 山本の父親とて殺人剣・時雨蒼燕流の継承者であり、裏社会の冷酷さ残虐さを知り抜いているはずであるが、だからといって息子が同じ道を進むことを本心からよしとしているのかどうか、綱吉には本当のところは分からない。
 彼ら親子が、これからのことを納得しているのならいい。実際、関係者とはいえ他人である綱吉が口出しをする筋合いのことではないのだろう。
 けれど、山本家の問題なのだからとは割り切ってしまえない部分が、綱吉の中にはあった。
 だが、そんな内心の思いを気付かれたくなくて、そういえば、と綱吉は話を切り替える。
「雲雀さんの事務所、なんだかすごい建物だったよ。年代ものって感じで」
「へー」
「階段とか、真ん中の辺りが磨り減ってるんだ。何もかも古いんだけどすごく綺麗に磨いてあって、照明とかもシャンデリアみたいで」
 綱吉の拙い感想に、黙って聞いていた獄寺が微笑んで口を開いた。
「確かに古いものですよ。俺、草壁から住所を聞いた後にちょっと調べてみたんですが、あれは昭和初期の建築らしいです」
「そうなんだ」
 昭和初期というと八十年以上も昔の話だが、確かにそう言われても違和感のないレトロさだった。
「この辺りは当時、生糸の産地で、あの建物は生糸問屋たちの組合会館のような用途で建てられたようです。
 あの建物の中に豪商たちがそれぞれ出張所を構えて、商談や談合をしてたようですよ。
 その後、世界恐慌から日中戦争のどさくさで雲雀家が買い取って、二十年位前まで貸しビル業に使ってたとこまでは確認できました」
 獄寺の説明に、なるほど、と綱吉はうなずく。
「そうなんだ。でも、すごく納得」
「そうですか?」
「うん。すごくお金のかかった建物っていう感じがしたし、アパートみたいにエントランスに郵便受けが並んでるのに、部屋の造りは豪華な事務室みたいな感じで、綺麗で広いけど机と書類棚しかないんだよ。何だかお役所っぽいっていうか」
「ふーん。何だか面白そうだな。俺も見てみてーな」
 好奇心をそそられたらしく、目をきらめかせる山本に、綱吉はうーんと考える。
「見る価値はあると思うけど……、雲雀さんの持ち物だからなー」
「勝手に入ったら雲雀のやつ、怒るかな?」
「うん、それは絶対」
 彼自身が(勝手に)線引きした境界を了解なしに踏み越えられることを、雲雀はひどく嫌う。領域侵犯はすなわち、半殺しの病院送りと同義だ。
 ただ、それが山本であるのなら、何となく生還できそうな気はするのだが。
 特に、時雨金時を持参していれば。
「……まあ、そのうち機会あるんじゃないかな。雲雀さんも一応、守護者だし」
「そーだな」
 楽しみは取っておくか、と山本はうなずく。
「ツナも、今度また雲雀んとこに行く用事があったら、俺を連れて行ってくれな」
「うん」
 綱吉もうなずいて、それからテーブルの上に広げられたままだった雑誌へと目を向けた。
 いかにも山本向けらしい野球の記事にも写真にも何となく見覚えがあって、先週の日曜日に見たやつかな、と綱吉は思い返す。
 あの日は前日に色々あったせいもあって、自分も獄寺も到底雑誌を読む気分ではなく、ただページをめくっていただけで、内容は殆ど覚えていない。
 それでも最新号に野球の代表チームの記事があったことは、イタリアにも野球チームがあるんだな、と妙な感心をした記憶と共にぼんやり意識に残っていた。
「ツナはもうイタリア語、話せるんだよな?」
「日常会話くらいならね、何とか」
「すげーなー」
「でも、学校の英語は相変わらず全然ダメなんだよ。イタリア語の方が多分、簡単なんだと思う」
「ああ、それはあると思いますよ、十代目」
 綱吉の感想に、獄寺が賛同する。
「英語ってのは、イングランドの現地語とフランス語とドイツ語とケルト系のウェールズ語やスコットランド語のちゃんぽんなんです。だから、文法も発音もごった煮で覚えにくいんですよ。
 その点、イタリア語やドイツ語は規則がはっきりしてますから、一度基本を覚えてしまえば全部それでいけるんです」
「そう言われるとそうだね。特に発音とか。意味は分からなくても、とりあえず読み上げることはできるし」
「ああ、それはさっき、獄寺の説明で何となく分かったぜ」
「何となくじゃなくて、きっちり分かりやがれ」
 山本に対しては渋面で、獄寺は集中しろとばかりに長い指先で雑誌のページを叩いた。
「とにかくてめーの集中力だけは、俺は一応評価してるんだ。テスト前日の一夜漬けの気分を思い出せ」
「んー、そうは言ってもなー。明日はテストじゃねーしなぁ」
「月曜にはリボーンさんが待ち構えてるだろうが。あの人、すげーやる気になってるから、てめーも一旦やるっつった以上、ノルマこなしていかなきゃ絶対に殺されるぞ」
「そういやそうだっけ。じゃあ、ちっと真面目にやるかな」
「最初からやれっつってんだ!」
 呆れと軽い苛立ちの混じった声で獄寺は言い、「とにかく丸覚えしちまえ」と記事を指で追いながら読み上げ、日本語訳を続ける。
 そして、並んでいる単語の一つ一つの意味を説明するのを、山本はうなずきながら聞く。
 それから意味を確認し直すように、ゆっくりとした発音で文章を読み上げてゆくのを、綱吉は頬杖をついて微笑ましく見守った。
 山本のイタリア語習得については、綱吉は全く心配していなかった。
 獄寺の言う通り、山本の集中力は頭抜けたものがあるし、獄寺の教え方も要点を押さえていて分かりやすい。おそらく三月の渡伊までには、日常会話には不自由なくなっているだろう。
 むしろ不安があるのは、綱吉自身の方だった。
 イタリア語の会話はともかくも、ボンゴレ十代目として覚えなければならないことが多すぎる。
 今日は守護者たちに会うという名目で講義も休みにしてもらえたが、リボーンが計画しているところを聞きかじった限りでは、年末年始休みも自分たちにはないらしい。
 何もかも自分で選んだことではあるが、早くも泣きの入った気分になっていることは否めなかった。
 そうして、山本が記事の半ページ分ほどまで読み進んだ時。
「すまんな、待たせたか」
 張りのある声が、テーブルのすぐ横からかけられた。



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