天国まで何マイル? 14

「ご無沙汰してます、雲雀さん」
「──そうだね」
 綱吉がそう声をかけると、雲雀はやっと顔を上げた。
 日本人形のような白い肌と対照的な切れ長の漆黒の瞳は、かつてと変わらず鋭く綱吉を射抜く。
 だがもう、その瞳の鋭さに綱吉が萎縮することは無かった。
「お忙しいようですから、手短に用件だけ言います。──俺は高校を卒業次第、イタリアに渡ってボンゴレの十代目を継ぎます。
 それによって、雲雀さんも正式にボンゴレの雲の守護者として認められることになります」
 雲雀は表情を変えることなく、綱吉の言葉を聞いている。
 その指に、雲のボンゴレリングは無い。
 だが、彼がそれを今も身近に持っていることを綱吉は疑っていなかった。
「あなたは俺の雲の守護者です。この地上のどこにいようと、俺がそれを認める限り、そしてあなたが雲のリングを持っている限り」
「ボンゴレの事情など、僕の知ったことじゃない」
「分かってます。でも、現に雲雀さんは、まだリングを持ってます。そして、リングを持っていることで何らかのメリットがある限り、持ち続ける。──そうでしょう?」
 綱吉が言葉を切ると、雲雀はしばらく綱吉の顔を見つめた後、おもむろに机の引き出しを開け、中から何かを取り出した。
 そして、鈍くきらめくそれを摘み上げて、少しばかり面白げな表情で見つめる。
「確かにね。このリングのおかげで、少しは楽しい思いもできたよ。それ以上に、つまらない思いもさせられたけどね」
「これからもそれは変わりませんよ。そのリングを持っている限りは。ボンゴレリングは、厄介事しか運んでこない」
 それは綱吉の本音だった。
 ボンゴレリングは当主と守護者の絆の証でもあるが、別の見方をすれば、絶対的な権威の象徴であり、その所有者が一騎当千の強さの持ち主であるという証明でもある。
 ボンゴレやその当主、あるいは単に強者に対して少しでもよからぬ気持ちを持つ人間にとっては、格好の標的となり得るのだ。
 おかげで綱吉も仲間たち共々、幾度争い事に巻き込まれたか知れない。
 そして、その生きるか死ぬかの壮絶な戦いを、雲雀が楽しんでいたのは間違いのない事実だった。
「俺が、雲の守護者としての雲雀さんに何かを要請することはありません。あなたは好きなように行動してくれればいい。
 戦いたいと思えば戦えばいいし、傍観していたいと思えば傍観していていい。リングはあなたを束縛するものじゃないんです」
「随分と心の広いことだね。そんなのでマフィアのボスが務まるのかい」
「さあ? でも少なくとも、俺が何を言っても、雲雀さんが動くのは雲雀さんが決めた時だけだと分かってますから。無意味な命令をする気はありません。お願いをすることはあるかもしれませんけど」
「ふぅん」
 雲雀の顔に浮かんでいた笑みが、ほのかに深くなる。
 そして、その表情のまま雲雀はわずかに目線を伏せ、雲のリングを右手の中指に通した。
「いいだろう。君が、さぞかし面白い厄介事を運んできてくれることを期待しているよ」
「それはリングに言って下さい。厄介事は俺の意志じゃありません」
 肩をすくめるように答えながら、綱吉は一連の会話にまるで動じていない自分の心を何故だろうと考える。
 それはおそらく、雲雀恭弥の生き方のせいだった。
 綱吉がボンゴレ十代目になろうとなるまいと、雲雀は彼の意思の赴くままに修羅の道を突き進んでゆく。
 それは中学生時代には既に始まっていたことであり、綱吉が口出しする余地のあるものではなかった。
 だから、今も彼を雲の守護者として改めて認定することに、何の良心の呵責も感じないでいられる。
 ボンゴレリングがもたらす厄災ですら、彼を脅かすことは有り得ない。彼は彼のまま変わらない。──そう信じられることが、これほど気分が楽なものだとはこれまで想像したことも無かった。
 ともかく話すべきことは話し、用件も済んだことだから、そろそろ辞去を、と思った時。
 綱吉の背後で、ノックの音が響いた。
「恭さん、ご来客中に失礼します」
 雲雀が答える前に入ってきた低い男の声は、草壁のものだった。
 特徴あるリーゼント頭が綱吉に向かって、軽く、だが十分な敬意を持って下げられる。
「沢田さん、お話中のところを申し訳ありません。少しばかり急な用件が入りましたので」
「俺は構わないですよ。話はもう終わりましたから」
 気にしないで欲しいと辞去を告げようとすると、
「まだ帰るのは早いよ、沢田綱吉。僕の用件が終わってない」
 雲雀が、草壁の持ってきた書類に手早く目を通しながら呼んだ。
「こっちの用件は電話一本で終わるから」
 待っていろ、ということなのだろう。
 綱吉の返答も聞かずに雲雀は、草壁がダイヤルして相手が応答するのを確認し、「お待ち下さい」と電話相手に告げてから差し出した電話の受話器を受け取る。
「──何の用だはこっちの台詞だよ。いい加減、あなたにできることなんか何もないんだと悟ったらどう。──勝手にすればいい。この計画が通ったところで、僕には何の影響も無い。
 但し、これ以上動かれるのは目障りだから、あなた名義の口座は全て封鎖させてもらうよ。あと十分も待たずに一円たりとも引き出せなくなる。
 ──僕の足を引っ張ろうとするのなら、最低でもそれくらいの覚悟をしてからやって然るべきだね。それじゃ」
 取り付く島もない冷淡な口調でそう言い切ると、受話器を投げ捨てるように草壁に渡し、「実行しろ」と一言短く指示を与えてから綱吉へと視線を向けた。
「待たせたね」
「いえ、俺はいいんですけど……」
「今の電話? 気にしなくていいよ。相手は父親だ」
「親……?」
 その単語が雲雀の口から出てきたことを信じられず、綱吉は目を丸くして復唱する。
 雲雀の傍らで、草壁もぎょっとしたように雲雀を見たが、その視線に気付いた雲雀が指先だけの仕草でドアを示すと、彼は少しだけ気がかりそうな顔をしたまま机の上の書類をまとめて持ち、無言で綱吉に向かって会釈して部屋を出て行った。
「父親と言っても、戸籍上だけの話だ。血は繋がってるけど、親じゃない。僕に言わせれば彼は単なる寄生虫だ」
「──…」
 真実、虫けらを語るような口調で言う雲雀に、綱吉は中学生の頃に戻ったように気圧(けお)されて言葉を返せない。
 それを見て取ったのか、雲雀はふっと口元に笑みを浮かべた。
「君は知らないのか。雲雀家の醜聞を?」
「……殆ど何も」
 彼が嫡出でないということは、雲雀の口調からすれば事の要(かなめ)ではないのだろう。だから、用心深く綱吉は答えをぼかした。
「何も知らないで、僕を雲の守護者に指名するとはね。君の鈍感力には恐れ入るよ」
 雲雀の声は呆れているようだったが、どこか楽しげでもあり、そのままの調子で言葉を続けた。
「もっとも、そうは言ってもさほど複雑でもない。戸籍上、僕は雲雀家当主の三男だけど、実の父親は祖父で、父親は兄、兄達は甥というのが正しい家系図だけだという話さ。
 でも僕以外にも、雲雀家の家系図には事実と違うところが複数ある。長兄の母親も次兄の母親も、それぞれ僕の母親ではないし、従姉の母親も戸籍と事実は異なる。
 他にも色々あるよ。女性や子供の人格など認めない時代錯誤の家だから」
 えーと、と綱吉は、雲雀家の家系図を頭の中で組み立て直す。
 結果、出来上がったのは、いささか歪(いびつ)な系図だった。だが、それすら全てではないと雲雀はいう。
 まるで、それらは何の意味も持っていないかのように。
 そして真実、それらは彼に対して何の影響も及ぼしてはいないのだろう。──彼の人格形成に関わる部分以外は。
「いずれにせよ、祖父が死んだ時は僕は二歳で、戸籍上は孫だったから何の財産も受け継がなかった。
 けれ、戸籍上の父親は無能で、受け継いだ財産を有形無形問わず活用するということが一切できていなかったから、僕がもらうことにしたんだよ。
 もっとも彼ら寄生虫は、この期に及んでも諦めが悪いんだけどね」
「もらうことにした、って……」
「その辺を話すつもりはないよ」
 雲雀はくっと笑い、それから右手を差し出した。
「君の携帯電話を出して」
「え? 携帯?」
「そう」
 命令口調で言われ、何だろうと思いながらも綱吉は、条件反射的に上着のポケットから携帯電話を取り出し、二、三歩前へ進んで雲雀の手のひらにそれを乗せる。
 すると、雲雀は二つ折りタイプのそれを開き、手早くボタンを操作して何かを打ち込んだ。
「はい、返すよ」
「ありがとうございます、……って、何ですか?」
「僕の携帯の番号とアドレスを入れておいた。口頭で言って君に入力させるより、この方が早い」
「はあ……って、いいんですか?」
「つまらない用件で連絡してきたら噛み殺すよ」
「……そうでしょうね」
 いつもの雲雀の返答に、何となく安心して綱吉は携帯電話をしまう。
 これまでの経緯が経緯だけに、雲雀が急に友好的になるのは空恐ろしい。辛辣で取り付く島もないいつもの彼の方が、綱吉としてはまだ気楽だった。
「それじゃ、俺はこれで失礼します。会って下さってありがとうございました」
「ああ。またね」
「──はい」
 小さく笑んで、綱吉はレトロで美しい部屋を出る。
 そして、下りにくい階段をゆっくりと下りながら考えをめぐらせた。
 雲雀が雲の守護者であり続けることを承諾するのは予想済みだったし、獄寺や山本もそれには同意していた。
 ただ、今聞かされた雲雀家の事情についてはどうしたものだろうか。
 綱吉が他の守護者たちに話しても、雲雀は気にしないだろう。そもそも家族のことなど、今の彼には何の意味もないことであるのは確かだ。
 けれど、と思う。
 雲雀は、雲の守護者だ。ボンゴレの外で気ままに存在する者。
 雲の守護者がボンゴレの事情に頓着しないのと同様に、雲の守護者の事情もボンゴレには関係ない。
 ならば。
「必要が出てくる時まで、封印、しておくべきだろうな」
 獄寺の家族関係も雲雀ほどではないにせよ複雑であるし、山本も父子家庭で親には独特の感情を持っている。
 そんな彼らに余計なことを考えさせるような話は聞かせたくなかった。
 いずれ話さざるを得なくなることもあるかもしれないが、その時はその時だ。
 そう割り切って、綱吉は建物の玄関のドアを開けて表に出、年代物の建築物をもう一度振り返ってから歩き出した。



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