天国まで何マイル? 12

 がたん、という耳障りな音が、自分が席を立ち上がりかけたからだということに気付くには、数秒が必要だった。
 十代目、と獄寺に少しだけ鋭く呼ばれて、綱吉は、ああ、と糸の切れた操り人形のようにぎこちなくソファーに元通り腰を下ろす。
 その間、まなざしは呆然と山本を見つめたままだった。
 そんな綱吉の表情に、山本は困ったように笑う。
「ツーナー、そんな顔すんなよ。俺だけ仲間外れにする気だったのか?」
「……仲間外れって……」
「仲間外れだろ? 俺は嫌だぜ、お前らが行くのに俺だけ残るなんて」
 朗らかに、けれど明らかに本気を含んだ声で言われて、綱吉は呆然と首を横に振った。
 それをはずみに世界が揺れて、そのままぐらぐらと回り続ける。
 ───そう、これが怖かったのだ。
 ずっと心の片隅で不安だった。
 山本が、あまりにも自分と獄寺を大切にしているから。
 大切なもののためには、彼はあまりにも迷わなさ過ぎるから。
 『一緒に行く』。いつかこの言葉が彼の口から出ることを、ずっと心のどこかで恐れていた。
 そして今、彼との間にあった薄氷はあっさりと割れて消え失せ、昏い淵が顔をのぞかせている。
 底の見えない、沈んでしまったら二度と浮かび上がれない、深い深い淵が。
「仲間外れなんて……そんな気はないよ。でも……俺がイタリアに行くのは、観光や遊びじゃない。何をしに行くのか……俺が何になりに行くのか、山本は知ってるだろ……?」
「ああ、知ってるぜ。だから、俺も行きてーんだ」
 山本の答えに迷いはなかった。
「ツナ、獄寺。俺は、お前らと一緒に居たいんだよ。お前らが楽しい時には一緒に笑いたいし、お前らが困っている時には力になってやりたい。そんなのはダチなら当たり前だ。でも、日本とイタリアじゃ、そうするには遠すぎるだろ?」
「そんな甘い世界じゃねーぞ」
 その言葉に応じたのは、綱吉ではなく獄寺だった。
 冷めた銀の瞳で、山本の本意を測るようにねめつける。
 だが、
「だからこそ、一緒に行くつってんだよ」
 獄寺の険しい視線を受けても、山本は動じなかった。
「俺だって分かってるさ、どんな世界に行くのかくらい。ずっとお前たちと一緒に戦ってきたんだからな」
 言いながら、首元から服に隠れて見えなかったシルバーチェーンを引き出す。
 ややごついそのチェーンに通されたヘッドは。
 雨のリング、だった。
「これは俺のもんだろ? 絶対誰にも譲らねーよ。ツナ、お前が何と言ってもな」
「山本……」
 まだ呆然としたまま、綱吉は親友の名を呼んだ。
「でも……野球は? お店は? おじさんはどうするんだよ……?」
「親父のことは心配ねーよ。ああ見えて、まだ俺に三本に一本は勝つし、店のことも、俺はどうやったって親父以上の寿司職人にはなれねーだろうし。親父は本当に天才だからよ」
 尊敬と誇らしさの混じった口調で父親を評し、そして山本は、左腕のブレスレットへとまなざしを落とす。
 この夏、二人が贈ったメッセージに、いとおしげに指先を触れて。
「野球も、やり切ったよ。この夏の甲子園は地方大会から本戦まで全試合、一つのプレーも手を抜かなかった。
 誰に何と言われたって、先を考えてない馬鹿だの無茶だの言われたって、どの試合も全力で投げて、打って、走った。
 そんで、全試合無失点記録と、全試合打点と、決勝戦の完全試合。目標は全部達成して、真紅の大優勝旗と、これを手に入れた。野球では、もう何にもいらねーよ」
「そんな……大リーグからもスカウトが来てるって聞いたよ?」
 震える声でそう尋ねた綱吉に、山本はおかしそうに笑った。
「あのな、ツナ。俺が大リーグとお前らを天秤にかけると思ってんのか? だったら、ちょっとひでーぞ」
「十代目、何を言っても無駄ですよ」
 獄寺の声が低く、更に反論しようとした綱吉の声を遮る。
 驚いて振り返った綱吉の瞳を、獄寺はいつもよりも少し重く沈んだ色の瞳で見つめ返した。
「この馬鹿は本気です」
「俺が馬鹿なら、お前だって馬鹿だろ、獄寺」
 冷ややかに言い捨てた獄寺の言葉に、山本は笑って言い返す。そして、改めて綱吉を見つめた。
「獄寺の言う通り、俺は本気だぜ、ツナ。俺も連れて行ってくれよ。そんで、お前がやろうとしてることを少しでも手伝わせてくれ」
「───…」
 共に背負うと、修羅の道を共に歩くと、温かな光を浮かべた山本の瞳が告げる。
 綱吉が堪えられたのは、そこまでだった。
「……ごめん、山本……。それから……」

 ───分かっていた。
 山本が、必ず一緒に行くと言うと分かっていた。
 説得できないことも分かっていた。
 何故なら。
 ───心のどこかで、そう言ってくれることを望んでいたから。

「ありがとう……」
 そう告げる声は、嗚咽交じりにしかならなかった。
 堪えきれない涙が、後から後から零れ落ちる。獄寺に、綺麗にアイロンを当てられたハンカチを渡されても、それは簡単には止まらない。
「俺こそありがとうな、ツナ。こんなにも俺のことを考えてくれて」
 優しい声に、そんなことはない、と綱吉は目元にハンカチを押し当てたまま、首を横に振る。
 優しいのではない。弱いだけだ。卑怯なだけだ。
 本当に友達なら、彼の平穏と幸福を望むのなら、ここで突き放さなければならないのに、突き放せない。
 山本が共に行くことを──修羅の道を歩むことを悲しみながら、この先も彼が居てくれることを心のどこかで安堵している。
 本当に酷い人間だった。
「ごめん、ごめんね……」
「謝んなよ、ツナ。お前は何にも悪くない。それどころか、俺はずっとお前に感謝してるんだぜ。お前にも獄寺にも、小僧にも」
 温かな声に、また目の奥が熱くなる。
 もう十八にもなったのに、一体何を人前で泣いているのかと思うが、どうしても止まらなかった。
 ここがファミリーレストランでなければ、外部から遮断された一人きりの空間であったら、声を上げて泣いていたかもしれない。
 己の悲劇に酔うような卑怯な涙であることは分かっていたが、それでも山本の覚悟を受け入れることは、身を切られるほどに辛かった。
「……ありがとう、山本。獄寺君も」
 やっと落ちついて綱吉が顔を上げようとすると、氷水で濡らしたおしぼりが隣りから手渡される。
 いかにも獄寺らしい気遣いに、綱吉は小さく微笑んで、ありがたくそれを目元に当てた。
 そして、深呼吸してからゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「一緒に……行こう。この先、俺たちがどこに行くことになるのかは分からないけど……」
「ああ、それでも一緒だ。俺はお前たちから離れねーよ」
「どこまででもお供します」
 即座に返る声に、目元に冷たいおしぼりを当てたまま綱吉は微笑んだ。
 どうしようもないほど辛い、悲しいと心が悲鳴を上げているのに、それでも二人の声を聞くと、自然に微笑みが浮かんでくる。
 ───ああ、そうだ。
 獄寺と山本と。
 何よりも大切な二人が傍に居てくれれば、きっと自分はどんな環境でも笑える。どんなに辛く苦しい状況でも、笑って乗り越えられる。
 山本は、そのことを既に知っていたのだろう。あるいは山本自身が、自分たちがいれば、どんなに辛く苦しいことでも笑って乗り越えられると感じているのか。
「ありがとう」
 唯一無二の親友と、唯一無二の右腕と。
 無慈悲な夜の底で、変わらず傍にいてくれる二人に、綱吉はもう一度心の底から、ありがとう、と告げた。



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