天国まで何マイル? 11

 綱吉と獄寺が駅前のファミリーレストランに着いたのは、約束の九時半ちょうどだった。
 店内に入るよりも早く、窓ガラス越しに店内の席から右手を上げる山本を見つけて、綱吉も軽く手を上げる。
 並盛は大都市郊外の小さな町であるがゆえに、いささか夕食には遅い時間帯、それも平日のファミレスには山本を含めても三組の客しかいない。煌々と照明は灯っているものの、どことなくがらんとした印象の店内のうち、角のテーブルで山本は二人を待っていた。
「ごめん、待たせた?」
「うんにゃ。俺も来たばっかだぜ」
 山本はいつものように笑って、テーブルに広げていたメニューのページを軽くぱたつかせて見せる。
 そうする間にウェイトレスが、二人分の水とメニューをテーブルに置いて、「メニューがお決まりになった頃にお伺いします」とお決まりの台詞を残し、去っていった。
「時間も遅いし、俺はコーヒーだけでいいよ」
「そーだな。俺もいいや。獄寺は?」
 山本の問いかけに、獄寺は小さくうなずいて同意する。それを受けて、山本は先程のウェイトレスに向けて手を振った。
 ホットコーヒーを三つ頼んで、さて、と山本は二人に向き直る。
 その長袖のコットンシャツから覗くその左手首には、細長い金のプレートと漆黒の細い革ベルトを組み合わせた精悍なブレスレットが照明を受けて鈍く光っており、その輝きに綱吉はふと目を留めた。
「そのブレス、してくれてるんだね」
「ああこれ? 当然だろ」
 綱吉の指摘に、山本は笑って左手を掲げる。
「いっつもしてるぜ。朝起きた時から、夜に風呂入る前まで、毎日」
 ものすごく気に入っているのだと笑む山本に、綱吉も微笑む。
 ──そのブレスレットは、甲子園での優勝記念に綱吉と獄寺が贈ったものだった。
 フィレンツェの小さな工房で、金のプレートに彫り込んでもらったメッセージは、“L’alloro brilla per te.”──栄冠は君に輝く。
 日本の高校野球に少しでも興味のある人なら誰でも知っているだろう歌曲のタイトルは、店頭でメッセージを考えあぐねていた綱吉の脳裏に、ふっと閃いたものだった。
 とはいっても、浮かんだのは歌詞ではなくメロディーで、綱吉の「なんていうタイトルだっけ?」という問いに答えたのは、無論、獄寺であり、それをイタリア語に訳して金細工職人に伝えたのも獄寺だった。
 それゆえに、プレートの裏面には甲子園決勝戦の日付(試合が日程通りだったのは幸いだった)と共に、綱吉が嫌がる獄寺を説き伏せて追加した、“T&H”の文字も入っている。
 それを山本が大切に身に着けてくれているのは、綱吉にとっては何よりも嬉しいことだった。
 けれど。
 ───そんなに大事にしないで。
 山本が、自分たちが贈ったものを無碍(むげ)にするわけがない。なのに、何故そんなに嬉しそうなの、何故そんなに大切にするの、と問いかけたい気持ちが無性に込み上げる。
 口に出したら、きっと足元の薄氷が割れてしまう。そうと分かっていても、篝火に蛾が吸い寄せられるように問いたくなる。
 ───駄目だ。
 不意に揺らいだ自分を抑え込むように、綱吉はテーブルの下で拳を握り締めた。
 山本は、まだ何も言っていない。
 自分もまだ、何も問うてはいない。
 今ここで動揺してはならない。まだ、動揺すべきではない。
 唐突に湧き上がった緊張感に気分が悪くなる寸前、「お待たせ致しましたぁ」と、少し間延びしたウェイトレスの声が響いた。
 その緊張感の欠片もない声と、少しばかりおっとりした手つきでコーヒーカップがテーブルに並べられる硬質で小さな音が、ふいに綱吉を現実の地平に引き戻す。
 救われたような気分で彼女が立ち去るのを待ちながら、握り締めていた手のひらをそっとほどくと、薄く汗が滲んでいるのが感じられた。
 何を今更動揺しているのかと、綱吉は自分の小心ぶりを自嘲しながらコーヒーカップを引き寄せ、獄寺が寄せてくれたシュガーポットから砂糖をすくって溶かし込む。
 そうして一口、味はともかくも熱いコーヒーをすすると、知らず張り詰めていた緊張がほんの少しだけ和らぐようだった。
 けれど。
「で? ツナ、俺に話って?」
 ほんの数秒の綱吉の葛藤に気付いていないのか、あるいは気付かなかったふりをしているのか。コーヒーをブラックのまま一口飲んでから、山本がいつもと同じ屈託のない口調で問いかけてくる。
 途端、一旦は鎮まったはずの綱吉の鼓動が、どくんと胸の内側で大きく響いた。
 ───言うべきなのか。
 本当に言ってもいいのか。
 口にしたら最後、取り返しのつかないことになるのではないか。
 覚悟を決めてここに来たはずなのに、唐突に靄(もや)がかかったように思考がぼやけ、目の前に奈落がぽっかりと暗い穴を開けたような錯覚にさえ囚われる。
 駄目だ、と思ったその時。
「ツナ?」
 山本が、どうした?と言うように……それこそ何でもない調子で名前を呼んで。
 更に視線を感じて隣りを見ると──獄寺が自分を見つめていた。
 いつもよりも少しだけ銀色の輝きを増している気のする瞳は、鋼を思わせた。
 冷静で強い、心配をあからさまにするのではなく、ただ『俺はここに居ます』と告げるようなまなざしに、綱吉は思考がすうっと冴えるのを感じる。
 緊張は解けない。
 手のひらの汗も、まだ滲んでいる。
 だが、言わなければいけないこと、言うべきことだけはくっきりと脳裏に思い浮かぶ。
 まなざしにほのかな感謝を含めてから──それでもきっと獄寺は気付いただろう──、綱吉は静かに目線を山本へと戻した。
「あのね、山本」
「うん?」
 山本の目は、昔と変わらずまっすぐだった。
 明るく強く、そして──底が見えない。
 だが、見えないことを怖いと思ったことは一度もなかった。
 生まれ持ったものなのか、それとも成長の過程で獲得した気質なのか、山本は常に最善を考え、最善を選択する本能のようなものを持っている。綱吉もまた、山本のその気質を本能的に信じており、彼の選択を疑ったことはなかった。
 けれど、彼はあまりにも最善を考えすぎるから。
 守ると決めたものを、必ず守り通すから。
 本当にそれが彼にとっての『最善』なのかと、時折、不安を覚えないではいられないのだ。
 勿論、山本自身は、そんな綱吉の表情を見るたび、「心配するなって」と闊達に笑い飛ばしてしまうのが常であり、綱吉もまた、彼がここまで何一つ後悔していないことは、ちゃんと分かっている。
 それでも。
 テーブルの下でもう一度軽く手を握り締め、綱吉は目を逸らすことも伏せることもせずに、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「俺、高校を卒業したらイタリアに行くことにしたんだ。ボンゴレの十代目として」
 そう告げた瞬間の山本の表情に浮かんだのは。
 ───喜び、だった。
「そっか。行くのか、ツナ。もちろんお前も一緒だろ、獄寺?」
「ああ」
 それまでずっと黙っていた獄寺の声は、低く、いつもよりも一際無愛想だった。
 獄寺は山本の目を見つめ、それから手にしていたコーヒーカップにすっとまなざしを落とす。
「来年三月頭の卒業式が終わり次第、こっちを発つ予定だ」
「そっか」
 獄寺の答えに、山本は頬杖をついて笑顔を見せる。

「なら、そん時俺も行くぜ、ツナ。お前らと一緒に」






NEXT >>
<< PREV
<< BACK