天国まで何マイル? 09

 風が涼しくなった、と思う。
 とりわけ朝夕の空気の冴え方は、遠からず訪れる錦秋を予感させた。
 海と山、双方の自然に恵まれた並盛には市街地に寄り添う形で森林公園があり、その向こうの山並みと共に、森林公園の雑木は秋が深まると鮮やかな赤や黄色に染まる。
 その時節にハイキングと称したサバイバルキャンプを敢行するのは、昨年までの綱吉たちの恒例行事だったが、今年はどうやら家庭教師の予定表にそれはないらしい。
 少なくとも今日までは、リボーンはそれについてはうんともすんとも言ってきていなかった。
 (もっとも事前に通知があったためしもない。ただ感触として今年はなさそうだ、というだけである。)
 だからといって綱吉の身辺が静かなわけではなく、何が何でも春までに一通りの知識を綱吉に叩き込んでしまいたいらしいリボーンは、早速昨日、恐ろしげな棘の生えた金棒を手に生徒二人の帰宅を迎えた。
 そこから先、夕飯を挟んで夜九時までは綱吉は地獄を見たし、その傍らでボンゴレに関する膨大な資料──主に組織や商売に関するもので大半が数字と専門用語で構成されている──を山と積み上げられ、「テメーなら春までに全部暗記できるだろ。できなきゃ死ね」の一言を突きつけられた獄寺にとっても、その数時間はひたすらに拷問だった。
 そんな二人にとって不幸中の幸いだったのは、リボーンは夜九時ですっぱりと講義を切り上げる主義だったことだろう。
 寝る間を惜しんで勉強することも時には必要だが、基本的に夜九時を回ると人間の脳の働きは鈍る。加えて、綱吉が夜更かしが得意でないこともあり、舌打ちしつつもリボーンは生徒たちにそれ以上の無理を強いなかった。
 とはいえ、スパルタはスパルタである。
 久しぶりに脳細胞を猛回転させる羽目になった綱吉は、一夜明けた今日の学校の授業は大半をうとうとしていたし、そんな綱吉を横目で眺めつつ、唐突に得たファミリーに関する様々な情報が脳裏を回遊し続けたおかげで寝つきの悪かった獄寺も、何度あくびを噛み殺したか知れない。
 授業をサボることが許されるのなら、二人して屋上辺りで昨夜の復習をしつつ半日寝ていたいところだった。
「今日もまた、アレの続きだよねえ」
「でしょうね……」
 学校からの帰途、呟く綱吉の声も答える獄寺の声も、まったくといっていいほど覇気がない。むしろ生気がないといった方がいいかもしれない。それくらいに世を儚んだ声だった。
「分かってたことだし、自分で選んだことだけど……なんかもう俺、負け犬気分だよ」
「俺もです。リボーンさんにかかったら誰でも尻尾を巻いて逃げ出すしかないですよ」
「獄寺君までそんなこと言うわけ? 俺、ますます立つ瀬がないじゃん」
 恨めしそうにぼやき、綱吉は、あーあと溜息をついた。
 それから腕時計の時刻表示を確かめる。
「そろそろバス来るね。……乗って帰らなきゃ駄目、だよね」
「すみません、十代目。その場合、俺もどうしたらリボーンさんから無事に逃げおおせられるのか分かりません」
「それは地球が逆回転したって無理だよ。絶対に捕まって殺される」
 そもそも四、五ヶ月でボス教育を完遂しようっていうのが無理なんだよね、と溜息混じりに言って、それきり綱吉は口をつぐむ。
 終業時刻を過ぎたばかりの高校前のバス停には、帰宅部の高校生があふれている。
 並盛高校は駅から程々の距離にあるため自転車通学者も多く、銀輪が次から次に歩道を通り過ぎてゆくから、危うい意味を持つ言葉は一切口にできない。
 二人共に人目を惹きやすいために殊更、注意は必要だった。
 それから二分ほど待って、少し遅れ気味にやってきたバスに乗り込む。
 路線バスではあるが、商店街も病院も経由していないために一般の乗客は少なく、九十パーセントを高校生が占めるバスは、どうしても朝夕は混み合うことは避けられない。
 一時間でも下校時刻をずらせば、こんな窮屈な思いはしなくてすむのだが、そんな怠惰は恐ろしい家庭教師様が許してはくれない。
 ゆえに、諦めの溜息をつきつつ、背中に当たる誰かの肘に小さく眉をしかめつつ、二十分余りの道程をやり過ごして、駅前で下車した時には綱吉は大きく息をつき、深呼吸した。
「はー。毎日毎日、嫌になるね。せめて先週までみたいに、もう少し空いてる時間帯に乗れたらなー」
「教室で少し時間を潰すだけで大分違いますけど……。リボーンさんに特別な理由がない限り四時までに帰れって、厳命されてますからね」
「これで帰ったら、また夕飯まで休みなしだもんな。こんなのが春まで続くと思うと……」
 それ以上の言葉は言わなかったが、たまらないとばかりに綱吉は溜息をついた。
 それから、まだ日差しの眩しい空を目を細めて見上げ、仕方がないよね、とでも言うように獄寺を見やる。
「帰ろっか」
「はい」
 十月下旬は、夏に比べれば日暮れが早いものの、まださほど日は短くなかった。
 東に向かって歩く二人には背中方向から傾いた日差しが辺り、前方へと少し長い影を作る。
 その傍らを、小学生の子供たちが元気よく自転車で走りぬける。
 商店街からの買い物帰りらしい年配の女性が大きなエコバッグを下げて歩いてゆくのを、歩幅の広い二人が追い越す。
 何の変哲もない、秋の初めの遅い午後だった。
「……獄寺君」
「はい」
 名を呼ばれた時、不意に何かを感じたのは、獄寺の勘が特に冴えていたわけではない。綱吉の声が、いつもとどこか違っていたからだった。
 静かで穏やかで、凛として、けれど、まだ何かを迷っている。
 それを獄寺の耳は間違いなく聞き分けた。
 綱吉に合わせて歩き続ける。だが、耳と綱吉を見つめる瞳に全神経を集中した獄寺に、綱吉は静かに続けた。
「そろそろ言わなきゃいけないと思うんだ。山本に。俺が春になったらイタリアに行くこと」
「──はい」
 獄寺は静かにうなずく。
 それは獄寺自身も思っていたことだった。






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