天国まで何マイル? 08

「いい天気だよねー。なんか俺、午後からの授業、サボりたくなってきた」
「十代目がおっしゃるのなら、俺はいつでも抜け出しますけど」
 真昼の空を見上げながら言った綱吉に同意して、獄寺も上空へとちらりとまなざしを向ける。
 確かに今日は、教室で鬱々と退屈な授業を聞いているのが惜しくなるような、澄み切った日本晴れだった。
「うーん。本当にそうしたいのは山々なんだけど」
 溜息混じりに言い、綱吉は弁当の御飯を一口ぱくりと食べる。
 秋とはいえ十月下旬の日差しはまだ眩しく、昼間だと日光がじりじりと照りつけるのに暑さすら感じる。
 それゆえに、二人が今日、屋上で昼食を食べるのに選んだ場所は、ちょうど膝から先だけ日が当たるような給水塔の傍らの半日陰だった。
「でも、いざ学校を抜け出したら、速攻でリボーンにばれると思うんだよね。でもって、そんなに元気が有り余ってんなら、っていつもより倍くらいハードなトレーニングメニューを用意される羽目になって。……いつも思うんだけど、リボーンって一体どうやって俺を見張ってるんだろ」
「さあ。俺にもあの人のことはちょっと……。いずれにせよ、学校の近辺にいらっしゃるのは確かだと思いますけど」
「うん。とにかく人間離れしてるからなー」
 アルコバレーノ云々を除いても、リボーンの能力は尋常なものではない。
 世界最高のヒットマンを名乗る以上、元より普通であるわけがないのだが、それにしても知識知略といい身体能力といい、桁外れの存在だった。
 それこそ生身の人間とは到底思えないレベルであるのだが、彼の性情はクールではあるものの決して冷酷ではなく、そのことが彼をただの殺戮マシンとは一線を画したものになさしめている。
 ゆえに、綱吉も諸々の建前を取り払ってしまえば、ほぼ無条件に彼を信頼し、慕っているといっても決して間違いではない。
 だが、リボーンの能力はあまりにも卓越しすぎており、綱吉の限界ギリギリを見極めた地獄のトレーニングメニューを課された時の恨み節とはまた別に、言葉にしがたい畏怖を彼に感じることも、これまでの月日の中では間々あることだった。
「ねえ、獄寺君」
「はい?」
「ボス教育って言っても、リボーンは俺に何を教える気なのかな。見当つく?」
「そうですね……」
 問われて、獄寺は箸を動かす手を止める。
 余談ではあるが、獄寺が食しているのは、見た目も中身も綱吉と全く同じ、奈々の手作りの弁当だった。
 一人暮らしの獄寺の食生活を心配した奈々が、一つも二つも変わらないからと弁当を用意するようになったのは、二人が高校に入学した直後からのことである。
 中学校時代は、綱吉のもう一人の親友である山本も一緒に昼食を食べていることを彼女も聞き知っていたために、そこまでするのは、と気を回していたようなのだが、高校進学を機に山本の進路が二人と分かれたことから、獄寺のような性格の少年がそう簡単に新しい友人を作るはずはない、とりあえず綱吉と二人で食べるのなら、全く同じ弁当でも構わないだろうと思いついたらしい。
 そして、出来合いの惣菜や冷凍食品は最低限しか使わない、栄養バランスとボリュームの双方を考慮した最高クラスの手作り弁当を、奈々を敬愛してやまない獄寺が無碍(むげ)にできるはずがなく、結局、ほぼ三年間、学校のある日は毎日、奈々の弁当をありがたく頂戴することになったのだった。
「色々あるでしょうが、まず最初はファミリーの概略じゃないでしょうか。ボンゴレの成り立ちや現状、組織の構成……。そこから派生して、あとはファミリーが手がけているビジネスや他ファミリーとの関係や、その他色々と言ったところですかね」
 考えつつ、獄寺は自分の意見を述べる。
「でも、リボーンさんですから。正直、全然見当つきません」
「うん」
 だから困るんだよね、と綱吉も同意してうなずいた。
「情報を出し惜しみせずに教えて欲しいって、九代目を通して頼んだのは俺だけど、どんなスパルタが待ってるかと思うと気が重いよ」
「──十代目が?」
 綱吉が何気なく言った言葉に、獄寺は目を丸くする。すぐに綱吉は気付いて、うなずいた。
「ごめん、言ってなかったね。──俺、ずっとリボーンがボンゴレについて肝心なことは教えてくれてない気がしてて。何でだろうって、理由を考えたら一つしか思いつかなくてさ」
「それは……」
「うん。俺が、ボンゴレの人間じゃないってこと」
 かすかに眉の辺りを曇らせた獄寺に、しかし、綱吉は笑って見せた。
「リボーンの判断だったかもしれないけど、リボーンは九代目の頼みで俺の家庭教師をやってるわけだから、リボーンが肝心なことを教えてくれないのは、やっぱり九代目の気持ちなんだろうなと思って。 それには色々理由があったと思うんだ。俺が知りたがってなかったとか、俺をあんまり危ない目に遭わせたくないとか、部外者に大事なことは教えられないとか」
「……はい」
「多分、俺がわざわざ頼まなくても、九代目はリボーンに、俺に全部教えるように言ってくれたと思う。でも、ちゃんと頼みたかったんだ。自分で選んだことなんだって、はっきりさせたくて。だから、九代目に電話した時にお願いしたんだよ」
「そうだったんですか」
 なるほど、とうなずく獄寺の表情には、綱吉の心構えに対する賛嘆だけではない、何か沈痛なものが奥の方に潜んでいるようだったが、綱吉はそれには気付かないふりで、そうなんだ、と応じる。
「ごめんね、また言うのが遅れて」
「いえ、それは構いませんよ。十代目は十代目の御判断で動いて下さればいいんです」
「そんな立派なものじゃないけどね」
 何もかも全面的に肯定する獄寺の言葉に微苦笑して、綱吉は再び箸を動かし始める。
 そうして、弁当の大半を食べ終えたところで、また思い出したように口を開いた。
「あと、進路の話なんだけどさ。担任に言っておかないといけないよね。就職決まりましたって」
「……まあ、そうですねえ」
 返答に微妙な間が空いたのは、就職という単語に違和感があったからだろう。その気持ちは綱吉にもよく分かった。
 獄寺は六年も前からボンゴレのファミリーであったのだし、綱吉もボスの座に就任するのであって、それを就職と言い換えるのには、決して間違ってはいないものの、正しいとも言い切れない感がある。
 そのあたりのニュアンスの微妙さにだろう、獄寺は軽く眉をしかめてみせた。
「就職といえば、就職、ですね」
「うん。少なくとも、進学、就職、フリーターのどれかなら、就職だろ」
「はい」
「で、担任には、親戚の会社を手伝うことになりました、くらいでいいかな」
「十分でしょう。企業名まで言う必要はないですよ」
「聞かれるけどねー」
 学校も統計を取っているわけだし、と綱吉は考え込む。
「……コネでの就職はみっともないから言うなって、親に釘を差されてるっていうのじゃ通らないかな?」
「担任がどう反応するかは分かりませんけど、とりあえずそれでいきましょうか。駄目なら、ノーザン・フーズ株式会社と言えばいいですよ。ボンゴレの末端に繋がる輸入食品会社で、都内に実在します。業務内容は健全なとこで、裏取引のカモフラージュに使われたこともありません」
「ふぅん、そんな会社もあるんだ。じゃあ、そうするよ」
 ノーコメントで駄目だったらね、と小さく笑って、綱吉は弁当の最後のプチトマトを口に放り込んだ。
 それから手元の弁当箱へと、ふと視線を落とす。
「……母さんに弁当を作ってもらうのも、あと四ヵ月くらいだね」
「……そうですね」
 獄寺も綱吉に倣うように、綺麗に空になった弁当箱を見つめた。
「──俺、お母様には本当に申し訳がないです。そうするしかないと頭では分かってるんですけど、この六年、とても良くしていただいたのに、何一つ本当のことは言えないままで……」
「……うん」
 その気持ちは自分も同じだ、と綱吉はうなずく。
 けれど、とまなざしを空に向けた。
 秋の空は雲ひとつなく、切ないほどに青く、目がくらみそうに高い。
「でも……何度、選択肢を示されても、俺はやっぱり同じ道を選ぶよ。いつだってそうだった。ギリギリのところで、右か左か、進むか退くかを選んでここまで来たんだ。どこまで遡ってやり直しても、やっぱり俺はここにしか辿り着けないと思う」
「そう、ですね」
 獄寺もまた、視線をうつむけたまま同意する。
「俺は今からやり直せるのなら、違う選択肢を選びたかったことばかりです。……でも、どんなに時間を巻き戻しても、やっぱりその時その時の俺は、同じ選択をするでしょう。俺も、何度やり直してもきっと今の俺にしかなれません」
「……それで、いいよ」
 そのままでいい、と綱吉の声が、ひそやかに優しく真昼の屋上に響く。
 本来、生徒は進入禁止となっている屋上には、二人以外誰もいない。ただ、教室からのざわめきだけが風に乗って潮騒のように届く。
 その中で二人は、手を伸ばせば簡単に触れ合える距離で瞳を見交わした。
「これでいいんだよ、全部。正しいとは言わない。言えないけれど、これでいいんだと思う。俺も、君も」
「十代目」
 綱吉の濃琥珀色の瞳を見つめていた獄寺が、ふっとまなざしを伏せる。
 そして、そうですね、と呟いた。
「俺もあなたも、ここまで精一杯に生きてきた。少なくとも、この六年間は。それだけは本当です」
 獄寺のまなざしが再び上がる。
 霧がかった湖を思わせる、深い深い銀緑の瞳がまっすぐに綱吉を捕らえた。
「行きましょう、どこまででも。あなたがどこに行かれようと、俺はこの世界が終わるまでお供します」
「……うん。ありがとう」
 その言葉を綱吉も真っ直ぐに、静かに受け止める。
 そして、かすかに笑んで空を仰いだ。
「それじゃ、とりあえず担任の所に行こっか。進路のこと、言わないと」
「はい」
 淡い微笑に、ほのかなやるせなさを紛らせながら、二人は立ち上がる。
 そのまま振り返ることなく、人気(ひとけ)ない屋上を後にした。



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