天国まで何マイル? 07

「じゃあ、結局あの後は、お母様は特に何もおっしゃらなかったんですか」
「うん。父さんは夜中過ぎまでこってり絞られてたみたいだけどね。俺はあのままいつも通り……まあちょっと寝つきが悪かったけど、それでも十二時前には寝ちゃったから。で、朝起きた時には、父さんはまだ寝てたし」
 本当ならば父親が起きるのを待っているべきだったのかもしれないが、それでも綱吉が日曜の昼前に家を出てきたのは、何となく母親と二人で……たとえ過ごす部屋が別々であっても、居るのが微妙な気分だからだった。
 もちろん、母親の態度は何も変わらない。息子や夫がどんな打ち明け話をしようと、それで態度を変えるような女性ではない。
 それでも綱吉の中には、まだ少し割り切れないもやもやしたものがあり、それが母親との距離をほんの少しだけ空けたがっている。
 ぼんやりと形を成していない割に、すぐに薄れて消えるかどうか確信の持てないそれは、おそらく罪悪感に一番よく似ていた。
「だから、父さんが何をどこまで話したのかは分からないんだよ。今日帰ったら確認しようとは思ってるんだけど……」
「そうですか……」
 考えるように獄寺は呟く。
 二人の間にあるテーブルには、いつものイタリア語のテキスト代わりにしているスポーツ雑誌が広げられているが、どちらも今日は、積極的にその文章を追おうとはしていなかった。
 短いメールを先触れにして部屋を訪れた綱吉を、獄寺はいつものように招き入れ、日当たりのいい部屋でコーヒー片手にぽつりぽつりと言葉を交わしている。
「とりあえず、母さんに対してはこれで一段落って考えていいのかな」
「そう思います。時間が経つにつれて、またお母様の中で色々と疑問や心配が浮かんでくるとは思いますが、それはその時その時に対処すればいいでしょう。
 先回りしてあれこれ説明すると、返ってその言葉に縛られて、身動きが取れなくなることも考えられますから」
「そうだね。でも、いちいち辻褄合わせをするのは気が重いなー」
 綱吉が溜息をつくと、獄寺は困ったような微笑を浮かべて見せた。
「俺も目一杯、サポートしますから。何とかクリアしましょう」
「……うん」
 うなずいて、綱吉も同じような笑みを返す。
 辻褄合わせをしなければならないのは、奈々に対してばかりではないし、今回ばかりでもない。
 真実を知らない全ての人々に対して、生涯続けなければならないことなのだ。
 そして、既にここまでの数年の間に、級友たちに対するさりげない嘘程度であれば、自然に口をついて出てくるようになっている。
 それがもっと頻繁に、そして巧妙に行われることになる。つまりは、それだけのことだった。
 それだけのことにいちいち窒息しそうになっているわけにはいかない、と綱吉は改めて心に刻み込む。
 そして別の問題の方に、自分の関心を引き戻した。
「あと、リボーンからの伝言なんだけど」
「はい」
「月曜……つまりは明日から、本格的に俺のボス教育を始めるから、君も参加するようにって」
「……はい」
 綱吉の言葉に、きっぱりと獄寺はうなずいた。
 端整な顔に浮かぶ硬質な表情は、昨日のカラオケボックスで見たものと同じで、自分が浮かべている表情も同じようなものなのだろうと綱吉は思う。
 そして、二人共に内面をうかがわせないその表情が、この先も増えてゆく。
 それは予感でも何でもない、冷たく硬質な確信だった。






 夕刻、綱吉が獄寺と共に帰宅した時、父親の家光は既に発った後だった。
 奈々に預けられていた伝言は、また連絡する、の一言のみで、結局、父親と母親との間でどんな話し合いがあったのかは分からないままだった。が、少なくとも奈々の機嫌は悪くなく、獄寺に向ける笑顔も、前日までとなんら変わりはなかった。
 そして、いつもと同じ時間が過ぎ、夕食まで共にした獄寺も夜八時過ぎに帰って、また母親と綱吉、それからリボーンだけが沢田家には取り残された。
「母さん」
 風呂に入ってくる、とリボーンがダイニングキッチンを出て行ったところで、綱吉は湯飲みを手にしたまま、母親を呼んだ。
「なあに?」
「ごめん、色々と」
 短い謝罪の言葉に、奈々は目をまばたかせて小さく首をかしげる。
「あなたが悪いわけじゃないでしょ? 夕べ色々聞いたけれど、ほんの子供だったあなたの意思なんか関係なしに、次の社長さんにって決めていたのは、おじい様と家光さんだっていう話だったわよ」
「それはそうなんだけど」
 どう言ったものか、と綱吉は少しだけ言葉を捜した。
「本当はさ、俺も何にも気付いてなかったわけじゃないんだ。リボーンと獄寺君だけじゃなくて、ランボにイーピンにビアンキにフゥ太に、って立て続けにイタリアから人がやってきて、色々と騒ぎもあって」
「ええ。中学生の頃からあなたたちは良く怪我したりしてたけど、それも全部、跡継ぎ争いに巻き込まれた結果だったんですって?」
 そう説明したのか、と内心で納得しながら、綱吉はうなずいた。
「みたいだね。……でも、俺はあんまり追及しないようにしてたんだ、ずっと。下手に追求すると、余計に面倒なことになりそうな気がしたから。ずっと、俺には関係ないって思おうとしてた」
 半分嘘で半分真実──少なくとも、中学二年生の頃までは逃げようとしていた──を、静かに告げる。
 これが全て真実だったら良かったのに、とかすかに思いながら。
「でも、俺の中に、もしかしたら俺にもできることがあるのかな、っていう気持ちが少しずつ生まれてきてて。それで、父さんから話を聞いた時に、やってみたいと思ったんだよ」
 自分がこうして話をすることで、母親が少しでも傷つかないですむように、と願いながら綱吉は続けた。
「だからって、俺に何ができるのか分かってるわけじゃないし、きっと他に、俺よりもっと上手にやれる人は幾らでも居るだろうって思ってる。
 でも……俺でなきゃ駄目だって言ってくれる人がいるのなら、そして、俺に本当に何かができるのなら、やってみたいんだ」
「──私は何にも言わないわよ、綱吉」
「え?」
 笑みを含んでやわらかく響いた声に、綱吉は顔を上げる。
 すると奈々は微笑み、両手に持った湯飲みを小さく揺らした。
「昨日も言ったでしょう? あなたがやりたいと思ったのなら、やればいいわ。ただ、途中で投げ出すのは駄目。
 自分に無理だと思ったときも、簡単に投げ出すんじゃなくて、次の人にちゃんと引き継ぐのが大人のやり方よ。それが、責任を果たすということ。
 それさえ守って、あなたが毎日ちゃんと生きていってくれれば、私は十分なの」
「……母さん」
「ふふっ。リボーンちゃんが来るまでのあなたは、本当にやる気のない子だったのにね。なのに今は、こうやって真っ直ぐに相手の目を見て、伝えたいことをちゃんと伝えられるようになるなんて。男の子って、本当に変わるのね」
 微笑んだ奈々の目が、綱吉を見つめる。
 嬉しげに、誇らしげに。
 そして、いとおしげに。
「頑張りなさい、綱吉。あなたにはきっと、それだけの力があるわ。昔のあなたには言えなかったけど、今なら言える。あなたは大丈夫よ。イタリアに行っても、一人ぼっちでもないんだから」
「……うん」
「昨日も言ったけど、獄寺君のこと、大事にしなさいね。あんな友達は、滅多に出会えるものじゃないわ。彼は本当にいい子よ。優しくて、真っ直ぐで」
「うん、分かってる」
「ええ」
 うなずいて、奈々はそっと一口、やわらかく湯気の立ち昇るお茶を含んだ。
「ねえ、イタリアに行って落ち着いたら、私を招待してね。行ってみたい所がたくさんあるのよ。とっても綺麗な国だもの。
 昔、結婚前にお父さんと一緒にリバイバル上映の『ローマの休日』を映画館で見て、ものすごく憧れたのよ。ヘップバーンの王女様が本当に綺麗で素敵で、ジェラートがうんと美味しそうで」
「父さんに連れて行ってもらうんじゃなかったの?」
「だって、お父さん忙しいんだもの。当てにしてたら、いつになるか分かったものじゃないわ。だから、あなたに頼むのよ」
 屈託なく奈々は笑う。
 だが、綱吉は、自分が居なくなれば必然的にリボーンもこの家を立ち去り、母親だけが一人残ることに気付いて、背筋がすっと冷えた。
 彼女は強い。
 豊かな愛情に満ちているから、たやすく折れることもない。
 けれど、彼女が毎日、一人分の食事を作り、一人で食事をする光景を想像することは心が拒絶する。
「母さん、母さんはイタリアに住む気はないの?」
 思わず綱吉は、そう口走っていた。
 脳裏では反射的に、それは危険すぎる、と警鐘が大きく響く。
 身内は少なければ少ないほど、遠ければ遠いほどいい。それは裏社会に生きる人間の鉄則だ。
 けれど。
「大丈夫よ。私のことは心配しなくてもいいの」
 奈々は朗らかに笑った。
「もちろん寂しくはなるけれど、でも一人なら一人で、やりたいことは色々あるのよ。プリザーブドフラワーとかフラワーアレンジメントとかも習いたいし、お友達と旅行にも行きたいし。
 でも、そうね。時々はイタリアに遊びに行くと思うわ。その時は追い返さないで、一緒に御飯くらい食べてくれると嬉しいわね」
「──うん。美味しいお店、いっぱい探しておくよ。獄寺君やおじいさんにも聞いて」
「ええ、楽しみだわ」
 そう言って笑う彼女の微笑みは、やわらかく、そしてたとえようもなく豊かだった。
 こんこんと尽きることのない愛情が、綱吉を満たし、ダイニングキッチンを満たし、家中に溢れてゆく。
 それはこの十八年、あるいは、それ以前からずっと続いていたものだった。
 そして、これからも彼女が居る限り、きっと続く。いつか彼女が居なくなっても、輝くような愛情の記憶は薄れず、消えることもない。
 それは紛れもなく、ありふれているようでどこにもない、一つの奇跡だった。
「母さん」
「うん?」
「ありがとう」
 心の底からの言葉に、彼女は微笑む。
「どういたしまして」
 茶目っ気を含んだ答えは、優しく、温かく響いて。
 この夜のことを──やわらかな湯気を立てるお茶、静かなダイニングキッチン、綺麗に片付けられたテーブル、そしてその中心にいる母親と自分。
 その全てを、きっと一生忘れない、と綱吉は思った。



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