天国まで何マイル? 06

 あなたはどうするつもりなの。
 そう問われて。
 真っ直ぐに向けられた奈々のまなざしを正面から受け止めながら、綱吉は精一杯の言葉を紡ぐ。
「俺に何ができるのか分からない。でも……俺にできることがあるのなら、おじいさんが俺に何かを望んでくれてるのなら、俺は、それをやってみたい」
 だが、どれほど懸命に告げた言葉であっても、母親という存在にはたやすくは通用しない。
 奈々は、綱吉が子供の頃から変わらない、彼女が本気で息子に向かい合ったとき特有の冷静かつ諭すような口調で問いかけを重ねた。
「本当にちゃんと考えたの? あなた、今年の夏のイタリア旅行がすごく楽しかったって言ってたでしょ。それで気持ちが浮かれているんじゃないの?」
「そんなことはないよ!」
「そんなことはありません!」
 思いがけないハモりに、一同の目が獄寺に集中する。
 しまった、と獄寺は慌てた顔になったが、それでも言うべきことは言おうと思ったのだろう、「お言葉ですが、」と切り出した。
「沢田さんは、ものすごく一生懸命考えていらっしゃいました。俺はずっとお傍にいましたから、知っているんです。浮ついたお気持ちなんか、全然持っていらっしゃいません」
 真摯に訴える獄寺に、驚いた顔で聞いていた綱吉の表情が、ふっと感謝の色を浮かべて和む。そして、それは奈々も同じだった。
「ありがと、獄寺君」
「いえ……。すみません、差し出口をして」
「いいのよ、獄寺君。ツナが真剣なのはよく分かったわ」
 そう言い、奈々は小さく溜息をつく。
 そして、改めて綱吉を見つめた──いつの間にか、自分よりも遥かに背の高くなってしまった息子を、真っ直ぐに見上げた。
 十八年前から変わらない、その綺麗に澄んだ瞳で。
「私はね、あなたが本気で決めたことには反対しないようにしようって、ずっと昔から思っていたの。だから、綱吉。あなたが本気で言っているのなら、反対はしないわ。
 でも良く考えて。会社の社長になるっていうのは大変なことよ。会社には沢山の人が関わっていて、あなたの決めたことがその沢山の人に影響する。その人たちの幸せに責任を持たなきゃいけないのよ。ちゃんと分かっている?」
「──うん」
 真っ直ぐに問われて、だが、綱吉はうなずく。
「全部はちゃんと分かってないかもしれない。っていうより、まだ全然分かってないと思う。でも、今の俺に考えられるだけは考えたよ。それで決めたんだ」
「──そう」
 納得したようにうなずいた奈々の表情は、満足げというよりはどこか淋しげであり、だが、誇らしげでもあった。
「じゃあ、私はもう何も言わないわ。言わなきゃならないのは……あなたよ、家光さん」
 じろりと睨まれて、それまでうんうんとうなずきながら妻と子の会話を見守っていた家光が青ざめる。
「な……奈々。俺が悪かった。すまなかった。百回でも千回でも謝るから……」
「許すかどうかは、話を全部聞いてからよ。私はよーく覚えているけれど、四年前にあなたが急に帰ってきて、その頃ツナや獄寺君やランボちゃんが大怪我したことも、もしかしたら今回のことに原因があるんでしょう? 事によっては本当に許してあげないわ」
「奈々ぁ〜」
 泣き声で呼ぶ夫のことは無視して、奈々は息子たちの方を振り返った。
「ツナ、あなたたちは今夜はもういいわよ。獄寺君も申し訳なかったわね。嫌な思いをさせちゃったわ」
「いえ、俺は全然……。俺の方こそ本当に申し訳なかったです。何年も本当のことが言えなくて」
「いいのよ。どうせ口止めされてたんでしょ、ずるい大人たちに。それよりも、獄寺君もツナと一緒に行くのかしら?」
 その言葉に、獄寺は一瞬、綱吉へとまなざしを向ける。だが、すぐに奈々の方に向き直り、きっぱりと告げた。
「そのつもりです。沢田さんのお役に立つことが、俺の五年前からの夢でしたから」
 その迷いのない返事に、奈々の顔がほころぶ。
「そう。それじゃあ、よろしくね。ツナが泣き言を言った時には、容赦なく叱ってやって。自分が選んだことなんだから、って」
「そんな必要ないですよ。一度心を決められた沢田さんは、本当にお強いですから」
「そう? 本当にそうならいいけれど……。ツナ」
 面白さ半分、心配半分の微笑を浮かべて、奈々は息子を呼んだ。
「何?」
「良かったわね。獄寺君がいて。ずるいおじさんたちの策略の結果だけど、獄寺君に会えたことには感謝しなきゃ駄目よ」
「それは……してるよ、ずっと」
 一連の会話に顔が赤くなるのを抑えられたかどうか、綱吉は正直なところ、自信がなかった。
 しかし、ここは照れても別に不自然な場面じゃないだろう、と自分に懸命に言い訳する。
 ちらりと隣りを盗み見てみれば、獄寺も顔を赤くしており──というより、今夜はずっと青ざめているか赤くなっているかだった──、この場面では何の役にも立ちそうになかった。
「じゃ、じゃあ俺は今夜はそろそろ失礼します。夕飯をご馳走様でした。今日もめちゃくちゃ美味かったです」
「お口に合ったのなら良かったわ。また食べに来てね」
「はい、ご迷惑でなければ」
「迷惑なわけないわよ。おばさん、料理するの大好きだもの」
 にっこり笑って、奈々は今夜のことは気にしないでとばかりに、獄寺の胸を軽くぽんぽんと叩く。
 気安い愛情のこもったその仕草に、獄寺の顔がまた、感極まったように歪んだ。
「それじゃ、失礼します」
「気をつけて帰ってね」
「今夜はすまなかったな、獄寺君」
「いいえ。また何かありましたら、いつでも呼んで下さい」
 口々に挨拶を交わし、いつものように見送りに出た綱吉と共に、獄寺は沢田家の玄関を出る。
 そして、門のところで二人は立ち止まった。
「何とか終わったね」
「ええ。良かったですね、十代目」
「そうだね。母さんがああいう人で良かった」
 心の底から綱吉は言った。
 奈々が今夜、もしひどく取り乱したり、ヒステリックに夫や息子、そして息子の友人を責め立てたりしていたら、彼女自身を含め、全員が取り返しのつかないような傷を心に負うことになったかもしれない。
 けれど、彼女はそれとは真逆の態度を取ったのである。
 ロマンチックが大好きな女性ではあるが、一方で冷静かつ愛情深い判断力をも持ち合わせている。そんな彼女の性格が、今夜、綱吉も獄寺も共に救ったのは間違いなかった。
「素晴らしい方です。お母様も、お父様も」
「そうなんだろうね。俺は幸せなんだと思うよ」
 自分ではなかなかその価値に気付かないけれど、と綱吉は小さく微笑む。
「獄寺君もありがとう。君の言葉、どれもこれもすごく嬉しかった」
「それは俺の台詞です。本当にありがとうございました」
 そして、二人は互いの瞳を見つめた。
 満月を幾日か過ぎて欠けた月が、東の空から淡い月光を投げかけて、獄寺のフープピアスを、そして綱吉の首元から覗く細い銀鎖を白く輝かせている。
 ───キスをしたい、と不意に欲望が込み上げる。
 それは至極簡単だった。ほんの少し、数十センチの距離を詰めるだけで叶う。 
 が、それは十字架を背負うことだった。そして、自分たちは到底、その重さに耐えられない。
 だから、二人とも何にも気付かなかった……相手の瞳に浮かんでいたかもしれない色にも、相手の瞳に映っていたかもしれない自分の瞳の色も見なかったふりをして、どちらからともなくそっと同時に身を引いた。
「じゃあ、また明日ね」
「ええ。今夜はゆっくり休んで下さい」
「獄寺君も。おやすみ」
「おやすみなさい」
 ぺこりと頭を下げて、門を出た獄寺は振り返らずに歩き去ってゆく。
 その後姿が角を曲がって見えなくなるまで見送って。
 綱吉は小さな溜息をつき、自分の唇に軽く指先を触れてから、欠けた月を見上げ、そして、ゆっくりと家の中に戻った。



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