天国まで何マイル? 05

 食卓には緊迫した雰囲気が張り詰めていた。
 既に夕食──奈々が腕によりをかけて作ったものすごい御馳走だった──は綺麗に平らげられ、テーブルの上にあるのは、それぞれの湯呑みと、お茶請けにと綺麗に皮をむかれ切られた梨と柿だけである。
 その場を、たった今、家光が発した一言が支配していた。
 ───イタリアの爺さんが、ツナを跡継ぎに欲しいと言ってるんだ。
 それを聞いた瞬間、奈々の顔に浮かんでいた幸せそうな笑みが消えた。
 戸惑いと不安と……他には何だったのだろう。奈々は家光を真っ直ぐに見つめており、綱吉からは横顔しか見えなかったから、彼女の瞳をよぎったものが何だったのか、定かに見極めることはできなかった。
 ゆっくりと、湯呑みを持っていた奈々の細い手が下ろされる。
「どういうこと? あなた、きちんと説明して」
 彼女の声も表情も冷静で、真剣だった。怒りは含まれていない──今はまだ。
 向かい側の席で、綱吉は自分の湯呑みをぐっと握り締める。隣りの獄寺は、膝の上に握り締めた両手を置いたままだった。
「分かってる。……ずっと前にもお前に言ったことがあるが、イタリアの爺さんは家族と縁の薄い人で、今、身内らしい身内は俺だけなんだ。それで、俺にも昔から跡を継いで欲しいって言っていた。だが、俺は社長って柄じゃないからな、それは断って、代わりに爺さんの頼みで世界中、あちこち穴を掘って回ってきた。色々やったぜ。鉱脈探しとか油田探しとかダム建設とか港建設とか。
 でも、爺さんもいよいよ七十を越えて、跡継ぎ問題が切実になってきてな」
「……それで、綱吉に?」
「ああ。お前にはずっと黙ってたが……綱吉が十歳を過ぎた頃から、跡継ぎにはこの子しかいないと言われてたんだ。爺さんは勘のいい人で、人の素質を見抜くのが神がかり的に上手い。その目で見た時、綱吉しかいないと思ったそうだ」
 家光の言葉を聞いて、奈々は綱吉へと視線を向ける。だが、またすぐに夫へとまなざしを戻した。
「でも、あなた。十歳の頃の綱吉なんて、言っては悪いけれど、大きな会社の社長さんの後継ぎにだなんて、お話にもならないような子だったわ。それなのに……?」
「それでも、だ。小さい頃の綱吉は大人しいというよりやる気のない子供だったが、その分、自分から誰かを傷つけたりすることは絶対になかった。そして、誰かが理不尽に傷つけられていたら、それを悲しむ健全な心を持っていた。それが爺さんの欲しがっている後継者の資質なんだ。その条件は今でも変わってない」
「───…」
 奈々は家光を見つめ、それから、再び綱吉を見つめた。
「綱吉は……知っていたの?」
 奈々の瞳は、家光ほど色素は薄くないが、日本人としては明るい綺麗な薄茶色をしていて、どこまでも透明に澄んでいる。
 その瞳の前では、綱吉は子供の頃から嘘をつけなかったし、ついてもすぐに見抜かれてしまうのが常だった。
「俺は、」
「綱吉には、この間の電話で言った。俺が帰るまで黙っているよう、口止めしたのは俺だ」
 綱吉が答えるより早く、家光が割って入る。
 所詮、息子は母親にはかなわないと見込んでのことだろうが、夫が恋女房に勝てるかどうかという観点で見れば、家光のポイントも到底有利とはいえない。
 だが、かろうじて家光は、奈々の視線の前でも平静さを保っていた。
「───…」
 そんな夫の顔に何を見たのか。
 やや硬いものの静かな表情で奈々は家光を見つめ、他の男たちの面々を見渡し、大きく溜息をつく。
「……やっと全部分かったわ」
 短く呟き、再び上がったまなざしは、黒ずくめの赤ん坊へと向けられた。
「リボーンちゃん。あなたがうちに来たのも、もともとはそういう理由だったのね。私がツナの家庭教師を探していたのは、渡りに船だったんだわ」
 奈々の瞳も声も、決してリボーンを責めてはいなかった。
 事実を確認するだけの声に、リボーンはうなずく。
「ああ。あの爺さんに、跡継ぎ教育を頼まれた。日本に来て、しばらくツナを観察した結果、普通に家庭教師として雇われるのが一番だと思ったから、あのチラシをここのポストに入れた。……長い間、黙っていてすまなかった、ママン」
「そうね」
 あっさりと奈々は、リボーンの非を認めた。
「わたしに本当のことを言ってくれなかったことには、少し怒ってるわ。でも、あなたがツナの面倒を見てくれたのは事実よ。ツナは本当に、この五年で変わったもの。それも全部、すごく良い方に」
 そう言い、奈々は綱吉を見つめる。
 リボーンが来る以前の面影を探すようなそのまなざしに、綱吉が少しうろたえた時、奈々の視線は、隣りへと逸れた。
「おい、奈々。獄寺君は違う。関係ないとは言わないが、元はと言えば、俺が爺さんにツナに友達がいないって、うっかり零しちまったのが原因なんだ。彼はなーんにも悪くないぞ」
 彼女が何か言おうとした気配を察したのだろう。またもや家光が割り込む。
 が、今度は獄寺の静かな声が、それを遮った。
「いいんです。黙っていたのは、俺も同罪です」
 そう言い、獄寺は椅子から立ち上がる。そして、綱吉が止める間もなく、その場に土下座した。
「本当に申し訳ありませんでした……!」
「やめて、獄寺君!」
 深々と這いつくばったその姿に、綱吉は一瞬我を失って叫ぶ。
「母さん! 母さんだって分かってるだろ!? 獄寺君は、俺にも母さんにも嘘をついたことなんかない! 獄寺君がこれまで俺たちに見せてくれた気持ちに、嘘なんて一つもないんだよ!」
 獄寺はいつでも一生懸命、自分と自分の家族を好きでいてくれた。沢田家の面々の役に立とうと、喜んでもらおうと必死だった。
 それだけは決して疑われたくなかったから、綱吉はいつも間にか自分が立ち上がっていることにも気付かず、懸命なまなざしで母親を見つめる。
 が、獄寺の声がそれを止めた。
「沢田さん、いいんです。俺が、お母様に嘘をついていたのは本当ですから」
「ちっとも良くないよ! だって君は……!」
「そうよ、獄寺君」
 不意にやわらかな声を響かせて、奈々が立ち上がる。そして、テーブルの周囲を移動し、土下座した獄寺の前にすっとしゃがみこんだ。
「顔を上げてちょうだい。おばさん、獄寺君の綺麗な顔を見るのが楽しみなのに、それじゃ、お話もできないわ」
「え、あ、」
 優しい笑いを忍ばせた声に、うろたえた声を上げて獄寺はそろそろと顔を上げる。
 すると、やわらかく笑んだ奈々と目が合って、更に獄寺はうろたえた。
「獄寺君も大きくなったわね。最初にうちに来てくれた頃は、ツナよりは大きかったけど、それでも細かったし、まだまだ男の子って感じだったのに」
「お……母様」
 獄寺が呼ぶと、奈々はにっこりと笑った。笑うと、目じりに昔はなかったかすかなしわが浮かぶ。
 だが、それでも彼女の笑顔は若い頃と変わらず、やわらかく温かく、人の心を和ませる何かをたたえていた。
「その呼び方もね。どうしてなのかしら、って思ってたのよ。ただ礼儀正しいっていうだけじゃない気がして……。ツナが未来の社長さん候補だったからなのね」
「それは違います!」
 反射的に言葉が飛び出してしまったのだろう。言ってから、獄寺は慌てた顔になる。が、取り消そうとはせずに、ためらいながらも言葉を続けた。
「そうじゃ……ないんです。俺は確かに……沢田さんとお友達になるように言われて日本に来ましたけど、本当は心の中じゃ、その命令を面白くねーと思ってました。でも、いざ日本に来て会ってみたら、沢田さんは本当にすごい人で……」
 この場で打ち明け話をすることの許しを請うように、獄寺はちらりと綱吉にまなざしを投げかける。
 綱吉はそれを受けて、素早くうなずいて見せた。
 何を話してくれても良かった。母親の誤解が解けるのなら。獄寺の誠実さを、改めて分かってもらえるのなら。
「そして、俺にこんなことを言う資格はありませんが、沢田さんの御両親も素晴らしい方々で……。だから、貴女のことも、おこがましいとは思いつつ『お母様』としか呼べなかったんです。本当に申し訳ありません……!」
「だから、どうしてそこで謝っちゃうのかしら」
 目を丸くして獄寺の告白を聞いていた奈々は、深々と頭を下げた獄寺に、くすりと小さく笑う。
 そして、細い右手を上げて、獄寺の癖のある髪をやわらかく撫でた。
「ねえ、獄寺君。おばさんの目は節穴じゃないのよ。獄寺君が本当にツナのことを大事に思って、本当の友達になってくれたことくらい分かってるわ。あなたはうんと真っ直ぐで、嘘がつけるような子じゃないもの」
「お…母様……」
「あなたが山本君と一緒にツナの友達になってくれて嬉しかったわ。それまで、家に遊びに来てくれるような友達なんて、一人もいなかったから。毎日賑やかで、おばさんも、皆のためにおやつや御飯を作るのがすごく楽しかった。本当にありがとう、獄寺君」
 だから、もう立って、と奈々の手が獄寺を促す。
 怒ってなどいないのだから、と母親そのものの温かな微笑と手に導かれるように、獄寺は立ち上がる。
 そして、自分よりもずっと小柄な女性を、感極まったような苦しげな瞳で、じっと見つめた。
「ありがとう……ございます。本当に申し訳ありませんでした」
「いいのよ、本当に。あなたは何にも悪くないんだもの」
 座ってちょうだい、とうながして、それから奈々は、立ち上がったままだった綱吉へとまなざしを向ける。
「綱吉」
「──はい」
 改まった返事をしたのは、そうさせるだけのものが奈々の声と瞳にあったからだった。
「それで、あなたはどうするつもりなの、このお話」
 真っ直ぐに切り込んできた問いに、綱吉は小さく唇を噛み締め、無意識のうちに拳を握り締める。
「行って……みたいと思う」
 それだけの言葉を告げるのに、全身の力が必要だった。






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