天国まで何マイル? 04

 約一年ぶりに対面した父親は、ほとんど何も変わっていなかった。
 相変わらず金茶色の髪は短く、顎には無精ひげがまばらに生えている。
 がっしりした体格も記憶にあるそのままで、ただ、目元の皺が少しだけくっきりしたような気がする。
 が、その違いが、そう思って見るからゆえの錯覚なのかどうかは分からなかった。
「綱吉」
 名を呼んだきり、感無量の表情で見つめるばかりで次の言葉が出てこない。
 どうしたものかと少々困りながらも、綱吉はそんな父親に小さく笑って見せた。
「久しぶり、父さん」
「──ああ、そうだな。なかなか帰れなくてすまん」
「それは母さんに言ってあげたら? 俺は一応、何で父さんが帰ってこれないのか分かってるわけだし」
「そうだな」
 そこまで言葉を交わして、やっと家光は自分を取り戻したようだった。
 いつものガキ大将がそのまま大きくなったような表情に戻り、綱吉の後ろにいた獄寺に目線を向ける。
「獄寺君も久しぶりだな。また背が伸びたんじゃないか?」
「ご無沙汰しております」
 獄寺から見れば、家光は綱吉の父親でもありボンゴレの門外顧問でもある。丁重に頭を下げた。
「この一年で伸びたのは一インチもありません。そろそろ打ち止めでしょう」
「そうか。ツナも伸びたな。ちょっと前までは、こんなんだったのに」
「いつの話だよ」
 自分の腰よりも低い位置を手で示して見せる家光に、綱吉は呆れた声で突っ込む。
 綱吉自身も高校の三年間で十五センチ以上背が伸びたが、獄寺と同じく、そろそろ止まりかけている。
 日本人男性の平均身長は軽く越え、クラスで一番小さかった中学生の頃に比べれば格段に成長したものの、規格外れの図体を誇る父親には到底及ばない。
 さすがに父親並に成長したいと思ったことはないが、それでも父親と殆ど身長の変わらない獄寺の姿をこの場で見ると、微妙な悔しさが滲んでくるのはどうしようもなかった。
「おい」
 と、不意に幼い声が会話に飛び込んでくる。
「感動の御対面が終わったんなら、とっとと座れ。時間を無駄にしてる暇なんか、俺たちにはねーんだぞ」
 そう言うリボーンは、とっくの昔にソファーの真ん中にくつろいで、あまり美味しそうには見えないホットコーヒーのカップを小さな手にしている。
 赤ん坊としては何とも小生意気な姿だったが、彼の言葉は正鵠を得ており、それもそうだとうなずいた家光は彼の隣りに、そして綱吉と獄寺は、テーブルを挟んで反対側のソファーに腰を下ろし、改めて向かい合った。
「BGMがちょっとうるさいが、我慢してくれ。こんな場所だが密談には最適なんだ」
「それは構わないけど」
 まずはそう詫びた家光に、綱吉は小さく肩をすくめながら、改めて狭い室内へと視線を走らせる。
 照明はスポットのみで、天井から吊るされた小ぶりのミラーボールがきらきらと光りを振り撒いており、モニターには最近のヒットランキングが映し出され、スピーカーからは大音量の最新ヒット曲が流れている──。
 どこからどう見ても、ここは紛(まご)うことなきカラオケボックスの一室だった。
 話し合いの場所としてここを指定された時には驚いたが、考えてみれば、予約無しに入ったカラオケボックスで適当に割り振られた部屋に、隠しカメラや盗聴器がしかけられているとは考えにくいし、またホテルのようにチェックイン−アウトのサインも必要ないため、匿名性も守られる。
 何より、年代の違う男ばかり四人が一部屋に籠もっていても、まったくもって怪しまれることが無いのだ。
 カラオケボックスそのものはあまりにも身近すぎて、そういう方面からは考えたことも無かったが、密談の場としては実に巧妙な選択だと綱吉も感心せずにはいられなかった。
「それでな、さっそく本題なんだが……ツナ、お前は今日まで殆ど何も知らなかったことにしてくれないか。ここ一週間ばかりの電話のやり取りで俺から聞いたのは、お前にイタリアでの就職の話があるということ、それだけだ」
「就職の話だっていうことは知っててもいいの?」
「ああ。それくらいは電話でも先に言わないと、かえって不自然だろう。ただ、俺が口止めしたから、お前は母さんには就職の話だということは言わなかった。
 お前だって困るだろう? もし本当にいきなり、イタリアで就職しないかと言われたら」
「……うん。その場じゃ返事のしようがないと思う」
「ああ。それでいいんだ。それで、答えについては、前向きに考えたいでも行ってみたいでも、お前の言いやすい方で構わない。母さんへのフォローは俺がする」
「うん……」
 分かった、と綱吉はうなずく。
 そこまで父親任せにしてしまうのは、責任逃れのように思えて少々気が引けたが、父親は父親なりに、これまでの分の責任をまとめて果たそうとしてくれているのも何となく感じられたから、それを無碍にしたくはなかった。
 多忙な父親がこうして日本に帰ってきたのも、ここで事前の打ち合わせをしているのも、すべては綱吉と奈々のためであることは分かっている。
 それは言葉ではなく態度で表された、家族に対する絶対的な愛情だった。
「それから、獄寺君」
「はい」
 家光に名を呼ばれて獄寺は、生真面目に返事をする。
 表情も声も、真剣そのものの硬質な色合いで、たとえば学校で教師から点呼を受けた時などとは、同一人物だとは到底思えない変貌ぶりだった。
 そして、その硬質さは否が応でも綱吉に、いま自分たちがいる場所が光の届かぬ場所──光は遠くに見えはするが、決して手の届かない場所だということを思い知らしめる。
 別に、そうであることに後悔はない。後悔をすることは決して無い。
 ただ、胸の奥、手の届かない場所にかすかな棘を感じる。それだけのことだった。
「すまないと思うが、君についてフォローできることは少ない。設定も殆ど事実のままだ」
 家光は、獄寺の反応をじっと見つめながら言葉を続ける。
「君は、俺からツナのことを……つまりツナに友達が少ないようだという話を聞いた九代目に、ツナの友達になるように言われて日本に来た。君自身は、九代目の取引先の社長の息子で、母親が日本の血を引くことからイタリアでは友達ができにくかった。──完全な真実ではないにしても、嘘はないだろう?」
「はい。それで十分です。俺は自分のことは自分で片をつけますから、どうぞお気遣いなく願います」
 獄寺は、まったくと言っていいほど表情を動かさなかった。家光の言葉を聞き終えて、小さくうなずく。
 それから綱吉の方へと目線を向け、大丈夫ですよとでも言うように、ほのかに笑んで見せた。
 綱吉も気遣う気持ちを隠しきれないまま、少しぎこちない笑みを返して、また父親とリボーンへとまなざしを向ける。
「リボーン、それでお前はどうするんだ? イタリア絡みだと、母さんから見てお前ほど怪しい立場の人間はいないと思うんだけど」
「俺の場合はごまかしようがねーからな」
 リボーンの返答はあっさりしたものだった。
「そもそも俺がポストに放り込んだチラシを見て、俺を雇ったのはママンだし、俺のおかげでお前の成績も、少なくとも落ちこぼれからは脱出した。家庭教師として最低限の仕事はやったつもりだが……まあ、ママンを騙していたことについちゃ、言い訳をする気はねー」
「……つまり、俺をイタリアに行かせるために、うちに来たって認めるってこと……?」
 それはそれで母親を傷つけるのではないか、と綱吉は顔を曇らせたが、リボーンの方は平然とうなずく。
「今回のことについては、誰かが泥を被らなきゃならねー。その役は俺と家光がやる。お前たちは大人たちの数年がかりの陰謀に巻き込まれて、結果的に流されたガキの役だ。ママンの前じゃ、せいぜい不幸ぶってりゃいい」
「そんなこと……」
「甘ったれんな、ツナ。お前の正義感や信念は、この先、嫌ってほど試されるんだ。こんな小せえ嘘で揺らいでどーする気だ?」
 リボーンの小さな指先が、業務用のさえないコーヒーカップを軽蔑するようにはじく。
「俺たちに泥をひっかぶせておけ。そういう経験も必要だ」
「リボーン」
「リボーンさんのおっしゃる通りに。十代目」
 静かに声を割り込ませたのは、獄寺だった。
 こんな風に彼が意見を挟んでくるとは思いもしなかった綱吉は、左側に座る彼の顔をまじまじと見つめる。
 そんな綱吉の視線から決してまなざしを逸らさそうとしない、霧がかった湖のような銀色を帯びた緑の瞳は深く、感情を抑えた表情は、もう決して少年のものではありえなかった。
「これでいいんです。あなたに十代目であることを望んだのは、俺たちボンゴレです。あなたは、それにうなずいて下さった、それだけで他に負うべきものは何もありません。今回の件であなたが責任を持つべきことは、御自分で選択されたこと、その一点だけなんです」
「よく言った、獄寺君!」
 テーブルの向こう側から、家光が賞賛の声を送る。
 綱吉が目を向けると、父親は大きくうなずいて見せた。
「獄寺君の言う通りだ。ツナ、お前の気持ちも分かるが、今回は抑えてくれ。お前まで共犯だったとなったら、母さんの立場がないだろう?」
 温かみのある低い声で言われて、ああ、と綱吉は彼らの言葉が腑に落ちるのを感じる。
 確かに、綱吉までも五年も前から事態を知っていたとなっては、毎日一つ屋根の下で暮らしていた母親には、とてつもない打撃を与えてしまうだろう。
 勘のよい彼女が何かに薄々気付いていたとしても、全ての真実を明らかにするのが正しいとは、綱吉にも到底言えなかった。
「分かった。俺は、先日父さんに電話をもらうまで、何も知らなかった。周りにあんまりにもイタリア関係者が多いから、妙だなぁとは思ってたけど、藪から蛇をつつきだすのも嫌だし、深くは考えてなかった。……それでいいんだね?」
 確認するように父親とリボーンを当分に見つめながら言うと、二人はそれぞれにうなずく。
「ああ。すまんな、綱吉」
「よし。分かったんなら、お前らは帰っていーぞ。俺と家光は、これからカラオケで歌いまくってから、予定通り夕方に帰るからな」
「歌うのかよ!」
「当たり前だ。ここはカラオケハウスだぞ」
「なんなら綱吉も一曲、歌ってくかー?」
 嬉々とした父親にマイクとリモコンをそろえて差し出されて、綱吉はがっくりと肩の力が抜けるのを感じた。
「………帰ろっか、獄寺君」
「はい」
 隣りを見やると、獄寺も小さく苦笑しながら立ち上がる。
 綱吉も、傍らに置いてあった薄手のジャケットを取り上げて、立ち上がった。
「じゃあ、また夕方にね」
「おう」
「失礼します」
 綱吉のためにドアを開けてから、獄寺は丁寧に頭を下げ、綱吉に続いて部屋を出る。
 そして二人揃って階段を下り、外に出た。
「──分かってたことだけど、今夜は大変なことになりそうだね」
「仕方がありません」
「うん」
 うなずきながら、父親のボルボ(車を持っていることを初めて知ったが、日本における愛車らしい。鉄板が入ってるから何があっても平気だぞ、と胸を張っていた)に並んで停められた、獄寺のSZに乗り込む。
 SZの車内は、スポーツカー独特の皮革の匂いに獄寺愛飲の煙草の香りがかすかに混じり、綱吉はほっと気持ちが安らぐのと同時に、言葉にならない切なさ──あるいは、ときめきが胸に満ちるのを感じた。
「獄寺君」
「はい?」
 一般道を走っているがゆえに猛々しさを押し殺したようなSZのエンジン音を聞きながら、綱吉は前を見つめたまま獄寺の名を呼ぶ。
「さっき、ありがとう。君が、あんな風に言うとは思わなかったから、少しびっくりしたけど、嬉しかった」
 具体的な目的語はない。が、それでも綱吉の言葉が何を指しているのかは、獄寺にも分かったようだった。
「俺の役割です。どうぞお気になさらないで下さい」
「だからだよ。……ありがとう」
 俺の預けた信頼に応えてくれて、とは言わない。
 けれど、それも獄寺は分かっているはずだった。
「俺の方こそ、お役に立てたのなら嬉しいです。ありがとうございます」
「うん。これからも……こんなことばかりだと思うけど、よろしく頼むね」
「光栄です、十代目。俺で良ければ、微力を尽くします」
 声にならない声が、魂も命も、持てる全てを捧げます、と叫ぶのが聴こえた。
「……うん」
 君でなけりゃ駄目だよ、と心の中で返しながら、綱吉もうなずく。
 上っ面だけとは言わないものの、真実のごく表面をかすっただけの言葉の応酬の裏に、二人にしか分からない魂の交歓がある。
 どこか背徳的で甘美な、けれど、どうにもならない絶望的な悲哀をも背負った歓びは、自分一人で感じているものではないと分かっているからこそ、より深い。
 ───好きです。
 ───好きだよ。
 今夜起こるだろう悲喜劇すら忘れて、互いの心がそうささやき合っているような気さえする。
 馬鹿だな、と自分自身を小さく笑いながら綱吉は、高速道路に入り、いよいよ本性をあらわにし始めたSZの猛々しい咆哮に耳を傾けた。



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