天国まで何マイル? 03

 授業を聞いている綱吉は、それなりに真面目にノートを取りながらも、少しばかり心ここにあらずという様子だった。
 考え事をしているときの彼の癖で、手にしたシャープペンで開いたノートを小刻みに小さくノックしたり、その手を止めて、グラウンドの向こうに広がる空へとまなざしを向けたりしている。
 いずれも教師の注意を引くようなものではなく、さりげなく目立たない仕草だったが、三メートル余りの距離を隔てた斜め後ろの席にいる獄寺にはよく見えた。
 悩んでいらっしゃるんだろうな、とそんな綱吉の様子を見つめながら、獄寺は思う。
 ほとんど母子家庭のような環境で育った綱吉は、意識無意識にとても母親思いだ。
 そして母親の奈々も、明るく朗らかで愛情深い、獄寺の目にはマリアよりも聖母に見える女性だったから、そんな彼女を傷つけたくない、困らせたくないと思う綱吉の気持ちは、とてもよく理解できた。
(けど、罪って意味じゃ俺の方が重いよな……)
 綱吉はただ、自分の進路を選んだだけである。
 非常に特殊な進路であり、就職先ではあるが、彼が考えに考え抜いた結果での選択であったことは、傍にいた獄寺にも十分過ぎるほどに伝わってきている。
 そして、その選択が当然の結果であったこともまた、この夏に十分すぎるほどに思い知らされた。
 だから、獄寺が、綱吉がボンゴレ十代目になることを望み続けていたことは、奈々に対する罪ではない──本当にそうでないかどうかはともかく──と綱吉は言うだろう。それくらいのことは獄寺にも推測がつく。
 だが、その罪よりも本当に責められるべきなのは。
(素性を隠して、十代目のお傍に居たことだ)
 マフィアの息子として生まれ育ち、十二歳になるかならないかでボンゴレファミリーの一員となった悪童だと知っていたら、奈々は決して獄寺を綱吉の友人として迎え入れようとはしなかっただろう。
(俺はずっと……お母様の信頼を裏切ってきたんだ)
 彼女を裏切ろうと思ったことは一度もないし、裏切ったつもりもなかった。
 だが、獄寺が素性を明白に告げていなかったこと──それ自体が、彼女に対する裏切りだったことは言い訳のしようがない。
 最初の頃は、獄寺も素性を隠そうとは思っていなかった。それが変わったのは、高校に入った頃だっただろうか。
 あの頃……リボーンの厳しい言葉に平手打ちを食らわされて目が覚めたようになった途端、色々なことが見えるようになった。
 綱吉が、ボンゴレ十代目として扱われることを以前よりは拒絶しなくなくなったものの、公の場や母親の前で『十代目』と呼ばれることを望んではいないことに気付いて、獄寺は彼のことを、仲間以外の人間がいる時には十代目とは呼ばず、沢田さんと呼ぶように変えた。
 揉め事を嫌う綱吉の意向に沿って、極力、周囲との関係を波立たせないように神経を払うことも覚えた。
 他にもあの頃を境に変わったこと、変えたことは色々とある。
 その内の一つに、自分の素性については話さないようにしたことも含まれていた。
 もともとマフィアだということを言いふらしていたわけではないが、隠す必要性も感じてはいなかったから、ところ構わずダイナマイトを取り出しもしたし、人目があろうと敵を攻撃することにも躊躇いはなかった。
 だが、それでは駄目なのだと……綱吉が望んでいないことだと理解してからは、自分のマフィアとしての一面は、極力隠蔽するようにしたのだ。
 それが間違っていたとは思わない。少なくとも、綱吉の意向には適うことだった。
 しかし、綱吉の親しい友人として、いつも快く迎え入れてくれた奈々に対しても、己の素性を隠し通してよいものだったのかどうか。
(お母様は、俺を信用して下さっていたのに)
 沢田家を訪れるたび、向けられる輝くような笑みは、決してうわべだけのものではありえない。彼女の笑顔は、常に他人を疑ってかかる獄寺の心さえ、一瞬でとろけさせてしまう何かをたたえていた。
 おこがましいことを承知で言えば、彼女は、実の母親に次いで二人目に、獄寺が心の底から慕った女性だったのだ。
 なのに、獄寺は彼女の最愛の息子の『友人』ではなかった。少なくとも、心理的に友人であったことは一度もなかった。
 その現実が、今更ながらに獄寺を苛む。
 たとえ、綱吉がボンゴレの十代目となることが──その本業が何であるのか、彼女には明かされることがないとしても、罪は罪だった。
 一生、告白することも改悟することもできぬ罪。
 その罪を、綱吉もまたこの先、背負うことになるのかと思うと、心臓に杭を打ち込まれたかのように胸が痛んだ。
(十代目……、沢田さん)
 その罪の重さを予感しているかのように、綱吉は窓の向こうへとまなざしを向けている。
 ここからでは見えない、大空を映した深い琥珀色の瞳を脳裏に思い描いた時、不意に左耳に重みを感じた。
 ──美しい凝った細工のフープピアス。
 良かったらもらって。気に入らなければ、忘れてくれていいから。
 そんな風に笑顔と共に、漆黒の外箱に銀の細いリボンがシャープにかけられた誕生日プレゼントを差し出されたのは、一月余り前のことだった。
 綱吉は毎年誕生日を祝ってくれてはいたが、プレゼントとしては他愛ないものが多く、アクセサリーのような高価で身に着けるものは、これが初めてだったから、ひどく感激すると同時に恐縮もした。
 そうして贈られた、自分では購入することを思いつかなかっただろう、普段選ぶものよりも一回り精緻で流麗なゴシック調のデザインのピアスは、一目で獄寺を魅了した。
 ボスにふさわしいとは到底思えなかったひ弱な印象の少年が、思いがけない強さで獄寺を魅了したのと同じように、店頭のショーウィンドウで見かけた時は全く魅力的と感じなかったピアスが、手に取って間近で見てみれば、実は不可思議な力強さをたたえていることに気付いて、何故この美しさが分からなかったのだろうと、今更ながらに自分の感性を疑った。
 それ以来、そのピアスを大切に身に着け続けて、贈り主である彼にも形ある何かを贈り返したくて。
 迷って迷って、それでも渡したいと……渡すべきだと思った、大空のシルバーペンダントは、今、彼の元にある。
 おそらくは、今も……制服に隠れて見えない襟元に。
(沢田さん。……綱吉、さん)
 その名を呼んだ瞬間。
 彼は小さく目をみはり、それから感極まったような、泣きたいような表情を一瞬見せた。
 そして、深い深い声で自分の名を呼ばれた瞬間。
 全てが分かった気がした。
 いつからなんて分からない。何故、自分だったのかも分からない。いつ彼がこちらの想いに気付いたのかさえも。
 あの瞬間に浮かんだ問いかけは幾つもあったが、それらは決して答えを聞くことのできない謎であり、また答えを知る必要もない……あるいは知ってはならないことだった。
 けれど。
 あの人も自分のことを想っていてくれた。そして、自分と同じように想いを隠し、ボスと右腕として歩く道を選んでくれた。
 その事実は、どうにもならない悲哀であり、たとえようもない歓喜として全身に轟き渡った。
 決して成就ではない。成就などありえない。
 だが、間違いなく何かがあの瞬間、結実した。
 それで、自分はこの先も生きてゆけると思ったのだ。
 ボスと右腕の関係のままで、彼を愛し、信じ、世界の果てでも地獄の底へでも喜んで共に行くことができる。
 そうすることを、綱吉自身が望み、許してくれた。
(あなたを愛してます。愛しているからこそ、俺はこの想いを決して表には出さない)
 愛することはやめられない。封印できるような、生易しい想いではない。
 けれど、誰にも気付かれないよう隠蔽することはできる。
 この先二度と、綱吉は想いを匂わせるようなことはしないだろう。あくまでもボスとして獄寺を見つめ、接するだろう。
 獄寺も、綱吉をただ一人のボスとして崇め、献身し、忠誠を尽くすだろう。
 それで良かった。
 それだけで、良かった。
 ──あの瞬間。
 名前を呼び合ったわずかな時間だけ、自分たちは存在の全てで愛し合った。
 互いが差し出せるぎりぎりのものを全て捧げ、それを受け取った。
 あの瞬間こそが自分たちの恋にとっては、全てで、永遠だった。
(だから、俺はもういい。もういいんです。あなたもそうでしょう?)
 一瞬が永遠に値することもある。
 それを知り、その瞬間を二人して心の底からいとおしんだ。
 その記憶は、これからの生涯を生きてゆくのに十分すぎる。
(あなたを愛してます。これからも、この先も永遠に)
 口には出さない。態度にも出さない。
 あの人の名前も、もう二度と声に出しては呼ばない。
 ただ、どんな罪も痛みも、共に背負って生きてゆく。
 ボンゴレ十世として、血と栄光に満ちた修羅の道を行く人を、傍らで支え続ける。
 それだけだ、と思った。



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