天国まで何マイル? 02

「え、お父様が」
「うん。今週末、帰ってくるって」
 バスを使う通学途中では、込み入ったことは話せない。
 綱吉が獄寺に、その件について切り出したのは、一時間目と二時間目の間の放課時間のことだった。
 校庭を見下ろす窓際で二人、秋の日差しを浴びながら、低めに抑えた声で言葉を交わす。
 前後左右の座席のクラスメートたちは今は席を立ち、周囲には誰もいない。教室の内外は学校特有のざわめきに満ち、二人の会話を第三者に聞かれる可能性はほとんどなかった。
「ごめんね、話すのが遅れて。父さんのスケジュールがはっきりしてからの方が、ややこしい事にならないんじゃないかと思ったものだから」
「いえ、それは構いませんが……」
 そう答えながらも、獄寺はやや難しい表情を崩さない。
 その様子をさりげなく見つめながら、もっと早く話せたら良かったかな、と綱吉は思う。
 父親から最初に電話があったのは三日前の夜だが、それを今日まで獄寺に黙っていたのは、単に話を切り出しにくかった、それだけの理由しかない。
 母親に自分の進路を話すということ自体、とてつもなく気分の重いことだが、それ以上に、綱吉のイタリア行きには多くの人間が絡んでおり、獄寺もその一人に数えられる。
 いわば獄寺も共犯者に当たるのだが、しかし、そういった裏事情とはかけ離れたところで、彼が奈々を深く敬愛していることを綱吉も知っているため、そんな彼の眼前に後ろ暗い現実を突きつけることは、どうしてもためらわれたのだ。
 だが、どうしたところで立ち向かわなければならない現実である。
 仕方がない、と腹をくくって、綱吉は話の続きを切り出した。
「それでさ、うちに帰ってくるのは土曜の夜ってことになってるんだけど、本当に日本に帰ってくるのは昼過ぎなんだ。で、空港の近くのどこかで俺やリボーンと打ち合わせっていう流れなんだけど」
「じゃあ、空港まで十代目が出向かれるんですか?」
「うん。父さんはあの通り図体がでかくて目立つから、下手に並盛付近で会うより俺が行った方が、母さんに気付かれる可能性が薄いだろ。──それで、獄寺君に一つ頼みがあって」
「はい、何でしょう」
 頼みがある、と綱吉が口にした途端、やや難しい顔をして考え込んでいた獄寺は、ぱっと顔を上げた。
 いつもと同じく真摯な光を浮かべて見つめてくる瞳は、いつもと何も変わらない。
 まなざしを返す綱吉も、何も変わってはいないはずだった。──たとえ、獄寺の耳元では美しく精緻な細工のフープピアスが鈍い輝きを放ち、綱吉のブレザーのワイシャツの下には、白銀にきらめく美しいプレートペンダントが隠されているとしても。
(今は、そんなことを考えてる場合じゃない)
 埒(らち)もない考えを振り払うようにして、綱吉は続ける。
「その打ち合わせに、君も俺と一緒に行って欲しいんだ」
「……いいんですか?」
 躊躇いがちにそう問い返した獄寺は、リボーンが同席するにしても、ひとまずは沢田家の身内だけで水入らずに、と考えていたのだろう。
 だが、それでは返って困るのだと、綱吉は小さく肩をすくめてみせた。
「いいも何も、君も来てくれないと。母さんに対して、どんな口実を作るにしても、イタリアが絡んでる以上、リボーンと君のことは切り離せない。母さんはあれで結構鋭いところがあるから、俺が来年の春からイタリアに行くって言ったら、絶対に君のことを結びつけるよ。今年の夏の旅行のことも」
「それはそうでしょうね。むしろ、繋げて考えない方がおかしいです」
「うん。結局のとこ、父さんやリボーンをひっくるめて、君も俺も同じ穴のムジナってことだから。君も一緒に来てくれないと、打ち合わせにならないんだよ」
「分かりました」
 納得した獄寺の反応は、素早かった。
 うなずいて、それなら、と提案する。
「土曜は、俺が車を出しますよ。下手に公共交通機関を乗り継いで往復するよりいいでしょうから」
「そうだね。じゃあ、迎えに来てもらってもいいかな。母さんには買い物に行くとか適当に言っておくから」
「はい」
 多分その夜にはバレる嘘だけど、と、ほろ苦い笑みを滲ませながら綱吉は呟いた。
 ──父親とリボーンが、母親に対してどんなごまかしを口にするつもりなのか、分かるような気もするし、やはり想像が及ばないような気もする。
 だが、型破りを絵に描いたような彼らではあっても、相手が奈々である。不思議に鋭い彼女に対して、さほど突飛な嘘をつくとは考えにくかった。
(九代目が遠い親戚だってことは本当だし、ボンゴレだって表の商売の顔は持ってるわけだし)
 おそらくは、その辺りを取り混ぜて、適当な物語を作り出すのに違いない。
 綱吉自身としては、とにかく母親を心配させることなく、高校卒業後にイタリアに渡って仕事に就くことを了解してもらえるのなら、そのため言い訳の内容など何でも構わないし、父親たちの作る嘘がよほど荒唐無稽なものでない限り、それを受け入れるつもりでいる。
 だから、この件について綱吉が、何かを思うとすれば一つだけだった。
 おそらくは土曜の夜、綱吉がイタリアを選ぶよう仕向ける共犯者であったことが露見してしまうだろう獄寺が、母親に悪く思われなければいい、ということだ。
 獄寺が当初、九代目の命令によって日本にやってきたのは事実であるし、この六年近い年月の間、獄寺は傍目にはどうあれ、本質は決して綱吉の友人ではなかった。
 実際のところ、母親が獄寺のことをどう見ていたのかは、綱吉にも分からない。客観的に考えれば、朝晩の送り迎えを欠かさないような獄寺の献身は、友人という単語で片付けてしまうには、あまりに重い。
 その辺りについて、彼女が薄々何かを感じていたとしても、今更どうしようもないことだった。
 ただ、日本に来て綱吉に近づいたきっかけが何であれ、獄寺がこれまで傾けてくれた誠実さは本物であり、そのことは綱吉が一番良く知っている。
 また、その誠実さは、綱吉の母親である奈々に対しても忠実に向けられていたものでもあり、だからこそ、それについて母親にひとかけらでも疑いをもたれるのは、綱吉にしてみれば到底許容できることではない。
 だが、それはそれ、獄寺のことはおまけであって、事の本筋は綱吉の進路にある。
 土曜の夜、父親や自分が切り出す話を母親がどう受け止め、どう感じるかを想像するのは、綱吉にとって、大きな不安と恐れを伴うことだった。
「いずれ母さんにも話さなきゃいけないとは思ってたけど……」
「そう、ですね」
 ドン・ボンゴレの跡を継ぐのに、海を渡らないのではどうしようもない。遅かれ早かれ、母親にはこの話をしなければならなかった。
 だが、どう切り出せばいいのか分からないのも綱吉の本音である。
 いずれリボーンと相談しなければならないと思っていたところだったから、今回の父親からの申し出は、正直、渡りに船と呼んでいいものだった。
 しかし、それだけでは割り切れない気持ちがあるのも事実であり、綱吉は躊躇いがちにその気持ちを言葉にしてみる。
「本当はさ、父さんに任せていいのかどうか、って気持ちもあるんだ。もともとは父さんたちが裏で糸を引いていたにせよ、結局は俺の問題なんだから」
 別に獄寺を試そうと思ったわけではない。
 ただ、聞いて欲しかった。
 そして、彼の意見を聞きたかった。
 誰よりも綱吉の近くにいて、誰よりも綱吉を理解しようとしてくれている彼の言葉を。
「──でも、十代目がお一人で背負われなければならない問題でもないと、俺は思います」
 一瞬考える間を置いてから、獄寺は答える。
「十代目にあなたを選んだのは、九代目であり、門外顧問であり、そして俺を含めたボンゴレファミリー全員です。お母様に対する責任という意味でなら、ボンゴレ全員にあるんです。それならお父様のおっしゃる通り、全員で知恵を出し合って、お母様のお心を傷つけないように考えるのが筋でしょう」
「……そうかな」
「はい。この件に関しては、俺は自分が間違っているとは思いません」
 見上げた獄寺の瞳は、いつもと変わらない誠実で真剣な光を浮かべていて。
 そのことに綱吉は、心のどこかがふっと安堵するのを感じた。
 ───何があろうと獄寺は、自分にとっての最善を考えてくれる。
 二人の間にあるひそやかな、けれど、とてつもなく重く深い感情でさえも、それを妨げることはない。
 証(あかし)など何もない、けれど、揺るぎない確信が心の深い部分からゆっくりと立ち昇り、隅々まで満ちてゆく。
 ───彼が自分を裏切ることは決してない。
 世界が終わるその瞬間まで、彼は共に在ってくれる。
 今更ながらではあるが、正式にボンゴレ十世として立つことを選んだ今、そう信じられる人間が傍らに在ってくれることは、何にも替えがたいことだと綱吉は思った。
 彼の献身と、裏世界に生きる者としての知識、物の考え方。
 改めて自分のこれからを考えた時、それらはかけがえのないものであり、シシリアン・マフィアの本質と内情を知り尽くしている獄寺の存在が無かったら、自分がこの先やっていけるかどうかは到底おぼつかない。
(九代目は、きっとそれを分かっていて、獄寺君を日本に来させたんだ)
 形式や肩書きだけの関係ではなく、ボスと右腕が真の友愛と信頼を持ち合うこと、それなくば過酷な世界を渡ってゆくことはできない。
 そんな冷静かつ情愛に満ちた判断で九代目は、裏世界に生まれ育ちながらも、心根の純粋さと一途さを併せ持つ獄寺を選び出し、綱吉の傍らに沿わせたのだろう。
(まさか九代目も、俺たちの感情が友達を越えるなんて思いはしなかっただろうけど)
 だが、感情の形がどうであれ、自分と獄寺の間にあるものは、そう簡単に揺らぐものでも壊れるものでもない。
 彼は忠誠を誓い、自分も全ての信頼を彼に預けた。それに値するだけのものが、この六年の月日に培われたのである。
 それどころか、そもそもからして獄寺が居なかったら、ここまではっきりとボンゴレを継ぐと言えたかどうかすら分からなかった。
 何があろうと獄寺が支えてくれるという確信があったからこそ、最後の一歩を踏み出せたのだと、今になってやっと自分の心が理解できる。
 もちろん、一番根底の部分に、彼自身の命を引き換えにすることも辞さないほどに自分のことを想ってくれている獄寺や、他の大切な人々を守りたいという気持ちがあったことは事実だが、それでも修羅の道へ正式に足を踏み入れる覚悟には、もう一つ、その気持ちを支える絶対的な何かが必要だったのだ。
(それが、俺にとっては獄寺君だった)
 共に行く道を選びはしたものの、先のことは分からない。闇と光が混在するような未来を選んだのだから、尚更のことである。
 だが、少なくとも獄寺が傍らに居てくれる限り、彼の手を借りつつも、ボンゴレ十代目としての己を己で支えてゆけるはずだった。
「ありがと、獄寺君」
 微笑んで礼を言うと、何がですか、という表情を獄寺は浮かべる。
「君の言葉のおかげで、ちょっと気が楽になった。そうだよね、俺一人で考えたって、上手い嘘が思いつくわけじゃないし、本当のことを話せるわけじゃないし。皆で考えるのが一番、いいんだろうな」
 結局、母さんのことを一番分かっているのは父さんだろうし、と呟くと、獄寺もそうですね、とうなずいた。
「門外顧問は、お母様を本当に大切にしていらっしゃいます。お母様を傷つけるような作り話は決してなさらないでしょう」
「うん。そうだといいな」
 そればかりは心からの祈りを込めて、綱吉も同意する。
 そこまで話したところで、短い休憩時間の終わりを告げるチャイムが鳴り、それじゃあ、と綱吉は獄寺に席に戻るように促した。
 同じ教室ではあるが、綱吉の席は窓際の真ん中辺り、獄寺は教壇正面の最後列と、少しだけ席は離れている。
 だが、この小さな教室の中で、他の四十人近いクラスメートと共に過ごすのも、あと半年にも満たない期間だけだ。
 春から先、自分たちはどんな風に日々を過ごすことになるのだろう、と綱吉は自分の前に広がる途方もない未来のことを、少しだけ考えた。



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