天国まで何マイル? 01

 月が綺麗だった。
 冴える、というのはこういう時にこそ似つかわしい表現なのだろう。透明な藍闇がどこまでも続く空の一番高いところに、真円を描いた月が浮かび、まばゆいまでに輝いている。
 降り注ぐ月光は、真珠と水晶を細かく細かく砕いて撒き散らしたかのようで、窓の外に広がる世界は、まるで海の底であるかのように蒼く沈んで見える。
 入浴を済ませて部屋に戻ってきた時、そんな月の光の明るさに、綱吉は思わず部屋の照明のスイッチから手を離してしまった。
 人工的な電気の明かりなどなくとも、カーテンを閉め忘れていた室内は、家具や小物類がはっきり見て取れるほどに明るい。
 月なんて、もう久しくまともに見ていなかった、と綱吉は引き寄せられるように窓際に歩み寄る。
 そして月を見上げ、その眩しさに思わず溜息をついた時。

「綱吉ー、電話よー!」

 開け放しだったドアから、階下から母親の奈々が呼ぶ声が聞こえた。
 電話?、と綱吉は振り返り、ドアに向かう。
 友人たちは全員、綱吉の携帯の番号を知っているし、こんな夜更けにわざわざ自宅の固定電話にかけてくる相手など、咄嗟に浮かばない。
 誰だろう、と思いながら階段を下りつつ、「誰からー?」と問いかけると、「いいから早く!」と答えになっていない答えが返ってきて。
 やっと受話器のマイク部分を手で押さえた奈々の元まで行って、目の合った母親の顔が、いつになくきらきらと輝いていることに気付いた。
 彼女のこんな表情には覚えがある。
 まさか、と思った時。
「お父さんからよ。ツナに替わってくれって」
 嬉しそうに奈々は受話器を差し出した。
「お話が終わったら替わってね。私もお父さんとお話したいこと、いっぱいあるから」
 鼻歌でも歌い出しそうな笑顔で言い、ダイニングキッチンに戻ってゆく奈々の後姿から、本当に軽やかなメロディーが聞こえてくるのを少しばかり呆然と見送って、それから綱吉は手の中の受話器を見つめ、ゆっくりと耳にそれを当てた。
「──父さん?」
『ツナか。久しぶりだな』
 何ヶ月、どころか一年ぶりくらいに聞く父親の声に、どくんと綱吉は心臓が脈打つのを感じる。
 自分が覚悟を決めたのは──それを顕わにしたのは、つい昨夜のことだ。
 ボンゴレの門外顧問であり、九代目の懐刀である父親がそれを知るのに、丸一日という時間が短すぎるということはない。
 頭ではそうと分かっていても、実際に父親の声を聞くと、どうにもならないほどに心が揺らぎ、張り詰めるのを止められない。
 そして、息子の性格や心理状態とどこまで把握しているのか、いっそ小気味よいほどに父親の言葉は単刀直入で潔かった。
『九代目に聞いた。いや、何も言うな、ツナ』
「何にも言ってないだろ、まだ」
『いや、言おうとしただろ。それくらい俺にも分かるぞ。いくら親父らしくない親父でもな。──それでな、ツナ。お前、本当にいいのか?』
 昨今の国際電話は国内電話と変わらないほどに電波がクリアで、遠い海の向こうの国で、父親が本気で心配しているのがくっきりと伝わってくる。
 ドアが開いたままのダイニングキッチンを気にしながら、綱吉は言葉を選びつつ答えた。
「──良くなかったら、とっくに逃げてるよ。俺が根性なしなのは、父さんも良く知ってるだろ」
『お前が根性なしに程遠いことは知ってるさ。そうでなきゃ、十歳かそこらのお前を十代目候補になんざ押すもんかよ。──そうか、今更だったな。すまん、ツナ。下らんことを聞いた』
「いいよ、別に。心配してくれてるのは分かったし」
『ああ。すまん、本当に俺はダメ親父だ』
「そんなことないって」
 そう思っていた時期もあるけれど、と心の中で付け加えながら、綱吉は微苦笑する。
 今となっては十分過ぎるほどに分かるのだ。
 父親があの世界で生きてきたことの凄さも、それでも尚、家族を愛し、愛するからこそ遠く離れることを選んだ心の強さも。
 父・家光もまた、ボンゴレの……全てを守ろうとしてボンゴレを創った初代の血と精神を濃く受け継いでいる。
 時代の巡り会わせで、家光の名はたまたまドン・ボンゴレの候補には上らなかっただけの話で、たとえば九代目があと十年早く生まれていれば、綱吉ではなく家光が十代目になっていた可能性も有ったのだ。
 父親ほどの傑物なら、それも十分に務まっただろうと──門外顧問も妥当な地位なのだと、今ならば綱吉も素直に認められる。
「それで、用は何? それだけ?」
『いや。──俺が電話したのは、母さんのことだ』
「母さん?」
 声を低めて返しながら、ちらりとダイニングキッチンを伺う。奈々の鼻歌はかすかに続いていて、自分のことが話題に上ったことに気付いた様子はない。だが、用心に如(し)くことはなかった。
『母さんには俺から上手く話す。母さんは、九代目が俺の父親代わりの人だってことは知ってるからな、お前の進路について心配させないような説明をすることはできると思う』
 俺を信用してくれないか、と父親の声は言っているようだった。
 切実で、誠実で、そしてかすかに不安を抱えている。
 その響きを正確に聞き取って、綱吉は目を伏せた。
「……分かった。父さんに任せるよ。俺も、どんな風に言えばいいのか、正直なところ分からなかったし。前から考えてはいたんだけど」
『ああ、任せてくれ。近いうちに日本に戻る。また連絡するから、お前の携帯の番号を教えてくれないか』
「いいよ」
 知らなかったのか、と内心驚きながらも、綱吉は十一桁の番号を口にする。
 おそらくだが、リボーンは聞かれたことを簡単に教えるほど親切な性格はしていないし、九代目も情に厚く義理堅い人である。二人とも、父親が綱吉の携帯の番号を尋ねたところで、本人に聞け、とそれぞれの言い方で答えるに違いない。
 それとも、父親自身が最初から息子に直接聞くべきだと考えたのか。
 本当のところは分からなかったが、父親が姑息な真似をしなかったことだけははっきりしていた。
『分かった。俺の番号も言うから、メモしてくれ』
「うん。……いいよ、言って」
 電話機の横にあるメモ用紙に書き付け、それを復唱する。
『じゃあ、またな。電話を替わる時、母さんには、俺が、お前に何か大事な話をしたいから日本に帰ってくると言っていたと答えてくれ』
「うん、分かった」
『すまんな、色々と』
「いいって。じゃあ、母さんに替わるよ」
『ああ。──綱吉』
「何?」
『九代目から聞いた時、俺は嬉しかった。嬉しかったが、辛かった。それは本当だから、覚えておいてくれ』
「……うん。忘れないよ」
『ありがとう。じゃあな』
「うん、またね」
 受話器を耳から離して、小さく溜息をつき、綱吉はダイニングキッチンに向かって母親を呼んだ。
「ごめん、先に父さんといっぱい話して」
「いいわよ。母さんもこれからいっぱい話すもの♪」
「うん。父さん、俺に話したい大事なことがあるから、日本に帰ってくるって」
「本当!? 本当に本当なら、すっごく嬉しいわ!」
 嬉々として保留ボタンを解除した奈々は、受話器を耳に当てる。
 その少女のようにはずんだ声を聞きながら、そっと綱吉はその場を離れた。
 階段を上り、二階の自室に戻ると、相変わらず窓の外の月は明るかった。が、少しだけ眺める気は削がれて、綱吉はベッドに仰向けに転がる。
 そして、父親の言葉を思い返し、他にも色々な人々の顔を順番に思い浮かべ、これから自分がすべきことを考えながら、静かに目を閉じた。



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