誰が為に陽は昇る 32

「九代目、獄寺です」
「お入り」
「はい、失礼します」
 ドアを開け、中に入って閉めてから、丁寧に一礼する。
 先程と同じく、明るく美しい部屋の中、九代目は穏やかにくつろいだ風で獄寺を向かえた。
「ああ、そうかしこまらなくても良いよ。こちらにおいで」
「はい」
 獄寺は招かれるままに美しい布張りの長椅子へと歩み寄り、腰を下ろす。
「俺にお話とは……?」
「いやいや、難しいことではないよ。ただ、君が元気でいるかどうか、確かめたかっただけだ。君を日本へ行かせたのは私だからね。君の日本での幸せに対する責任が、私にはある」
 しかめつらしさのない、むしろ、茶目っ気を感じさせる九代目の口調に、獄寺は思わず笑顔になる。
「そんなことはご心配いただかなくても大丈夫ですよ。俺は毎日、十代目の傍にいられて幸せですし、楽しいです」
「そうかね。それならいいが……」
「本当です。十代目と引き合わせて下さった九代目にも、心の底から感謝しています」
 本心から言って、獄寺は深く頭を下げた。
「俺はまだ、一度もこの事について御礼を申し上げてませんでした。俺を見出して下さったこと、十代目のお傍につけて下さった御恩は、一生忘れません」
「顔を上げてくれないかね、隼人。私はただ、君のような優しくて真っ直ぐな子なら、綱吉君のいい友達になってくれるだろうと思ったから、六年前、君に日本に行ってもらった。だから、それで君が幸せなら、私は十分なのだよ」
「もったいないお言葉です」
「だが、君が日本で楽しく過ごしているのなら良かった。あと、今日、綱吉君をここに連れてきてくれたことについて、私からも御礼を言わないといけないね。本当にありがとう」
「そんな、俺は……」
「感謝の言葉は素直に受け取っておきなさい。年寄りの言うことは聞くものだよ」
「……はい」
 やわらかく諭されてしまっては、言い返す言葉も出ない。神妙に獄寺はうなずき、それから九代目の目を見つめた。
 九代目の瞳は薄茶色で、初代や綱吉のような琥珀色の輝きはない。だが、全てを包み込むような深さは、彼らに勝るとも劣らなかった。
 真っ直ぐに顔を上げ、
「九代目、俺は絶対に十代目を裏切りません。必ず、あの人の役に立つ右腕になって見せます。俺を選んで下さった九代目の御心に背くことは決してしません」
 言葉を選びながら、はっきりとそう告げる。
 そんな獄寺を、九代目は穏やかな瞳でじっと見つめた。
「──隼人。君は、綱吉君が『十代目』になると信じているのかね?」
「はい」
 確信をもってうなずく。が、何故かとは、獄寺は言わなかった。そんなことは言うまでもないように思えたのだ。
 自分が先程肖像の間で感じたことなど、九代目はとうの昔に察しているはずである。そんなことをぐだぐだと並べても、意味はなかった。
「そうかね」
 獄寺の短い返答と沈黙から、その真意を察したのだろう、九代目は静かにうなずく。
「私が君たちに強制できることは何もない。君たちの人生は君たちのものだ。隼人、君も君の思うように生きなさい。自分は幸せだと思える人生をね」
「──はい」
 強くうなずいた獄寺に、九代目は微笑む。
「本当にいい若者になった。隼人、私は君を誇りに思うよ」
「え……?」
 ──誇りに思う。
 それは、これまで誰も言ってくれたことのない言葉だった。
 なんと途方もない、そして尊い響きの言葉だろう。それが自分に……それも、敬愛するボンゴレ九代目から与えられたということに、獄寺は魂が震えるような感動を覚える。
 けれど。
 自分がどんな人間かということくらい、分かっている。
 九代目と綱吉に出会えたことで、幾分はマシになれたかもしれない。人を信じることも、自分の中にある負の感情を抑えることも多少は覚えた。
 だが、本質は変わらない。
 綱吉に何かがあれば、自分の中にある箍(たが)は簡単に外れるだろう。
 世界を憎み、全ての命を呪っていたかつて頃の自分。『悪童』はまだ、自分の内に眠っている。それはわずかな刺激を与えれば目覚め、世界を滅茶苦茶に破壊することすら望むに違いない。
 ただ、綱吉がいるから──綱吉の存在そのものが自分の良心となって、彼の望まないことはするまいと自制する力になっている。それだけのことなのだ。
「俺……俺は、そんな人間じゃありません。九代目に誇りに思っていただけるような……」
 恐れ多さに否定しかけた獄寺の言葉を、九代目の声がやんわりとさえぎった。
「何を言うのかね。前にも言っただろう? 私と出会った頃の君は、人が傷つくことを悲しむことができる優しい少年だった。そして、そのまま大きくなった。そんな君を誇りと思わずして、何を誇りに思えばいいのだね?」
「───…」
「君と出会えたことに、私は本当に世界に感謝しているのだよ。そして君が、私や家光にとって何より大切な宝である綱吉君に真心を捧げてくれていることについては、どれほど君に感謝しても足りない。本当にありがとう」
 しみじみと告げる真情のこもった言葉に、獄寺は返す言葉が出なかった。
 こんな時に、何を言えばいいというのか。
 ただ胸の奥から込み上げてくる熱い何かに屈しないよう、膝の上に置いた手をぐっと握り締める。
「……俺は……沢田さんの、傍にいたいだけなんです」
 喉の奥から絞り出すように告げる声は、ともすればかすれてしまいそうだった。
「あの人の傍は、あたたかい。まるで真冬の陽だまりみたいに……。そこに居られるのなら、俺は何だってできます。あの人の傍にいることを許してもらえるのなら、何だって」
 でも、それだけではない、と獄寺は続けた。
「あの人の傍にいると、優しくて強い、大きな人間になりたいと思えるんです。沢田さんは、世界をとても優しい目で見ている。あの人の目に見える世界は、きっととても綺麗で優しくて、少し悲しくて……。俺も、それを見てみたいんです。あの人が見ているものと同じものを。そしてあの人が大切に思うものを、同じように大切に思いたい。沢田さんが大切に思っているからという理由じゃなく、俺自身の感情で、そう思いたいんです」
 生まれも育ちも異なる自分が、真実、綱吉のようになれるとは思わない。
 けれど、少しでも近づきたかった。
 綱吉が大切に思うものの尊さを理解できるように、そして、綱吉がそれらを大切に思う気持ちが理解できるようになりたかった。
 綱吉への恋心とはまた別の部分で、その思いがここまでの自分を支えてきたのだ。
 だから今、九代目に誇りに思うと言ってもらえる部分が自分の中にあるとしたら、それも皆全て、綱吉から与えられたものだった。
 綱吉と引き合わせてくれた、九代目が与えてくれたものだった。
「だから、感謝するのも御礼を申し上げるのも、俺の方です。九代目と沢田さんがいらっしゃらなかったら、今の俺はありません」
「そうではないよ、隼人」
 深く頭を下げた獄寺に、穏やかな九代目の声が降り注ぐ。
「全ては君の中に最初からあったものだよ。私や綱吉君は、単なるきっかけでしかない。その小さな芽をここまで育ててきたのは、君の力だ。そして、その芽を大きく育てた君の強さと優しさを、私は何よりも尊く思っているのだよ」
「九代目……」
「考えても見てごらん。美しい心の持ち主と出会っても、何とも感じない人間は世の中にごまんといる。それを踏みにじる人間すら少なくない。だが、君は綱吉君にあたたかいものや美しいものを感じて、それを尊いと思った。そして守りたいと願い、理解したいと願い……。それは人として素晴らしいことではないかね?」
「───…」
「君は素晴らしい人間だよ。そして、まだまだ可能性を秘めている。これからも、真っ直ぐに顔を上げて生きて行きなさい、隼人。君が正しければ、おのずと道は開く。人生とはそういうものだよ」
「……はい」
 それは、どこか不思議な言葉だった。予言のようでもあり、神託のようでもあり。
 カテドラルの鐘の音のように、獄寺の内に響いて。
「ありがとうございます、九代目」
 もはやそれしか、口にできる言葉はなかった。
 実母以外の家族にすら丸ごと受け入れてはもらえなかった自分を、初めて肯定してくれた人。
 世界でただ一人の存在に、引き合わせてくれた人。
 神など信じない。けれど、この人に恥じるようなことは決してすまいと、固く心に誓う。
「うむ。……それでは綱吉君を呼んできてくれるかね。そして、三人でお茶にしよう」
「はい、分かりました」
 うなずき、一礼して獄寺は立ち上がる。
 そして大切な人を迎えに行くために、その光に満ちた美しい部屋をあとにした。



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