誰が為に陽は昇る 33
帰る前にそこに寄ってゆくといい、と言ったのは九代目だった。
美しい花模様の描かれた磁器のティーカップを傾けながら、穏やかな口調で。
「隼人、君は知っているだろうが、とても美しい場所だから。綱吉君も、そこを見てから日本に帰りなさい。そして、奈々さんによろしく伝えておくれ」
奈々、と言われた瞬間に、綱吉は日本のことを思い出した。
日本には大切な人が沢山いる。母は勿論、山本も京子もハルも了平も。
帰ったならば、まず奈々にこの国で見た色々なことを話して、山本の甲子園の録画DVDを見て、京子やハルに土産を届けて、そして甲子園まで行かなければならない。
そして、それらがすんだら、今度は休み明けの実力テストに向けての勉強が待っている。
そんな現実のあれやこれやが怒濤のように思い浮かび、だが、そのあまりの現実感のなさに、綱吉はひどく戸惑った。
何もかも馴染み深いことなのに──十八年近い日々を、並盛で過ごしてきたのに。
この国で過ごした経った、たった二十日間の日々の方が、遥かにリアリティを持って迫ってくる。
何故なのか分からなかった。
この国こそが、自分の国だと感じたわけではない。むしろ、異邦人であることを強く意識させられることばかりだった。
なのに──どうして、こうも日本での日々が遠いのか。
(何が……、俺が、変わったのか……?)
何が変わってしまったのだろう。
大切なものを思う気持ちも、ボスになろうと決めた覚悟も、獄寺を愛しいと思う恋心すら、日本を旅立つ前と変わりないというのに。
それとも、それらの全てが変わってしまったというのだろうか。
表層にあるものはそのままでも、その根底にあるものが。
あるいは、魂とでも呼ばれるべきものの在り方が。
そう思い至り、思わず綱吉は小さく震える。
この国に来たいと望んだのは自分だった。なのに、そんな風に自分が根っこから変わってしまうとは予想もしていなかった。
そして、変わってしまったと思うのに、何が変わったのか自分では分からない。
そのことが一番恐ろしかった。
と、その時。
獄寺がハンドルから右手を離して、エアコンのつまみを調整する。設定温度を少し上げたのが、綱吉の目に入った。
「獄寺君……」
「あ、すみません。少しエアコンがきついかと思って……」
笑ってそんな風に言い訳し、再び前方へとまなざしを据える。
その横顔を見つめているうちに、綱吉は笑いがこみ上げてくるのを感じた。
おそらく獄寺は、綱吉が先程小さく身震いしたのを目に留めて、冷房が効きすぎているのだと思ったのだろう。
まったく彼らしい気遣いであり、勘違いだった。
「うん。ありがと」
「いえ、俺も気付かなくってすみません」
「ううん」
笑って、綱吉は助手席のシートに体重を預け直す。
何がというわけでもないのに、つい先程まで心を覆っていた不安や恐れが霧を払うように薄れて、気分がふっと軽くなった。
そして、変わるのは仕方がないのだ、という気になる。
今までだって、随分と綱吉は変わってきた。リボーンが沢田家にやってきて以来、変わらなかったことはないと言った方が正しいくらいに、日常生活も、ものの考え方も変わった。
そしておそらくは、それがこれからも続くというだけの話なのだ。
高校を卒業して、それから多分、イタリアへと生活の拠点を移して。
これまで見たことも聞いたこともなかった様々の事象や人間と遭遇する。
それで変わらない方がおかしかった。
そして、綱吉は、それでも変わらないものもある、と思いながら獄寺の横顔をそっと眺める。
傾いた午後の日差しを避けるために、獄寺はやや濃い目のサングラスをかけており、その影を受けて灰緑色の瞳も、今は暗く翳って見える。だが、その影が、彼の顔貌の端整さを際立たせていて、その横顔に綱吉は密かに見惚れた。
「十代目、着きましたよ」
言いながら、舗装されていない荒れた道の終着地で、獄寺は静かにブレーキを踏んで車を止める。
そこは岬の先端だった。
もともとシチリアの海岸線は断崖ばかりで、砂浜は殆どないのだが、そこもまた、大地は遥かな下方にある海へと向かって真っ直ぐに切り立っている。
車を降りると、途端に強い海風が髪をなぶった。
「う、わぁ……」
何があると言うわけではない。あるのは、海と空と断崖、それだけだった。
だが、それだけの世界が言葉にならないほどに美しい。
明るく透明度の高いサファイア色の海が濃く薄く揺らぎながらどこまでも広がり、沖合いの空と溶け合うあたりは深い紺碧へと沈んでいる。
そして水平線あたりに白い雲が浮かんでいるばかりの、真っ青に晴れ渡った空。
白っぽい岩ばかりが目立つ断崖。
その風景を見つめているうちに、何かが綱吉の心の奥底からこみ上げてくる。
───この場所だった。
自分が来たかった場所。
日本にいた頃から、恋焦がれていた場所。
映画でヨーロッパの風景を見た時にも、写真でイタリアの海を見た時にも感じた何か、そしてそれらよりも遥かに強い、昨日シチリアの島影を見た時に感じた何かよりも、遥かに大きなものが押し寄せてくる。
悲しいのではない。辛いわけではない。
ただ、途方もなく愛おしく、切ない。
イタリアを……イタリアの海を見たくて、この旅に出ようと思った。
だが、それは違っていたのだと今なら分かる。
真実見たかったのは、この海、この風景だった。
───帰りたかった。
ここに帰ってきたかった。
この風景を、もう一度見たかった。
身体の一番奥から込み上げてくるそれは、魂の呼び声か、血の記憶か。
分からないままに込み上げる感情が、涙となって零れ落ちてゆくのを感じる。
だが、頬を伝い落ちる雫をぬぐいもせずに、綱吉は海と空を見つめ続けた。
魂に焼き付けておきたかった。
次にここに来るまで決して忘れないように、この遥かな青さを、この世界の果てまで続くような広さを。
自分と同じ血を持つ人々が、心の底から、魂の底から愛していたこの風景を。
───この海が、俺の還る場所。
日本を、並盛を愛している。かけがえのない場所だと思うし、本当の意味で郷愁を感じるのは、あの街だけだ。
けれど、あそこは生まれた場所ではあっても、自分が眠るべき場所ではない。今初めて、綱吉は強くそう感じる。
この場所でなければならなかった。
この先、自分が生きてゆくのは、この空と海の間にある乾いた大地でしかありえない。
そうして尚もしばらくの間、海を見つめてから、綱吉はゆっくりと頬を濡らす涙をぬぐった。
それから、後ろを振り返る。
斜め後ろ、少し離れた位置に獄寺は立っていた。
サングラスを外し、少しばかり気遣わしげな顔でこちらを見つめていて、けれど、何も言わない。
ああ、と綱吉は思う。
自分が泣いている時でも笑っている時でも、嘆き悲しんでいる時でも歓喜にうち震えている時でも、きっと獄寺はこうして傍にいてくれるのだろう。
地の果てでも、地獄の底にまででも、共に行ってくれる人。
世界でただ一人、この世の終わりまで自分の味方であってくれる人。
世界が、自分がどれほど変わっても、彼はきっと変わらない。ならば、決して失くすまい、と思う。
物理的な意味ばかりでなく、彼の心を決して裏切らない。自ら、彼を失うような真似は決してしない。
そう願うのは自分ばかりではなく、彼もまた、きっと同じように思っていてくれるはずだった。
「獄寺君」
「はい」
名を呼ぶと、即座に返事が返ってくる。
そんな彼に、綱吉は笑いかけた。
花が咲くように、雲間から日差しが差し込むように。
「帰ろう、日本に」
「──はい」
「母さんも山本も、きっと皆が待ってる」
「はい」
うなずく獄寺に、ゆっくりと歩み寄る。
「俺、この国に来て本当に良かった。本当だよ」
「……はい。俺も来て良かったです」
「うん。でも、帰らなきゃね」
「はい」
獄寺もうなずいて、二人は車へと戻り、乗り込む。
そして、もう一度岬の先に広がる海を見つめてから、古い小さなフィアットは静かに動き始め、白く乾いた砂埃を立てながらその地を離れた。
End.
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