誰が為に陽は昇る 30

 綱吉が語るイタリアの各地の印象を、九代目は真摯に聞いてくれた。
 栄光の輝きを残す壮麗な建築物、緑豊かな丘陵地、どこまでも透明に輝く宝石のような海。
 街角やバールで出会った親切な人々、スリの少年、日本人観光客に冷たい目を向けた青年たち。
「……獄寺君は、全部見せてくれました。この国の良い所も、そうでない所も」
「彼は真っ直ぐで正直な子だから、ずるく立ち回るようなことはできないのだね。本当なら綱吉君には、この国の綺麗で良い所ばかりを見せたかっただろうに……。
 私だってそう思うよ。せっかく来てくれたのだから、この島の美しい所だけ見て帰って欲しい。だが、それはフェアではない……」
「はい。俺が見たかったのは、この国の全てです。本当のこの国を見て、感じたかった」
「そうだね。……良い旅ができたようで、良かった」
「はい」
 それは真実だったから、綱吉も深くうなずく。
 そして、
「九代目、お聞きしてもいいですか」
「勿論だよ。私は何も隠しはしない。答えられることは全部答えよう」
 綱吉は、ずっと聞きたかったことを口にした。
「獄寺君のことです。何故、五年前に獄寺君を日本に来させたんですか? あの頃の俺は、十代目候補の扱いをされるのも嫌がっていたのに……」
「ああ、それは隼人が、君のいい友達になれそうだと思ったからだよ」
 綱吉の問いかけに、九代目はさぞ当たり前のことのように答え、続けた。
「隼人は人の気持ちの分かる優しい子だから、同じように人の気持ちに敏感な君とは仲良くなれるだろうと思った。
 それに、あの子は一旦、懐に入れたものに対しては、守ろうという気持ちが強く働く性格をしているから、私や家光や奈々さんにとってとても大切な君を、裏切って傷つけるようなこともしないだろうと思ったのだよ。私は間違っていたかね?」
 私は間違っていなかっただろう、というような口ぶりで言う九代目に、綱吉もつい口元をほころばせる。
「いいえ、間違ってなんかいません。もっとも、俺が人の気持ちに敏感かどうかという点については、微妙ですけど」
「そんなことはないよ。君はとても繊細で感じやすい心を持っている。私が言うのだから、間違いない」
 九代目の口調は穏やかで、だからこそ自信満々に言い切るよりも遥かに説得力に満ちていた。
「君は、他人の優しさにも悪意にも敏感に反応する。そして、悪意を強く感じ取るからこそ、優しくされたら優しさを返さなければならないと感じ、優しくしてくれた人たちを守りたいと思う。それは人として、とても尊い感情だよ」
「───…」
「だから、私は君が次のボスになってくれたらいいと思った。あくまでも私の勝手な希望だが、君なら私が大切に思うものを、同じように大切にしてくれるのではないかと思ってね。……その点、XANXASは私の跡継ぎには不向きだった」
 思慮深い響きの声からは内面の苦渋はうかがえず、九代目の表情も曇る気配は無い。が、聞いている綱吉の方は、あまり平静ではいられなかった。
 今、九代目は綱吉が一番聞きたかったことの核心を語っている。
 ゆえに、全身を耳のようにして綱吉は九代目の言葉に聞き入った。
「私は、あの子を愛している。だが、たとえ実の息子であったとしても、やはり私はあの子ではなく君を選んだだろう。
 あの子もボスになれば、ファミリーを外部から守ろうと務めるだろうが、その理由は『自分の持ち物に手出しをされることが我慢ならない』からであって、その根底にファミリーへの愛着があることを、あの子は決して認めようとはしない。
 それでは外敵からはファミリーを守れても、結果として不幸になる。あの子も、ファミリーも」
 そう言い、九代目は少しばかり自嘲気味に微笑んだ。
「綱吉君。私のような立場にあるものが何を言うと笑うかもしれないが、私は幸せでありたいし、ファミリーの皆も幸せであって欲しいのだよ。そうあることが自分の勤めだと思って、何十年もボスをやってきた。
 勿論、全てが上手くいったわけではない。上手くいったのは、ほんの一握りのことだけだ。だが、それでも精一杯にやってきたのだよ」
 幸せでありたい。
 その言葉は、何故か綱吉の胸に深く響いた。
 幸せでありたい。幸せになりたい。
 ──幸せになりたくない人間など、きっとどこにもいない。
 けれど、どうすれば幸せになれるのか。何をもって幸せと言うのか。
 それが分からないから、皆、悩み苦しむ。
(俺は?)
(どうやったら、幸せになれるんだろう? 何が幸せなんだろう?)
(皆は? 何が幸せなんだろう? どうしたら幸せだと感じてもらえるんだろう?)
(──俺は、どうしたらいいんだろう?)
 だが、心に浮上したその疑問を深く考える前に、九代目が続けた言葉に思考はさえぎられる。
「だから、綱吉君。私は君にも十代目になることを強要する気はない。君が一番幸せになれる道を選んでくれれば、それが何であれ、心から応援したいと思っているよ」
「九代目……」
 それは優しい言葉だった。
 上辺だけではない愛情という名の温もりに満ちた言葉は、先程の言葉とは別に、また温かく綱吉の胸を満たす。
 けれど、と綱吉は思った。
「九代目は……今、お幸せなんですか?」
 訊いてはならないことだったかもしれない。少なくとも、綱吉にはそんなことをたずねるほどの資格はない。
 だが、どうしても気になったのだ。
 穏やかで愛情深い瞳をしたこの老人が、彼の望んだ幸せの中にいるのかどうか。
「幸せだと思っているよ」
 対する九代目の声は、何の欺瞞もなく本心から生まれ出たもののように揺らぎがなかった。
「無論、完璧には程遠いかもしれないがね。妻が生きていてくれたらと思うこともあるし、XANXASに対しても、私はあまり良い父親にはなれなかった。
 それでも私にはファミリーがあるし、家光や君もいる。愛しているものが沢山あるから、その愛がある限り、私は決して不幸にはならないのだよ」
 そして、九代目は優しい目で綱吉を見つめる。
「君も沢山のものを愛しなさい、綱吉君。自分以外のものを愛せば、人は孤独ではなくなる。そして、孤独ではないことを幸せというのだよ。愛し愛されることほど尊いことは、この世に存在しない」
「───…」
「きっと君には、今でも大切なものが沢山あることだろう。それを大切にしなさい。難しく考える必要はないのだよ。その大切な人たちが笑顔を見せてくれて、君も笑顔でいられたら、それで幸せには十分に足りる」
 大切な人、と言われて綱吉の脳裏にはいくつもの面影が浮かんだ。
 獄寺は勿論のこと、山本やリボーン、京子、ハル、ランボ、イーピン、了平、雲雀と骸は微妙だが、クローム、ディーノ、父と母、九代目……。
 単純に考えるだけでも十人を超える人々が思い浮かび、そこから更に派生する人々を加えたら、合計で何十人にのぼることか。
 いつの間に、と綱吉は今更ながらに驚く。
 ずっと……リボーンが沢田家に来るまでの十二年余り、両親以外には親しいと呼べるような相手は一人もいなかったのに。
 なのに今は、ダメツナのはずの自分が、こんなにも沢山の人々に囲まれている。そして、大切に思い、思われている。
 ああ、と思った。
 九代目の言う通りだった。愛し愛されることほど、尊いことはこの世にない。
 大切な彼らに幸せであって欲しいと思うし、彼らの幸せを守るためなら何でもできる。
 自分も、九代目と同じだった。
 あるいは、初代と。
 代々、ボンゴレのボスはその思いを継いできたのだ。
 過酷な世界にあって尚、大切な人々が幸せであれと、ただそればかりを願って。
「ありがとうございます、九代目」
 素直にその言葉が綱吉の唇からこぼれた。
 晴れやかでもあり、どこか大人びた、人生の悲しみにも似たものがほのかに混じった微笑が、自然に口元に浮かぶ。
「俺、やっぱりここに来て良かったと思います。あなたと話せて良かった」
「そうかね。そう言ってもらえると、私も嬉しいよ」
 穏やかに九代目は笑み、そして、立ち上がった。
 ゆったりとした足取りで端整な造形の書き物机に歩み寄り、ペンを取って何かを書き付けてから、小さなカードを手に戻ってくる。
「これをあげよう。あの電話の番号だよ。直通回線だから、私と話をしたくなった時には、気にせずにいつでもかけておいで」
 差し出されたカードを受け取ると、クリーム色のマーブル紙に、美しい筆跡で九桁の数字が書かれていて。
「──ありがとうございます。大切にします」
「うむ。それでは、そろそろ隼人を呼んできてくれるかね。君ともっと話したい気持ちは山々だが、あの子をあまり一人にしても可哀想だ」
「はい。ありがとうございました、九代目」
「私の方こそありがとう、綱吉君。君と話せて本当に嬉しかったよ」
「はい、俺もです」
 それじゃあ、と笑顔で綱吉は立ち上がり、そして、獄寺を呼ぶべく九代目のプライベートルームを出る。
 彼は廊下にいる、と言ったが、ドアを開けてすぐ見える位置には姿はなかった。
 だが、何かあれば呼んで欲しいと言った彼が、遠くに行くわけはない。
 彼がどこにいるのか綱吉にはすぐに見当がついて、そちらに向かって歩き出した。



NEXT >>
<< PREV
<< BACK