誰が為に陽は昇る 29

 ボンゴレ総本部は、獄寺が言った通り、壮大な屋敷だった。
 車に乗ったまま立派な正門を通り過ぎてからも、なおも十分近い距離を走り続け、当主の居館前の車止めで降りてからもまた、邸内をそれなりの距離を歩かなければ、九代目が待っているというプライベートルームまでは辿り着けない。
 だが、その広大な屋敷に、今は九代目一人しか住んでいないという情報は、綱吉を少しばかり驚かせた。
 九代目の夫人は早くに亡くなり、実子もなく、養子のXANXASも今はパレルモ市内にあるヴァリアーの詰め所で起居しており、九代目に近い血縁は嫁いだ妹がいるだけで、その妹が産んだ子供たち──三人の甥もXANXASの手によって何年も前に粛清されている。
 ゆえに、今の九代目には家族らしい家族は、もう一人も無いのだ、と獄寺は少し寂しげな表情で綱吉に語った。
 初代から数えられるボンゴレの血族は無論、代を重ねるに連れて分岐し、今でもイタリアを中心として各地に散らばっている。
 しかし、現代に至っても宗家と親しい関係を保っている分家は少なく、日本の沢田家は代々ファミリーに深く関わってきた珍しい部類の家柄であり、初代の直系でもあることから実質、第二の宗家とみなされているのだとも。
 それを聞いて初めて、綱吉は父・家光が門外顧問の座にいる理由、そして、自分が十代目候補に選ばれた理由を理解できた。
 おそらく、家族に恵まれなかった九代目にとって家光は甥のような存在であり、また家光もあの性格であるから、その九代目の情愛と信頼に真情をもって応えたのに違いない。
 そして、九代目が幼い綱吉を跡目に選んだのも、元々は家光の人格と能力、そして家光の留守中、細腕で綱吉を育て上げた奈々に対する信頼から生まれた選択肢だったのだろう。
 七光りとは言わないが、家光と奈々の存在があったからこそ、今の自分の存在があるということを綱吉は、ここに来て改めて感じざるを得なかった。
「本当にすごいお屋敷だね」
 どんな思いで九代目は長年、この館で一人きり暮らしてきたのだろうと思いながら、等間隔にある窓から差し込むまばゆい午後の日差しが絨毯の上に美しい光の模様を描くのを踏みつつ、綱吉は小さな声で呟く。
 綱吉には本来、古今東西を問わず建築に関する知識はかけらもなかったが、この二十日間というものイタリア縦断の旅をしてきたおかげで、どの時代の建物なのかということくらいは何となく分かるようになっており、この屋敷が古い城館を近代風に改築したものであることも朧気に把握できた。
 外見は相当に古いが、内装はおそらくネオ・ルネッサンスと呼ばれる様式だろう。ごてごてした装飾のない均整の取れた造詣の柱や天井が目を惹く、美しい造りだった。
「ええ。俺も総本部には出入りしてますが、こちらに足を踏み入れるのは初めてです。表の総本部の建物も相当なものですが、こちらはもっとすごいですね」
 獄寺も感心したように言い、この内装は十九世紀初頭の有名な建築家の手によるものだ、と綱吉に説明した。
 裕福な家の生まれである分、獄寺は音楽のみならず工芸方面にも案外に造詣が深くて、窓枠や照明、階段の手摺りの造形にすら、いちいち反応して目をみはる。
 綱吉自身、建物の風格には圧倒されていたが、そんな獄寺が何となく微笑ましくもおかしくて、高まっていた緊張が少しばかりほぐれるのを感じないではいられなかった。
 また、九代目が気を遣ってくれたのだろう。綱吉と獄寺を玄関広間で出迎えた執事らしき人物も、九代目のプライベートルームまでの道筋を二人に伝えただけで、案内係は用意されなかったため、二人は自分たちのペースで邸内の様子を存分に眺めながら歩くことができ、そのことも、綱吉の緊張をわずかながらも和らげることに一役買っていた。
 そうして教えられた通りに階段を二階へと上がり、角を曲がって。
「う、わ……!」
 目の前に広がった光景に、思わず綱吉と獄寺は声を上げた。
 絨毯の敷き詰められた幅の広い廊下そのものがギャラリーとされているのか、左右の壁にかけられた幾枚もの絵、絵、絵。
 それらは全て、肖像画だった。
「これ……全部、ボンゴレのボスだ……」
 半ば呆然と、等身大の肖像画を見上げながら綱吉は呟く。
 今よりも幾分若い頃の九代目。
 花の刺青の美しい八代目。
 カイゼル髭が目に付く七代目。
 片眼鏡が印象的な六代目。
 知的な細面の五代目。
 いかめしい威厳に溢れた四代目。
 髪型が独創的な三代目。
 どこかZANZASを思わせる二代目。
 ……そして。
「Giotto VONGOLA I ……初代」
 二十代半ば頃の肖像だろうか。その人は、静かなまなざしで目の前に立つ相手を見つめている。
 その前に、綱吉は立った。
「初代、ですか。この方が……」
 驚愕に満ちた声を聞くまでもなく、獄寺が目を丸くして自分と肖像画を見比べていることが、綱吉には分かった。
 ゆっくりと彼の方を振り返る。
「──そんなに、似てる?」
 自分が今、どんな表情をしているのか綱吉は分からなかった。微笑んでいるのか、血の因果の重みにひしいでいるのか。
 そして、獄寺はやはり正直だった。
「……はい。髪と瞳の色は違っていらっしゃいますが……」
 綱吉の心を思いやったのか、少しばかり厳しい顔をしながらも、彼が見た通りのことを伝えてくる。
 その答えに、綱吉は小さく笑んだ。
「そっか。君から見ても、やっぱり似てるのか。……五代も前の御先祖なのにね」
「……十代目。あなたは御存知だったんですか? 初代のお顔を……」
「うん」
 どこで、とか、いつ、とかは言わずに綱吉はうなずく。
「俺とは全然雰囲気が違うし、ずっと落ち着いて大人びていて……。でも、似てる、とは思ったかな」
 どこかで見たような、目鼻立ち。髪の癖。炎の色。
 そして、それ以上に心の──魂の一番深い部分で感じた、遥かな絆の存在。
 お前を待っていた、という言葉を、何の疑いもなく飲み込んでしまった程に。
「でも、良かった。ここに、この絵があって」
 綱吉は、まっすぐに肖像画を見上げた。
「……獄寺君。俺ね、九代目にも会いたいけれど、この人にも会いたかったんだ。九代目や父さんや、俺にまで繋がっているこの人に」
 だからこそ、この島に来たいと思ったのだ。
 九代目とは電話ででも話をすることができる。だが、この人と会うためには、この人の生まれ故郷に行き、その空と大地と風を感じるしかないと思ったから。
──黄金色と呼びたいほどに明るい琥珀色の瞳。
 やわらかく跳ねた癖のある金の髪。
 しんと静かで物憂げにさえ見える、けれど、強靭な意志を感じさせる表情。
 この人が全てを造ったのだ。
 栄えようと滅びようと、正しかろうと正しくなかろうと構わない。ただ、大切なものを守れるのならば、それでいい、と。
「この絵を見られただけでも、この島に来た価値があったよ。ここに来て、良かった」
「十代目……」
 綱吉の声や表情から何かを読み取ってしまったのか、獄寺が思わしげな声で銘を呼ぶ。
 だが、綱吉は笑んだだけだった。
「行こうか、獄寺君。九代目が待ってくれてる」
「──はい」
 そして再び廊下を歩き出しながら、綱吉は心の中でそっと呟く。
(獄寺君、俺は別に、初代に似てるからボスになろうと思ったわけじゃないんだよ)
(あの人が俺を認めてくれたからでもない。ただ皆を……君を含めて、みんなを守りたいと思ったからなんだ。多分、継承の試練であの人に会わなくても、きっとこの道を選んでた)
(本当に、それだけなんだよ……)
 今は口に出せない、心の中にある真実を獄寺に告げる日が来るのだろうか、と思いながらも肖像の間を抜けて、もう一度角を曲がる。
 その突き当たりの部屋が、九代目のプライベートルームだった。
 ドアの前で立ち止まり、綱吉に代わってノックしようとした獄寺を、片手を伸ばして制する。
 獄寺の行動を咎める気があったわけではない。この旅行の間中、鍵を開け、ドアを開くのはすべて獄寺に任せていたのだから、彼の行動は当然のことだった。
 だが、今度ばかりは彼に任せるわけにはいかなかった。
 ここに来たいと言ったのは……九代目に会いたいと言ったのは、綱吉自身なのだから。
 十代目、と声には出さずに唇の動きだけで呼んだ獄寺に、綱吉も声に出しては何も言わずに微笑む。
 そして、ゆっくりと二度、美しい装飾彫りの施された扉をノックした。
「綱吉です。九代目、あなたに会いに来ました」
「お入り」
 すぐさま、穏やかな声で応(いら)えがあって。
 綱吉は、重みのある扉をゆっくりと押し開く。
「よく来たね、綱吉君。会えて、とても嬉しいよ」
 夏の日差しが程よく差し込む明るく美しい部屋で、九代目は本当に嬉しげに微笑んでいた。
 自然、綱吉の表情も花が咲くようにほころぶ。
「はい。俺も嬉しいです。九代目」
「隼人、君も元気そうだ」
「ご無沙汰しております、九代目」
 綱吉から一歩下がった位置で、獄寺も深々と頭を下げて。
 それから、獄寺は綱吉が思いもかけなかったことを言った。
「俺は、これで失礼します。廊下に居ますから、何かあったらお呼び下さい」
「獄寺君」
 驚いて名を呼んだ綱吉に、しかし、獄寺はいつになく大人びた静かな微笑を向けた。
「九代目とゆっくりお話をなさるべきです、沢田さん。九代目も、きっとそれを望んでおられるでしょう。違いますか、九代目」
「いや、違わないよ」
 獄寺の問いかけに、九代目も穏やかに答える。
「君の気遣いに心から感謝するよ、隼人。だが、私は君とも話したいんだ。綱吉君との話が終わったら、君もこの年寄りの茶飲み話に付き合ってくれるかね?」
「喜んで、九代目」
 そう答える時ばかりは本当に嬉しさをのぞかせて、獄寺は、それでは、と綱吉にもう一度笑顔を向けてから、丁寧に一礼して部屋を出て行った。
 静かに閉ざされるドアを見つめていた綱吉に、九代目が声をかける。
「彼は本当にいい子だろう。そう思わないかね」
「──はい」
 振り返り、穏やかに微笑む九代目の目を見つめて、綱吉はうなずく。
「獄寺君は、俺の我儘を全部聞いてくれて、ここまで俺を連れてきてくれました。……この旅行の計画を立てる時には、シチリアは今の俺にとっては安全な場所じゃないからと、目的地から外すことを俺に頭を下げて謝ったのに」
「そうだったのかい。あの子らしいね」
「はい、本当に……」
 うなずく綱吉に、九代目は優しい目を向けた。
「こちらにお座り、綱吉君。そして、君がこの国で何を見て、何を思ったのか、私に教えてくれると嬉しい」
「はい、九代目」
 勧められるままに、美しい花模様の織り出された布地を張った長椅子に腰を下ろし、綱吉は九代目と向かい合う。
「どこから話したらいいでしょうか? 一番最初の、この旅行をしようと思ったところから?」
「そうだね、それがいい」
「はい。それじゃあ……」
 そして、静かに話し始めた。



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