誰が為に陽は昇る 28

 初めて見たシチリアの風景は、これまでに目にしたイタリアのどの風景とも違っていた。
 太陽は眩しすぎるほどに強く照り輝き、その陽射しの下で大地は乾き切ってしまっている。
 こんなところで人が生活してゆけるのかと思わず心配してしまうほど、道の両側にはどこまでも夏枯れた丘陵が広がっていた。
「十代目、お疲れにならないですか?」
「ううん、平気。それより獄寺君は休憩しなくても大丈夫?」
「全然、大丈夫ですよ」
 朝一番のフェリーで車ごとメッシーナ海峡を渡り、かれこれ三時間近く獄寺は車のハンドルを握り続けている。
 相変わらずその運転は丁寧であり、また車もサスペンションを上等の物に交換改造してあるおかげで、アスファルトが荒れているにもかかわらず、綱吉は肉体的な疲れは殆ど感じていなかった。
「でも、そうですね、九代目とのお約束の時間まで大分余裕がありますし、次の街辺りで、ちょっと寄り道しましょうか。美味いジェラートの店があるんですよ」
「うん、いいかも」
 正直なことを言えば、何であれ食べ物を口にしたい気分ではなかった。いつになく緊張してしまっていて、胃の辺りが締め付けられるような感じがずっと続いている。
 だが、獄寺が口数が少なくなってしまっている自分を気遣ってくれているのは分かったし、もしかしたら冷たくて甘いジェラートが、ささやかにでも気分転換になるのではという気がして綱吉はうなずいた。
 そして、そこから三十分ほど更に車を走らせて、獄寺は地図で道を確かめることもせずに幹線道路から外れ、街中へと向かって進み、程なく車を止めた。
「ここから先は道がちょっと狭いんで、歩きます。すぐそこですから、五分くらいで着きますよ」
「うん」
 うなずいて、車の外に出る。
 途端、むせかえるほどに甘い甘い香りのする熱い風に頬をなぶられて、綱吉は思わず目をまばたかせた。
「獄寺君、この匂いって何?」
「ああ、これはジェルソミーノ……ジャスミンの花の香りですよ」
「ジャスミン?」
「ええ。──ああ、あそこにもありますね。あの白っぽい花、見えますか?」
 周囲を見渡した獄寺が、道沿いの家の軒先にある鉢植えを指差す。
 確かに彼の言うとおり、つる性の植物に白い花がいっぱいに咲いているのが見えた。
 そればかりではない。よく見てみれば、あちらこちらの家の垣根や植込みに、同じ白い小さな花が夜空に輝く星のように咲き誇っている。
「シチリアの匂いは、基本的に花の匂いなんです。初夏はレモン、夏はジャスミン、秋はオレンジで……。それぞれの季節には、こんな風にむせ返るくらいに島中、花の香りでいっぱいになるんですよ」
「へえ……」
 今朝この島に降り立って以来、ひたすら乾いた風景ばかりが続いていたから、てっきり風も乾いた土の匂いがするのだろうと思い込んでいた綱吉は、その濃厚な甘い匂いに新鮮な驚きを覚える。
 これがシチリアの空気なのかと思いながらも、陽射し避けの白いパーカーを羽織り、そして、獄寺について石畳の道を歩き出した。
 道の向こうに見えていたジェラート屋までは本当に数分の距離で、店頭には既に幾人かの地元民らしい先客たちが、テントの日陰でそれぞれに美味しそうにジェラートをほおばっている。
「この店は、この辺りじゃ一番美味いジェラートを出すんで有名なんです。イタリア一の店は、この島の東部のアーチレアーレにあるんですけど」
 また今度、機会があったら行きましょう、と言いながら、獄寺は綱吉に食べたいものを聞き、店主にそれを告げて、二皿のジェラートを受け取った。
「ありがと」
「いいえ」
 差し出された一皿を礼を言って受け取ると、頼んだのはリモーネ(レモン)のはずなのに、大きな塊から切り取られたような断面は、綺麗な色の層になっている。
 ジェラートを見つめる綱吉の不思議そうな顔に気付いた獄寺が、説明した。
「真ん中の白いのがレモンで、その外側の薄緑がピスタチオ、一番外側のピンクが赤ワインで色をつけたレモンの蜂蜜のジェラートです。それぞれも美味いですけど、全部一緒に食っても美味いですよ」
「うん。普通に白っぽいのを想像してたから、何だかびっくりした。すごく綺麗だね」
「でしょう? あ、レモンの中に散らばってるのは、ドライフルーツのシロップ漬けですから」
「この赤いやつとかオレンジのやつ?」
 言われるままに、宝石のような色鮮やかな粒をスプーンですくって口に入れると、甘さは案外に控えめで爽やかなレモンの香りが一杯に広がり、続いてドライフルーツを噛んだ途端に、また別の鮮烈な甘みと果物の香りが広がる。
「すっごく美味しい……!」
「はい。絶対に気に入られると思ったんですよ」
 嬉しげに獄寺は言って、自分もジェラートを食べ始める。
 その横顔を綱吉は、そっと眺めた。
 ──いつものことではあるが、この旅行の間も、獄寺はひたすらに優しかった。
 綱吉がほんのわずかでも嫌な気分を味合わずともすむように心を砕き、けれど、それだけではなく、旅の途中からは『綱吉が本当に見たいもの』を見せてくれた。
 十三の年から五年もの間、惜しみなく注がれ続けてきた単に優しいだけではない、深い気遣いと誠実。
 そしてそれは今、シチリア行きという形でまた一つ、大きな結実を見せている。
 ──昨日の夕方、綱吉はシチリアに行きたいと獄寺に訴えたものの、いざ、その我儘が叶えられると決まった時、言葉にできない緊張を覚えずにはいられなかった。
 これまで話にしか聞いたことのないボンゴレの、そしてすべてのマフィアの故郷。
 どうしても行かなければならないと意気込んだものの、本当にそこに足を踏み入れるとなると、怖気づかずにはいられなかったのだ。
 無論、綱吉はそんな内心を隠してレッジョ・ディ・カラブリアのホテルでも普通にふるまっていたつもりだったが、獄寺には分かっていたらしい。
 今朝、ホテルを出る時に「九代目は迎えを出して下さるとおっしゃいましたが、お断りしました」と綱吉に告げ、「俺が、あなたをお連れします」と静かな決意を感じさせる笑顔で言ったのである。
 その瞬間に綱吉がどれほどの安堵を覚えたか、他の人間には想像もつかないだろう。
 ──何があっても、獄寺君は傍にいてくれる。
 ──どんな状況でも、自分を大切に想っていてくれる。
 今更のことかもしれなかったが、そのことを改めて確認した綱吉は、緊張こそは解けなかったものの、シチリアという島に対する恐れは、その瞬間に忘れることができた。
 シチリアは獄寺の生まれ故郷であり、自分の父や血の繋がった人々が居る場所でもある。そう考えれば、たとえボンゴレの──マフィアの本拠地ではあっても、怖い場所ではなくなったのだ。
 だが、それでも、この島に足を踏み入れたことは、自分のこれからの運命を本当に決定付けた──そんな予感がどうしても消えず、それにこれから向き合わなければならないという緊張を、どうしてもやわらげることができない。
 今この瞬間も、ジェラートは舌がとろけそうなほどに甘くて冷たくて美味しいのに、スプーンを持つ右手は、ともすれば震えてしまいそうだった。
「獄寺君」
「はい?」
 やっぱり駄目だ、と綱吉は自力でどうにかすることを諦め、傍らの少年の名を呼ぶ。
 情けない話だが、こんな状況でわずかでも勇気を出すには、彼の優しさが数滴、どうしても必要だった。
「ごめん。せっかくここまで連れてきてくれたのに……俺、やっぱり緊張しちゃって。それで、迷惑ついでで悪いんだけど、少しでいいから、これから行く総本部のこと、教えてくれないかな? 見た感じとか、中の様子とか」
 自分一人の考えで想像していると、どんどん怖くなってしまうから、と正直に告げると、獄寺は温かな日差しが差し込むような、優しい笑顔を見せた。
「十代目が緊張されるのは当然ですよ。この国自体、初めてなのに、更に初めての場所に踏み込もうっていうんですから。俺だって昔、初めて総本部に呼び出された時は、正直、回れ右して逃げ出したいくらいにビビってました」
「──そうなんだ?」
「はい。でも、そこを踏みこたえて九代目の御前に行ったら、日本に行けって言われたんですよ。日本に行って、十代目のあなたに会えって」
 それは初めて綱吉が聞く話だった。
 五年前に獄寺が日本にやってきたのは、九代目の意向だったことは知っているが、獄寺の口からそれをきちんと聞いたことは一度もないのである。
 だから、綱吉は自分自身の緊張も忘れて、獄寺の話に聞き入った。
「だから俺は、あの時しっぽを巻いて逃げ出さなかった俺自身を、今でも褒めてやりたいです。逃げなかったお陰で、あなたに会えた。俺の人生で最高の出来事です。あの日がなかったら、今の俺もなかったんですから」
 そう言い、獄寺は綱吉をまっすぐに見つめる。
「大丈夫です、十代目。あなたと九代目は血が繋がっていらっしゃるんですから、あなたが親戚のおじい様に会いに行くのに、何の問題も起きようはずがありません。『十代目』としてではなく、沢田綱吉さんとして九代目にお会いになればいいんです。もちろん、俺もお傍を離れません」
「獄寺君……」
「俺を信じて下さい、十代目。総本部は、とても大きくて綺麗な館です。大勢の人間が居ますが、九代目のプライベート区には一握りの側近しか入れませんから、あなたが目にするファミリーは数えるほどしか居ないはずです。
 そして、あなたは十代目候補として尊重される立場の方です。あなたには誰も危害を加えることなんかできませんし、俺がそんなことはさせません。──何があっても」
 静かだが強い声で言い切り、獄寺はもう一度、繰り返した。
「何があっても、俺はあなたの傍にいます。いつでも、どんな場所でも」
「いつでも、どんな場所でも……?」
「はい。必ずです」
 上辺(うわべ)だけでは決してありえないその言葉は、綱吉の心に深く深く染み透る。
 今この時ばかりでなく、獄寺はきっと、綱吉が修羅の道を選べば同じ血塗られた道を、綱吉が地獄に落ちれば同じ地の底へと、喜んで従ってくれるのだろう。
 たとえ全世界を敵に回したとしても、獄寺だけは絶対に自分の味方であってくれる。
 何の疑いもなく、綱吉はそう信じることができて。
「ありがとう、獄寺君」
 そっと微笑んで獄寺を見上げる。
「俺、君に『大丈夫』って言って欲しかったんだ。これまで君が、いつも言ってくれたみたいに。でも君は今、それだけじゃなくて、もっとすごい言葉をくれた。……ありがとう、本当に」
 その綱吉の言葉に、今度は獄寺が目をみはる番だった。
「十代目……」
「もう大丈夫。まだ緊張はしてるけど、君の言葉のお陰で、逃げたい気はなくなったから。九代目とも、ちゃんと話ができると思う」
「十代目」
「俺には君がいる。……そう思って、いいんだよね?」
「はい、勿論です!」
 感激なのか、あるいは、そればかりではないのか、頬に淡く血の気を昇らせて獄寺は力強くうなずく。
 そんな獄寺に、綱吉も小さく笑みを返した。
 ──それは口にしても良いのかどうか、ぎりぎりの言葉だった。
 必要以上に互いの距離の近さをあらわす言葉は、二人の感情を危険な水域にまで追いやりかねない。
 けれど、そうと分かっていても、綱吉は言葉にしたかった。それしか、獄寺の真摯さと誠実さに返せるものを、今の綱吉は持たない。
 だから、敢えて危険な水際まで踏み込んで、『右腕』としての獄寺が求める、そして『十代目』としての自分が与えられる最上の言葉を口にした。
(残酷……だね。俺も、君も)
 心にもないことを口にしているわけではないが、本当に言いたいこと、聞きたいことは、こんな言葉ではない。
 なのに、それを望み求めることは、決して許されない。
 自分が真実求める甘露を、相手が隠し持っていることを知っているのに、かろうじて渇きを潤すだけの泥水を与え合うことしかできないのだ。
 そんな道を自分は望み、選んでしまった。
 これが残酷でないとしたら、何を残酷と呼べばいいだろう。
(けれど、それでも俺は、君だけが大事だとは言えない。……それだけは、どうしても言いたくないんだよ)
 獄寺が一番大事で、一番傍にいて欲しい人間ではあっても、ほかにも大切に思う仲間は大勢いる。それを否定するような言葉だけは、絶対に口にできない。
 その思いこそが綱吉の胸の内にある、ともすれば揺れて溢れ出しそうな感情を押しとどめる最後の防波堤だった。
「それじゃ、行こうか。獄寺君」
「はい」
 ジェラートを綺麗に平らげ、ガラス皿をカウンターに返してから、綱吉は獄寺を振り返る。
「ここから総本部までは二時間くらいです。九代目がきっと、首を長くしてお待ちですよ」
「うん、そうだね」
 記憶にある限り、九代目は祖父のように温かく、優しい存在だった。
 自分の血に繋がる人。自分を見出し、選んでくれた人。
 会いたい、と昨夜の焼け付くような感情ではなく、素直に思う。
 そして綱吉は、ジャスミンの甘い香りが漂う石畳の道を獄寺と共に、車に向かって歩き出した。



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