誰が為に陽は昇る 27

 旧型のフィアットは海岸沿いの道を走り続けていた。
 半島の土踏まずを過ぎ、つま先に近づいても相変わらずすれ違う車は殆どなく、真夏の乾き切ったイタリアの風景と、強い陽光にきらめき続ける海がどこまでも続いている。
 ここまで列車を自動車に切り替えてからの移動はスムーズだった。
 そもそもが法律違反であるため、手放しに良かったというわけにはいかないが、一昔前ならいざ知らず、最近のイタリア車はなかなか壊れにくくなっているようで、メカニズム的なトラブルも全くなく、また時刻表と実際の到着時間との誤差を考える必要もなくなったことで、気分的にもずいぶんと楽になったのは確かだった。
 また、綱吉の予想以上に獄寺は安全運転をしてくれたため、用意した偽造の運転免許証も使う機会がないまま、最終目的地である半島のつま先、レッジョ・ディ・カラブリアは目の前に迫りつつある。
 そして、よほど二人の悪運が強いのか、それとも幸運の女神が気まぐれに微笑んでくれたのか、古くて小さなフィアットは海岸沿いの道を何者にも遮られることなく西に向かって走り続け、そしてその日の午後遅く、獄寺はメッシーナ海峡を望む海際の路肩に車を停めた。
 日没が過ぎたばかりの時間帯の潮風は強さを増し、車を降りた途端に二人の髪をなぶる。
 その中で、獄寺は海峡の向こうを指差した。
「あれがシチリアです。対岸に見えるのはタオルミーナの街の灯りです」
 目をこらすまでもなく、一見島とは思えないほど大きく長い影が、紺碧の海の向こうに広がっている。
 その雄大な影に、綱吉は胸の一番奥底を掴まれ、握り締められるような感覚を覚えて、思わずみぞおちの辺りに手を当てた。
「ボンゴレの総本部はあのずっと向こうにあります。州都のパレルモから車で一時間ちょっと、タオルミーナからだと車で五時間以上かかります」
「……そこに九代目もいるの?」
「はい。十代目のお父様……門外顧問も、総本部からそう遠くない小さな街にいらっしゃるはずです」
「────」
 綱吉は食い入るように、黄昏時の残照と夕闇が入り混じる世界に蒼く浮かび上がる島影を見つめる。
 ───あれが、シチリア。
 すべてが、始まった場所。
 今も尚、自分に続くすべてがある場所。
 旅はもうここで終わりだというのに……明日にはローマに向かって発ち、日本への帰途につくというのに、たった今まで体内深くで眠っていた何かが目覚め、腹の底から這い上がってくるようだった。
 初めて見る島影、強い潮の香りと、岸壁に砕ける波の音、ねぐらに帰る海鳥の声。
 これまでの旅行の過程でも似たようなものを何度も目の当たりにしたはずなのに、そんなものの全てが胸に迫って、今にも叫びだしてしまいそうになる。
 言葉にならない声で、獣の雄叫びのように。
 故里の森を恋うる狼の遠吠えのように、声の限りに。
「ご…くでら、くん」
 その代わりに綱吉は、かすれた声で傍らの右腕の名を呼んだ。


「あそこに……行きたい」


 ───あの島に、行きたい。
 琥珀色の瞳に残照を映しこんだかのような朱金の輝きを宿らせ、狂熱に浮かされた人間のようにシチリアの島影を見つめたまま。
 綱吉はかすれた声で続けた。
「九代目に、会って……話をしたい」
「十代目」
 驚いたように獄寺が綱吉を見る。
 その驚愕のまなざしに感応するように、綱吉はシャツのみぞおちの辺りを強く右手で握り締めたまま、のろのろと獄寺の顔を振り仰いだ。
「シチリアには……行けない。分かってるよ。危険なんだよね? うかつに今の俺が行っていい場所じゃない。分かってる。でも……」
 綱吉の声とまなざしが震えた。
「俺は行かなきゃいけないんだよ。あそこに行かなきゃ、この国に来た意味がない。ここまで来た意味がなくなる。あそこに、あるんだ。全部。何もかも、あの島から始まってるんだ……!」
「十代目」
「分かってるよ! 俺は無茶言ってる! 君を困らせてる! でも、それでも……シチリアに行きたい! 九代目と会いたいんだ……!!」
 叫びながら、綱吉自身、何故突然にこんな衝動に襲われたのか分からなかった。
 ただ、自分の中の何かが叫んでいるのだ。
 この身体に流れる血か、それとも、ボンゴレ十世となる覚悟を定めた魂か。
 その何かが、行けと命じている。
 すべてはあの島に在るのだと。あの島から、全ては始まったのだと。
 行って、会えと叫ぶ。
 九代目に。自分のルーツに。
「寄り道してる暇なんかないことも分かってる。明日、ローマに戻って一泊して、明後日の飛行機に乗らなかったら、山本との約束だって守れなくなる。母さんだって、予定が変われば心配する。君にも九代目にも迷惑かける。分かってるんだ、我儘だって。でも……!」
「十代目!」
 突如強い声で銘を呼ばれ、両肩を掴まれる。
 痛みを感じる寸前の強い力に、獄寺が自分に触れているのだと気付くのが綱吉は少しばかり遅れた。
 あ、と思った時には、もう獄寺の両手は離れてしまう。
「大丈夫です、十代目」
「……獄寺君……」
「俺に任せて下さい。十代目が望まれることなら、何だって叶えて差し上げますから」
 強く、自信に満ちた顔で獄寺は言い切った。
 これまで何度も見てきた表情だった。圧倒的な敵を前にして、それでも彼自身の不安や苦しみを押し殺して、綱吉を力づけようとする彼の表情。
「総本部にはすぐに連絡を取ります。九代目のスケジュールは俺にも分かりませんが、もしアルプスあたりに避暑にお出かけになっていたとしても、俺が必ず、そこまでお連れします。
 野球馬鹿の甲子園の決勝までは、まだ五日もありますし、お母様にも俺から予定が変わったことを説明します。だから、大丈夫です」
「───…」
 何が大丈夫なの、と綱吉は思う。
 自分が口にしたのは、ただの我儘だ。どんなに切実な思いから生まれたものであっても、獄寺が自分に危険が及ばないよう細心の注意を払って立てた計画を台無しにするものでしかない。
 それなのに、彼は。
「俺はちょっと電話をかけさせてもらいますから、十代目は車の中に戻っていて下さい。ここは海風が強すぎますから」
「……獄寺君」
「何ですか?」
「どうして、叶えようとするの。俺の我儘なのに。君にとっていいことなんて、一つもないのに……!」
 どうして、と問う間にも、綱吉の目頭が熱くなる。
 尋ねるまでもなく、答えは分かっていた。
 自分が望んだからだ。
 どんなに酷い内容の我儘であろうと叶えようとしてくれるほど、獄寺が自分を大切に想っていてくれるからだ。
「俺がそうしたいからですよ。俺は、あなたのために何か出来ることが嬉しいんです」
「そんな……こと……」
 大切に想われるのは嬉しい。
 けれど、苦しかった。
「俺は……君に、何も返せない。何も、できない。君は俺の我儘を叶えてくれる。でも、俺は君に、何をしてあげたらいいの……?」
 獄寺は、綱吉に対しては我儘を言わない。
 昔はそうでもなかったが、いつの頃からか、彼自身の望みを口にしなくなった。
 だから、綱吉は、そんな彼に何かを返すために言葉を使うようになった。「ありがとう」とか「嬉しい」とか「すごいね」とか。
 そんなつまらない、ありふれた言葉であっても、獄寺はひどく嬉しそうにしてくれたから。
 そして、それ以外のものを綱吉に求めようとはしなかったから。
 けれど、それだけでは全然足りない。
 どれほど心を込めたところで、薄っぺらい言葉だけでは、彼の誠意に見合わない。
 彼が望むものがあれば、何であれ差し出して叶えたい。
 その想いだけで綱吉は、獄寺を見つめる。
 だが。
「俺は十代目が、ありがとうっておっしゃって、笑って下されば十分です」
 綱吉のまなざしの先で、獄寺は中学生の頃と変わらない、少しだけ照れを含んだ笑顔でそう言って笑った。
 その笑みと言葉に、今度こそ綱吉の胸が強く震える。
 が、それを懸命に押し殺しながら、綱吉は呼吸を整え、かろうじて笑みを浮かべた。
「……ありがとう、獄寺君」
「はい」
 震える声で告げれば、心底嬉しそうに獄寺はうなずいて、携帯電話を取り出した。
「じゃあ、俺、電話しますから。ちょっと待ってて下さいね」
 そして綱吉に背を向けると同時に笑みを消した獄寺の後姿を見つめて、綱吉は自分の口を手のひらで強く押さえた。

 ───君が好きだ。

 押さえていなければ、心の中を荒れ狂う感情のままに叫んでしまいそうだった。
 今ほど獄寺のことを強く好きだと感じたことはなかった。
 好きで好きで気が狂いそうだとすら思う。
 けれど、叫べない。まなざしで訴えかけることすらできない。
(こんなことが一生続くのか……!?)
 一番傍にいるのに、一番好きなのに、獄寺も自分を愛してくれているのに、言葉にも態度にすら出せない。

 ───神様。

 その救いのない現実に、初めて綱吉は絶望を覚える。
 けれど、どうしようもなかった。

 ───神様、お願いです。

 ボンゴレ十世として生きてゆくことを決めた以上、狂気のようなこの想いを抱えたまま、この先も共に生きてゆくしかない。
 自分も、獄寺も。

 ───他に何も望みません。他に何も要りませんから、今度生まれ変わったら、その時こそ、獄寺君を俺に下さい。どうか、君が好きだと、俺に言わせて下さい。

 絶望の中で、生まれて初めて綱吉は神に祈る。
 神に祈るしかない心を知る。
(泣いたら駄目だ……!)
 涙が頬を伝ってしまえば、獄寺は目ざとくその痕跡に気付くだろう。
 零れ落ちそうになる涙を強くまばたきすることで散らし、夏の星が輝き始めた空を見上げる。
 気を紛らわせるように星の数を数えていると、電話を終えた獄寺がこちらを振り返った。
「十代目、ラッキーですよ。九代目は総本部にいらっしゃいました。明日の午後、是非お会いしたいとのことです」
 まるで彼自身の願望が叶ったかのように、明るい表情で言う。
 否、綱吉の願望をかなえることこそが、今の彼の望みだったのだろう。そして、それが叶ったから、綱吉が喜んでくれるのではないかと考えて、嬉しい気分になっている。
(本当に馬鹿だよ。君も、俺も)
 心の底からそう思いながら、綱吉は笑顔を浮かべる。
「すごいね、獄寺君。本当に俺の我儘を叶えてくれた」
「これくらい、大したことじゃないですよ」
 言いながらも誇らしげな表情を隠せない。そんな獄寺が、死にたいくらいに愛おしかった。
「ううん、すごいよ。本当にありがとう」
「十代目に喜んでいただけたんなら、俺も嬉しいです」
「うん。すごく嬉しい」
 望まれるままに言葉を返しながら、綱吉は夕闇に暗く沈み始めた海峡の向こうの島影を見つめる。
 すると、獄寺も綱吉の視線の先を追った。
「明日の朝一番のフェリーで、タオルミーナに渡りましょう。そこから車で、明日の昼過ぎにはパレルモに着けますよ」
「……うん」
「それじゃ、ホテルに向かいましょうか」
「うん」
 促されて歩き出す。
 そうして車に向かいながら、綱吉はもう一度、獄寺の名を呼んだ。
「獄寺君。本当にありがとう」
「──はい」
 限りない想いを込めての言葉に、真情の響きを感じ取ったのだろう。獄寺も、満ち足りた嬉しげな笑みを浮かべる。
 その笑顔を、この先永遠に忘れない、と綱吉は思った───。



NEXT >>
<< PREV
<< BACK