誰が為に陽は昇る 26

 獄寺の車の運転は、普段の彼からは想像もできないほどに丁寧で確実だった。
 おそらく助手席に綱吉がいるからだろうが、急発進も急ブレーキもなく、約束通りにスピードを出しすぎるような真似も、赤信号無視もせず、古いフィアットは快調に海岸線に沿った道路を走り続けた。
 田舎であるせいか対向車も少なく、荒れたアスファルト舗装の道は空いていて、車窓の向こうには、ただひたすら青い空と海が広がっている。
 時々、どんな田舎の村にでもある雑貨屋を兼ねたバールの前に車を停め、短い休憩を取る以外、道程は単調で特に何か変わったものが見えるわけではない。
 そして目に映る風景は、空と海を除いてはひたすらに乾いており、埃っぽかった。だが、その分、夕焼けは鮮やかで、イオニア海を鮮やかな朱金に染めながら落ちていった太陽の色は、一生忘れられそうになかった。
(イタリアに来てから、もう二週間か。早いなあ)
 ミラノのマルペンサ空港に降り立ったのが、もう随分と前のことのように思える。
 経済と産業の中心地である賑やかで洗練された北部の都市を巡り、壮大な歴史と宗教的な神秘に彩られた中部の都市、そして果てなく続く緑の丘を経て、南部までやってきた。
 その間に数え切れないほど多くのものを見、聞いて、口には出さないが、今もそれらについて考えている。
 そして、それは共にここまで旅をしてきた獄寺も同じなのだろう、と綱吉は思っていた。
 今の獄寺は、自分の意見を綱吉に押し付けることを極端に恐れているようで、主観を交えない説明をする以外には、何を見て、何を聞こうとも、彼自身の意見は殆ど口にしない。
 だが、もうずっと彼の傍にいる綱吉には、獄寺が目の前にあるものを気に入っているのかそうでないのかは、何となく感じ取ることができた。
(もともと獄寺君は、綺麗なものやカッコいいものが好きだし。妙に生真面目で潔癖だし。そういうところは分かりやすいんだよね。分かりやすいんだけど……)
 けれど、それだけではなかった、と綱吉は心の中で呟く。
 彼のことは随分と知っていたつもりだったのに、もう一つの名前はもちろん、車の運転が上手いこともイタリアに来て初めて知ったことだし、どこの土地や街でも臆すことなく、まるで地元の人間であるかのように堂々とふるまい、バールの店員とさりげない冗談を交えたやり取りをするのも、日本ではついぞ見たことのなかった姿だった。
 獄寺は、この国よりも日本の方が天国に近い、などと言ったが、やはり彼自身はこの国の人間なのだと改めて思う。
 イタリア人と日本人とのクォーター、それも婚外子として辛酸をなめてきた彼ではあるが、ルーツというものは、たやすく薄れたり消えたりするものではないのだ。
(俺が日本育ちの、日本人であるのと同じで)
 もしかしたら、と綱吉は自分と同じ血を持つ存在──父親のことを考える。
 今でこそボンゴレの中で絶対的な立場を有している父だが、ファミリーに入ったばかりの若い頃には、それなりの苦労があったのではないだろうか。
 いくら初代の血を引き、九代目の信頼が厚くとも、日本育ちの日本人であることには変わりない。
 あの父ならば、おそらく周囲の人間の態度がどうであろうと自分の流儀を貫き、やがては周囲の人々をもそれに巻き込んでしまったのだろうが、だからといって、この国ならではの様々な問題や人間関係に一度も悩まなかったといったら、きっとそれは嘘だろう。
(一度、父さんともちゃんと話さないとな……)
 そう思いながら、綱吉は目の前に広がる海を眺める。
 イタリア半島の土踏まずから爪先にかかる線の中程、イオニア海に面したこの海岸は、上手い具合に太陽を背にして海を眺めることができるため、真昼のこの時間帯でも、陽光が水面に乱反射することがなく、鮮やかに水の色が目に飛び込んでくる。
 ここよりも北の方で見た海も美しかったが、更に明るく、透明度の高い輝くようなこの海の青を表現する言葉を、綱吉は持たなかった。
 陽射し避けの薄い長袖のパーカーを羽織り、波打ち際で、翠緑を帯びた淡青から沖合いの群青色まで変化しながら広がる海に、ただ目を奪われている。
 馬鹿のようだと思ったが、どうしてもその美しさから目が離せなかった。
「十代目」
 さくさくと砂を踏む音がして、近づいてきた獄寺がミネラルウォーターのペットボトルを差し出す。
「水分取らないと熱中症になっちまいますよ」
「うん、ありがと」
 礼を言って、ペットボトルを受け取る。
 キャップを外して一口飲むと、ヨーロッパ産硬水独特の固い喉越しを残して冷たい水がのどを滑り落ちてゆく。
 波の音と風の音。そして海鳥の鳴く声。
 聞こえるのはそればかりで、辺りには他に人影すらない。
 この海岸を見つけたのは、もちろん獄寺だった。
 今日、八月十五日はカトリックでも最も重要な祝祭日の一つ、聖母昇天祭であるため、教会以外の店は殆ど休業になる。
 だから、無理に動いても徒労に終わるだけだと、旅行の計画を立てた時から、この日は海岸でゆっくり過ごすことに決めてあった。
 そして、今日は予定通りにホテルで遅めの朝食を摂った後、外見はオンボロ、中身は最新パーツで改造しまくりの黄色いフィアットに軽食と水を詰めたクーラーボックスを積み込んで、半日を過ごすための海岸を探しに出かけたのである。
 もともと無理のない日程を心がけてあった旅行だが、それでもここまでは常に何かを観光して回っており、こんな風に本当に何もせずに時間を過ごすのは、イタリアに来て以来初めてだった。
 何もない、ただこれほど眩しい青が世界に存在するとは信じられないくらいに美しい海と空、そして、そこに二人きりの自分たち。
 ここが世界の果てだったらいいのに、と思いながら綱吉は獄寺を見上げる。
 並んで海を見ていた獄寺は、すぐに綱吉の視線に気付いて、こちらを振り返った。
「何ですか?」
「……御礼を言いたいなと思って」
「御礼?」
「そう」
 うなずいて、色素の薄い瞳には海岸の陽射しがきついのだろう、細められた獄寺の瞳を見つめる。
「ナポリ辺りからかな。全部、見せてくれているだろ。この国の綺麗な所も、そうじゃない所も」
 あのナポリのバールでの一件から、獄寺の態度は明らかに変わった。
 それまでは、どちらかというとその街の歴史や観光名所についての説明が多かったのに、あの後からは、その街やイタリアという国が持っている影の部分にまで言及してくれるようになったのだ。
 それは、南部イタリアという旅している土地柄も影響しているかもしれない。
 綱吉の目から見ても、北部に比べて明らかに南部は町並みが古く、時には薄汚れており、人々の服装や持ち物、店頭に並ぶ商品も北部とは質量が異なっている。
 そして、獄寺が言った通りに、国道に沿って走る列車は、これが公共の乗り物かと呆れるほどに無秩序な落書きで埋め尽くされ、線路脇には不法投棄と思われるゴミが山を成していた。
 だが、獄寺はそれらの全てについて、言い訳をしようとしなかったのだ。
 何故こうなのか、その理由についてだけ淡々と分かりやすい言葉で説明するだけで、祖国の影の部分に対する憤りも軽蔑も見せなかった。
 おそらく獄寺は、綱吉にはまっさらの状態で、この国を判断して欲しいと思っているのだろう。だから、本来は直情型の彼が、自分の主観を交えずに事実だけを並べ、何も付け加えない。その気配りが、綱吉は嬉しかった。
 自分で判断しようと務めても、獄寺を大切に想っている以上、彼の嫌っているものには好意を抱きにくいし、彼が好きなものを嫌うことも難しい。
 だが、そんな感情に引きずられて判断してはいけないことも沢山あるのだ。
 そうと分かっていてくれる獄寺の誠実さが──彼がこちらの想いを知らないからこそ尚更に、綱吉にとっては何よりも尊いものに思えた。
「ありがとう、獄寺君。この国に連れてきてくれて。沢山のものを見せて、教えてくれて」
 心の底から告げれば、獄寺の淡く煙った灰緑色の瞳が驚きに見開かれる。
 これだけのことをしていてくれながら、礼を言われるとは全く思っていなかったらしい。
 彼のそんな反応が、更にいとおしくてたまらなくなる。
 ──今ここで、好きだと言って、抱きしめて、キスをできたら。
 そう思わずにはいられなかった。
 けれど、内心の衝動に負けないうちに、綱吉は視線をそらして海へとまなざしを戻す。
「あと五日間だけど、この旅が全部終わるまでもう少しの間、よろしく頼むね」
 ほがらかに言うと、やっと我に返ったらしい獄寺が、少しかすれた声で答えた。
「よろしくも何も……俺は当然のことをしてるだけですよ」
「そうかもしれないけど」
 その『当然のこと』が俺にとっては特別なんだよ、と綱吉は心の中で言い返す。
(ああ、そうだね)
 特別な心遣いを、当然のこととしてしまうくらいに君は俺のことが大事で。
 そんな君の当然を、特別としか感じられないくらいに俺は君のことが大事で。
(こんなことは、これからもずっと続くんだね)
 互いに心の底の想いは伏せたまま、差し出された『特別』を受け止め、投げ返す。
 それは幸せなことなのか、それともそうではないのか。
 とても今の段階では判断などできない。
 分かっているのは、それが純粋な幸福ではなくとも、どれほどの苦しさをもたらすことになったとしても、決して手放せないということだけだった。
「──この旅が終わっても……」
「え?」
「ううん。何でもないよ」
 呟きかけた一言を、綱吉は笑顔で打ち消す。
 これまだ、口にすべき言葉ではない。まだ早すぎる。
「今のは保留。日本に帰ったら、また言うよ」
「……はあ」
 よく分からない、という表情を露骨に浮かべながらも、獄寺は綱吉の言葉に素直にうなずく。
 そして、それきり交わされる言葉はなく、二人はただ肩を並べて、透明に輝く海の青さに見入った。

 ───この旅が終わっても、俺と君は多分、ずっと一緒にいるんだろうね。そしてまたいつか、この海を一緒に見るんだ……。



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