誰が為に陽は昇る 25

「十代目、お願いがあるんですが」
 改まって獄寺がそう切り出したのは、イタリア半島の踵(かかと)に位置するレッチェの街のホテルでのことだった。
 レッチェは日本ではあまり知られていないが、小さな町全体が美しいバロック建築に満ちていて、欧米ではかなり人気のある観光地であるらしい。実際に今日、地図を片手に南欧の強い日差しをものともせず歩き回っている、アメリカ人らしい観光客グループを街中の至る所で見かけた。
 綱吉も、ローマやフィレンツェといった大都市の歴史的建築が持つ豪壮さとはまた趣の異なる、象牙色の石灰石に『彫りまくられた』と形容しても過言ではない、執念すら感じさせる装飾彫りに感嘆を越えて唖然としつつも、その凝りに凝った華麗さには魅せられずにいられなかった。
 日本人の感覚からすると、懲りすぎではないかと思えるほどの装飾過剰ではあったのだが、しかし地中海の真っ青な空の下で、シャンパンを思わせる淡い金色の石灰岩でできた教会や政庁舎は、確かに輝かんばかりに美しく見えたのだ。
そうして現在、旅人二人が落ち着いているドゥオーモ広場近くにあるこのホテルも、こじんまりとした造りながら華麗な石灰岩の装飾で飾り立てられた外装を持ち、客室も品良くアイボリーとセピアでまとめられて、日の落ちた今は、オレンジがかかった灯りがやわらかく室内を照らし出している。
その中で、獄寺は至極真面目な顔で綱吉に向かって言った。
「ここから先の移動についてなんですが、車を使うことを許していただけませんか」
「……車?」
 何を言い出すのか、と綱吉はまばたきした。
「はい。車です。もちろん、俺が運転します」
「え。ちょ、ちょっと待ってよ。獄寺君、免許証持ってないでしょ? ていうより、それについては計画立てる段階で、もう話し合ったよね?」
 いささか慌て気味に確認する。
「イタリアでは移動手段といったら車で、電車もバスも不便だって、最初から獄寺君は言ってたし、俺だって十分すぎるくらいに実感してるよ。でも、俺も君も、十八歳の誕生日は夏休みの後だし、今回は仕方がないって言ってたよね? それとも俺の記憶違い?」
「いえ。十代目の記憶は間違っていらっしゃいません。俺も、その時は納得しました」
「──その時は、ってことは、蒸し返す理由ができたってこと?」
「はい」
 眉をしかめての綱吉の確認に、獄寺は悪びれもせず、真剣な顔でうなずく。
 どうしたものか、と綱吉は、そんな獄寺の顔を眺めながら考えた。
 車を使いたい、という獄寺の主張は、イタリアでも日本でも自動車運転免許は十八歳にならないと取得できないという時点で、既に破綻している。
 だが、中学生の頃ならまだしも、今現在の獄寺は、最低限の一般人の常識はわきまえた上で発言し、行動するようになっている。そのことを考えると、この無茶な主張にも彼なりの考えと言い分があるのではないかと綱吉には思われた。
「じゃあ、君が法律違反してでも、車の方がいいと思う理由を教えてよ。それが納得できる理由なら、俺も考えるから」
「理由は簡単です。ここから先、正確には半島の土踏まずを走る路線の列車が、相当に酷いからです」
「……酷いってどんな風に」
 綱吉が尋ねると、初めて獄寺は、心底嫌そうに眉をしかめた。
「ムチャクチャ汚いんですよ。落書きだらけのゴミだらけで、臭いもひどいですし。俺が昔乗った時も世界最悪の列車だと思いましたが、地元の知り合いに聞いてみたら、今も全然変わってないらしいんです」
「俺は別に構わないけど。それくらい」
「そういうレベルじゃねーんですよ!」
 強い口調で言うなり、獄寺はとうとうと語り始める。
 罵詈雑言というほどではないが、乗務員や地元の利用客が聞いたら間違いなく気分を悪くするのではないかと思われる言い様に、綱吉もうーんと首をかしげた。
 綱吉としてみれば、汚いのは確かに嫌だが、だからといって法律違反をしようと思う理由にはならない。
 だが、獄寺が綱吉に困った顔をさせてまで自己主張を押し通そうとすることも、最近では珍しくなっている。
(よっぽどの理由があるって考えるべきなのかなー?)
 ローマに行ったらローマ人の飯を食えっていうし、と綱吉は細い顎に手を当てて考える。
「ねえ、獄寺君」
「あ、はい?」
「素朴な疑問が幾つかあるんだけど」
「何でしょう?」
「君が電車を利用したくないのは、良く分かったよ。でも車を使うって言っても、その車はどうするの? あと免許証の問題は?」
「どっちもすぐに手配できます」
 即答だった。
「免許証なんて、事故でも起こさない限り見せる必要なんてありませんし、偽造だって、その辺りの警察に見破れるようなシロモノは使いませんしね。車も今から連絡しておけば、明日の朝には、このホテルの前に回してもらえますよ」
「───…」
「あ、俺の運転技術に関しては、信用して下さい。前にも言いましたけど、八歳の頃から車もバイクも転がしてますから、運転歴は十年近くあります」
「……うん。それは確かに聞いたけど……」
 これは獄寺ばかりでなく、リボーンやディーノにも確認したから間違いない情報なのだろうが、イタリアではブレーキペダルに足が届くようになったら車の運転練習を始める子供(特に男子)は珍しくないのだという。
 そして、十八歳になったら自動車学校に通うことなしに即、試験を受けて免許を取得する若者の割合は、かなり高いということだった。
(まぁ、同級生でもバイク屋の息子とかは、中学生の頃から近所の道で大型バイクの練習してるって言ってたしな。それと似たようなものかな……)
 どうにもならない育ちの差というべきカルチャーショックを、身近な例で理解しようと務めながら、もう一度綱吉は獄寺の顔を見つめる。
 やわらかな照明の光の中、獄寺の淡く霧がかったような灰緑色の瞳は、どこまでも真剣だった。
「……一つだけ、約束して欲しいんだけど」
「はい」
「交通ルール違反は絶対にしないって、約束して。信号無視も、スピード違反もダメ。それがこの国の普通の運転でもね」
 イタリアにおいては、交通ルールなどあってなきが如しだ。誰も赤信号など守らないし、駐車禁止という言葉も知らなさそうだし、一方通行すら無視される。
 だが、どう想像してみても、そんな運転をする車に同乗するのは、精神的に大きな負担を強いられること間違いないし、何よりも偽造免許証しか持っていない状況で事故を起こされてはたまらない。
 無論、事故を起こしたところで、獄寺のことであるからどうにか片をつけるのだろうが、それでも一応の釘は刺しておくべきだった。
「約束します。絶対に事故を起こしたりしません。誓います」
「……うん」
 それならいい、と綱吉はうなずく。
 法律破りはしても、約束したことは必ず守ろうとしてくれる。それが獄寺という人間だ。
「じゃあ、君を信じるよ。君がそこまで言うんなら、それなりの理由があるんだろうし。その代わり、本当に安全運転してね」
「はい! ありがとうございます!!」
 ぱっと顔を明るくして、深々と頭を下げ、獄寺は早速、携帯電話を取り出して、どこかにかけ始める。
 まぁこれくらいの妥協は仕方がないか、ここまでも獄寺はこの旅行が不愉快なものにならないよう精一杯に尽くしてくれているわけだし、と溜息交じりの微笑を浮かべながら、荷物の整理をしようとトランクに伸ばした綱吉の手が、耳に飛び込んできた獄寺の一言に、止まった。
「Sono Ruggero.」
 それは自分の名前を名乗る時の、ありふれた言い回しだった。英語で表記するのなら、(I)am Ruggero.に相当する。
 けれど。
(ルッジェーロ、って……)
 肩越しに振り返った綱吉の視線には気付かないまま、獄寺は速い口調のイタリア語で話し続け、相手の応答に耳を傾けては、短い注文を幾つか重ねて、最後に彼らしい満足げな表情で電話を切った。
「十代目、万事OKです。明日の朝までに全部、手配できます」
「……あ、うん。ありがと」
 うなずきながらも、綱吉はじっと獄寺の顔を見上げる。と、獄寺は不思議そうな顔になった。
「十代目? 何か……」
「うん」
 少しばかり迷ったものの、尋ねてはいけないことだとは思えなかった。本当に綱吉に聞かれたくないことであれば、獄寺は最初から電話をかける段階で、部屋の外に出るなりバスルームに行くなり、それなりの行動を取るだろう。
 だから、と綱吉は問いかける。
「今の電話だけど、獄寺君、隼人とは名乗らなかったよね?」
「あ」
 獄寺は気まずいというほどではないものの、うっかりしていた、という表情になる。
「……聞こえちゃいましたか」
「聞こえるも何も。この距離だもん」
 綱吉はベッドに腰掛け、電話をかける際に立ち上がった獄寺は窓際だ。距離としては三メートル程度にしかならない。
「そうっスよね……」
 どう説明したものか、と考える様子の獄寺を、綱吉は見つめる。彼は困惑しているだけのようであって、綱吉の質問が、特に彼の何かを傷つけたという雰囲気はない。そのことに、綱吉は少し安堵した。
 そうして黙って待っていると、少しばかり言いにくそうに言葉を選びながら、獄寺が話し始める。
「ええとですね……。俺の名前は獄寺隼人で、誰に対してもそう名乗りますし、それ以外は無いと思ってるんですが……俺の父親は純粋なイタリア人でしょう? ……つまり、俺にはイタリア名の名前と姓もあるんです」
「……ああ」
 考えてみれば当たり前のことだった。イタリア人の父親が自分の跡を継がせようという長男に、獄寺隼人などと異国風の名前を付けるわけが無い。
「出生届は母親が出したんで、母親が付けてくれた『隼人』が俺の正式な名前なのには変わりないんですが、父親が付けた名前もあって……それがRuggero、なんです」
 Hayatoをファーストネームにして出生届を出したことを知った父親は、そのことで母親を責めたらしいが、と獄寺は苦笑いした。
「俺は最初から自分の名前は、母親が呼んでくれた『隼人』だと思ってましたし、それで通してましたけど、実家で俺をそう呼んだのは姉貴とシャマルだけでした。それでも、どうしてもRuggeroは自分の名前だと思えなくて……。でも、家を出て一人の間は良かったんですが、ボンゴレに入った後は、そうとも言ってられなくなりましてね。無用なトラブルを回避するために、Ruggeroを通り名として使うようになったんです」
 相手が電話口でHayatoと呼んだだけで、電話をしている相手が自分だということが周囲にバレてしまう。それがまずいのだと獄寺は言った。
「一匹狼なら別に、どこの誰に狙われようと構いやしないんですが、ボンゴレの幹部になろうとすると、そういうわけにはいかないんですよ。まぁ、本当の大幹部になることができれば、そういう細かいことは返って気にしなくても良くなるんですが」
「……そうだったんだ」
「はい。そーなんです」
 困ったように獄寺は笑い、だが、いつもと変わらぬ快活な声を出した。
「まぁ、便宜上のことですから。最初のうちはちょっと抵抗がありましたけど、今は何とも思ってません。だから、十代目も気になさらないで下さい」
「うん」
 うなずきながらも、綱吉はRuggeroと心の中で呟く。
 綺麗な響きだと思った。
 けれど、獄寺が望まない名であるのなら、綺麗な響きだとは口に出さないし、その名前でも絶対に呼ばない。
 綱吉にとっても、やはり彼は『獄寺隼人』だった。
(むしろ、『隼人』って呼んでみたいかも。それから、俺の名前も……)
 十代目という呼び名が嫌なわけではない。その呼び方をするのは獄寺だけだから、むしろその響きは心地好いと感じることすらある。
 けれど、もし名前を呼び、呼ばれることがあれば。
(すごく幸せな気分になれるかな。それとも、いっそ泣いちゃうかな)
 分からない、と思いながらも綱吉は、ゆっくりと荷物を整理してトランクに詰め直す。
 そして、獄寺を振り返った。
「そろそろ寝ようか?」
 と、ベッドサイドの肘掛け椅子に腰を下ろした彼は早速、道路地図を広げていて。
「あ、すみません。明日のルートだけ確認したら俺も寝ますから、お先に休んで下さい」
「そう? じゃあ、そうさせてもらおうかな……」
 無理に付き合っても、獄寺を恐縮させてしまうだけだと分かっていたから、綱吉は素直にベッドにもぐりこむ。
 それから、もぞもぞと身動きして寝心地のいい体勢を作った後、そっと地図に見入る獄寺の横顔を眺めた。
(隼人、隼人……。うん、やっぱりRuggeroより綺麗な響きだな。こっちの方がずっといい)
「おやすみ、獄寺君」
「はい、おやすみなさい。いい夢を見て下さいね、十代目」
「うん、ありがと」
 微笑んで目を閉じ、そして再びこっそりと目を開いて獄寺の横顔を見つめる。
 そうしていつの間に自分が眠ったのか、獄寺がいつ灯りを消したのか、綱吉は気付かなかった。



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