誰が為に陽は昇る 24

 ナポリは、列車を乗り換えるためだけの街のつもりだった。
 沖合いにカプリ島というイタリアきっての高級リゾート地を持つこの街は、古い歴史と情緒を持つ観光都市である一方、治安の悪さでも名を馳せる。
 ことに近年、上流階級が暮らす海岸沿いのわずかな街区を除いて、頓(とみ)に治安が悪化していることから、獄寺はこの街に長時間滞在することを避けるよう望み、綱吉もそれを受け入れて移動計画を立てていた。
 だが、ローマ発のユーロスターが快調に飛ばし過ぎて、定刻よりも遥かに早くナポリについてしまったことと、逆に半島東岸のフォッジャへ向かう列車が定刻よりもかなり遅れているらしいことから、この街で二時間近い空白ができてしまったのである。
 時刻表が当てにならないことなど獄寺は十分すぎるほどに知っているし、ここまでの十日近い旅程で綱吉も分かっている。
 だから、最初から駅員など当てにせず、駅のホームで他の列車待ちの旅客たちに電車の運行状況を尋ねた後、できてしまった空白時間をどう潰すか考えた。
「二時間って半端だよね。観光には短いし、ホームも外も暑いし」
「昼飯には早過ぎますしね」
「イタリアのバール(カフェ)は長居する場所じゃないし。でも、二時間も駅のベンチでボーっとしてるのもねえ」
「芸がありませんよねぇ」
 互いに首をかしげ、時計の針の位置を確認してから、じゃあ、と綱吉が提案した。
「駅から三十分くらい歩いた所で、目に付いたバールに適当に入って、一杯エスプレッソか冷たいフレッシュジュースを飲んで、また戻ってくる。それでどう? 少なくとも一時間ちょっとは潰れるよ」
「そうっスねえ」
「途中に土産物屋でもあれば、覗いてみてもいいしさ。身と荷物の安全には十分に気を配るってことで」
 ほんの一時間程度の街歩きなら大丈夫、と言えないのがナポリである。
 正直な所、この駅のホームでぼーっとしているのが、まだ一番安全に近いのだが、しかし外気にさらされる真夏のホームは、真冬のホームと同じくらいに過ごしにくい場所であるのも、また真実だった。
「……まぁ、観光客の多い表通りを選んで、裏道や旧市街に足を踏み入れなければ大丈夫でしょう。俺も十代目も、金目の物を身につけてませんし」
「あ、そういえば指輪外してるね。全部」
「さっきユーロスターを降りる前に外しました。駅のホームにだって、スリやひったくりはうようよしてますから。被害に遭わないようにするには、装飾品やブランド物の小物を持たないのが一番なんですよ」
「そりゃそうだよね。ボロっちいバッグと空っぽの財布をひったくったって、金になんかならないし」
「そういうことです」
 じゃあ、行きますか、と獄寺が促し、二人は連れ立って歩き出す。
 駅舎から一歩外に踏み出すと、夏の強い日差しが降り注いできたが、まだ午前十時という時間帯もあって、さほど厳しい暑さでもない。そうこう言っているうちに、みるみる気温は上がってくるのだろうが、少なくとも今は、ふらふらと街を彷徨っていてもバテる程の暑気ではなかった。
 途中、道の角から横小路の中ほどに見えたオリーブ細工の工房に綱吉が目を留め、立ち寄って、木目を生かした象嵌細工の掌サイズの綺麗な小物入れを二つ、ハルと京子への土産として買った以外は、街並みを眺めながらひたすら真っ直ぐに歩き、ちょうど三十分が過ぎたところで、古く落ち着いた感じのバールの看板を見つけた。
「ここ、どうかな」
「悪くなさそうですね」
 バールというのは、店によってある程度客層が決まっている。下手に場違いな店へ踏み込んでしまうと、周囲の客たちに白い目で見られるし、ことによっては何らかのトラブルを誘発しかねない。
 だが、獄寺が見たところ、その店は表通りに面しているだけあって、地元の人間も観光客も立ち寄る、気楽な雰囲気の店のようだった。
 中に入ってみると思った通りに、ほどほどに込み合っており、十数人の客たちは新しく入ってきた客にちらりと目を向けただけで、またそれぞれの会話に戻ってゆく。
 その感触を確かめてから、獄寺は綱吉と共にカウンターに向かい、オレンジのフレッシュジュースを二つ頼んだ。
 暑い中を歩いていると、どうしても冷たい飲み物が欲しくなる。コーラのような炭酸でもいいが、一番身体が欲し、美味しく感じるのは、果汁百パーセントのまじりっけのないフレッシュジュースである。
 日本にいる時は、ファミリーレストランやカフェでわざわざ頼もうとも思わない甘酸っぱい果汁の冷たさが、渇いた喉にひどく心地好かった。
「でも、なんでジュースにガムシロップがついてくるんだろ」
 無色透明かつ濃厚なシロップで満たされた小さなガラス製のピッチャーを指先でつつきながら、綱吉が首をかしげる。
「イタリアではコーラにだって付いてきますよ」
「……イタリア人はコーラを甘いと思わないわけ?」
「ええ、多分」
 笑いをこらえながら獄寺が応じると、綱吉は諦めたように溜息をついた。
「そーだよね。小さなカップにちょっぴりしか入ってないエスプレッソに砂糖山盛3杯も入れるお国柄だもんね。ジュースやコーラにガムシロも当然だよね」
「まぁ甘い物の苦手なイタリア人だっていますけどね。標準的なイタリア人は、日本人の味覚からしたら、まず極甘党です」
「そういう獄寺君も、結構甘党だよね。歯がきしみそうなくらい甘いものでも平気で食べてるし」
「それは慣れですよ。俺は逆に、日本の菓子を初めて食った時は、味がしないと思いましたから。今は日本の味の方が好きですけど、少なくとも十二まではこの国で生まれ育ちましたから、この国の甘さも平気だっていうだけです」
「……それでも十分すごいよ」
 俺だって甘い物好きな方なんだけどな、とぼやきながらも、綱吉はグラスのジュースを飲み干す。
 そして、ちょうどカウンターの隣りでエスプレッソを飲んでいた地元民らしい客が、カウンター内の店主らしき男に向かって笑顔で挨拶し、店を出て行くのに目を留めて、あれ、と不思議そうな顔になった。
「どうしました?」
「うん……今のお客さん、代金を払っていかなかったような気がして」
 ツケなのかな、と首をかしげる綱吉に、獄寺は、ああ、と思い当たった。
「それは多分、カフェ・ソスペーゾってやつですよ」
「カフェ・ソスペーゾ?」
 ソスペーゾとはどういう意味だっただろうか、と考えているのが丸分かりの綱吉の表情に、獄寺は笑みかける。
「俺も聞いたことがあるだけですが、ナポリの裕福な連中は、自分がバールでエスプレッソを頼んだ時に、一杯分余分に代金を払うことがあるんですよ。で、その後やってきた貧乏人が、無料のエスプレッソにありつくことができるってわけです。下町での習慣だって聞いてましたけど、こんな表通りの店でもまだやってる人間がいるんですね」
「へえ」
「ちょっと注意して眺めれば分かることですが、この街は金持ちと貧乏人の落差が激しいんです。カプリ島や海岸線には超高級ホテルや別荘が立ち並んでいるのに、一歩裏通りに入ればスラムが広がっている……。そういう街だから、貧乏人に施しをする古きよき伝統を守る金持ちも、まだ残ってるんです」
「そうなんだ……」
 感心したように、綱吉はさりげなく店内へと視線を向ける。周囲の客を眺めることで、この街の雰囲気を掴もうとでも言うかのように。
 それから、もう一度獄寺へと視線を戻して、尋ねた。
「で、sospesoってどういう意味?」
「宙ぶらりんの、とか、まだ決まってないとか、そんな感じですね。他にもカフェ・パガートっていう言い方もあるみたいですけど」
「pagato? 代金が払ってあるってこと?」
「ええ。おごりのエスプレッソってとこですね」
 その時だった。
「Che seccatura! Spero che degli scimmioni tornano. (耳障りだな。サルはとっとと家に帰りやがれってんだ)」
 さほどその声が低められていなかったのは、獄寺と綱吉が片言のようなイタリア語の単語を交えてはいても、日本語で会話をしていたからだろう。
 反射的に二人がそちらへと目を向けると、少し離れた立ち飲み用のテーブルに三人連れでいた若い男たちが、少々驚いたような顔になる。
 が、獄寺が行動するよりも早く、綱吉の手が獄寺の腕に触れた。
「駄目だよ」
 彼らを刺激しないようにだろう。低めた声で小さく綱吉はささやく。
 だが、獄寺としても綱吉に言われるまでもなく、本格的に事を構える気はなかった。列車の発車時刻まで、あと一時間余りしかないし、また、この旅行中には問題を起こさないと心に決めている。
 だから、その場は動かずに、ただ強烈に冷ややかな表情とまなざしを彼らに向けた。
「Parlo I’italiano piu bene di voi e so italia piu bene di voi. (俺の方がイタリア語は上手いし、この国にも詳しいぜ)」
 わざと南部訛りの特徴である、歌うように音を伸ばす発音を強調しながら言えば、彼らはわずかに怯(ひる)んだようだった。
 見てくれからしても、彼らは普通の街の若者であり、先ほどの罵詈も、単に日本人の観光客が少しばかり癇に障っただけの発言だったに違いない。しかしそれが、ナポリ訛りよりも更に南部イタリアの発言で言い返してきたのだ。驚かない方が不思議だろう。
 そして、その隙に綱吉が獄寺の袖を引き、二人は空になったグラスと代金をカウンターに置いて、店を出た。
「──大丈夫ですか」
 日の光の下で見ると、綱吉はわずかに青ざめているようだった。普段はやわらかな色をしている頬が、少しばかり血の気が失せている。
「うん。でも、ちょっとびっくりした」
 落ち着きを取り戻そうとするかのように、綱吉は大きく呼吸して、店を振り返った。
「イタリアで生活したことのある人の本とかブログを見て、知ってるつもりだったけど。直接言われると、結構こたえるね」
「……そうですね」
 気にするな、とは獄寺にも言えなかった。
 開けっぴろげで、日本人観光客にも親切だといわれるイタリア人だが、その実、内面における外国人蔑視はとても強く、同じヨーロッパ諸国に対しても痛烈だが、有色人種に対しては尚更に露骨な嫌悪を示すことも少なくない。
 だが、今回のようにそれを相手に直接ぶつけることは珍しく、当人の前では好意的に接しておいて、当人が居ない場になると手のひらを返したように悪口を言い始めるのが、この国の人間の常である。
 ともあれ、物心付いた頃から、それに晒され続けてきた獄寺には、いま綱吉が受けている衝撃の強さが十分過ぎるほどに理解できた。
「十代目」
 拳をぐっと握り締めて、獄寺は口を開く。
「この国は、こういう国です」
 真実を告げなければならない口の中が、ひどく苦かった。
「カフェ・ソスペーゾみたいな助け合いの精神は当たり前に根付いてますし、他にも良い所がないわけじゃありませんが、やっぱり楽園には程遠い。日本だって外国人蔑視は強いし、問題だらけの国ですが、俺から見れば、日本の方がまだ天国に近いように感じられます。──ですから、十代目」
 綱吉は、深い琥珀色の瞳を獄寺に真っ直ぐに向けてくる。
 その澄んだ優しい色合いを、この先も絶対に濁らせて欲しくなかった。だが、そう願うことさえも、自分の我儘なのだろうか。
「急がないで、ゆっくり考えて下さい。この国の持っている汚い部分とも付き合ってゆけるかどうか……。気付いていらっしゃると思いますけど、マフィアはその汚い部分に最も深く関わっている存在です。ボンゴレだって、例外じゃありません」
 本当は、考え直して下さい、と叫びたかった。
 その肩を掴んで、思い切り揺さぶって、何でもしますからこの国に来るのはやめて下さいと懇願したかった。
 けれど、全て決めるのは綱吉だ。獄寺には口を挟む権利はない。
 現実を苦く噛み締めながら、綱吉を見つめる。
 と、綱吉は小さく笑った。
「……うん。ちゃんと考えてるよ。だから、大丈夫。心配してくれてありがとう、獄寺君」
「──はい」
 うなずいて、獄寺もほろ苦く笑い返す。
 ───すべてはもう、遅すぎるのだ。
 彼にこの道を歩んで欲しくないのであれば、もっと何年も前にそう告げていなければいけなかった。彼がまだ、マフィアになることを拒んでいた頃に。
 今更、何を言ってももう遅い。
 ならば、と獄寺は覚悟を決める。
(良い所も悪い所も、この国のすべてを)
 楽しいばかりの旅行にしたかった。叶うならば、心はずんだ思い出だけを持って日本に帰って欲しかった。
 けれど、それはフェアではない。
 すべてを見てもらわなければ、この国に来た意味が半減してしまう。
 だから、この先は何一つ隠すまい、と思う。
 南に行けば行くほど、この国は貧しく、影の部分が大きく露出してくる。それらをありのままに見てもらえばいい。
 それで何かを感じ、考えたとしても、それらはすべて彼の財産になる。
 遠くない未来、ドン・ボンゴレ十世となる彼の。
「それじゃあ、行きましょうか」
「そうだね」
 瞳を見交わして歩き出す。
 アスファルトの上に落ちる二人の影は、天頂に近づいた真夏の太陽の下で、もう子供一人すら隠れられないほどに短くなっていた。



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