誰が為に陽は昇る 23

「十代目」
「うん?」
「一つ、聞いてもいいですか?」
 獄寺がその質問を切り出したのは、ローマからナポリへ向かうユーロスター・イタリア・アルタ・ヴェロチタの中でのことだった。
 特急列車の窓の外は見渡す限りの緑の丘が続き、その中を列車は時速300キロ近い速度で快調に走り続けている。
 今朝、ローマのテルミニ駅を出てから、綱吉はひたすらに車窓からの眺めに見入っていて、この一時間ほどの間、二人の間での会話はほとんどなかった。
「夕べのことですけど……俺がピアノを弾いてる間、跳ね馬のヤローと何を話されていたのかと思って……」
「────」
「いえ、俺に関係ないことだってのは分かってるんです。だから、どうしても聞きたいってわけじゃないんスけど、ちょっと気になるというか、」
 わたわたと言い訳する獄寺を、綱吉は深い琥珀色に透ける瞳で見つめ、その色合いの綺麗さに、獄寺の困惑は更に増す。
 昨夜ではなく今になって、こんなことを切り出したのには、一応獄寺なりに理由があった。
 というのも、昨夜、ディーノ所有のホテルで逃げたピアニストの代わりにピアノを弾く羽目になった折、目の端で捉えていた綱吉の様子が、どことなく気遣わしいものだったのだ。
 いつもなら綱吉は楽しそうに──こういう表現を使うことが許されるのなら、幸せそうに獄寺の奏でるピアノの音に聞き入ってくれるのに、昨夜に限ってはそうでなかったのである。
 耳を傾けていてくれるのは分かったが、意識の半分以上はディーノとの会話に集中していたようで、しかも、その表情は楽しそうとは言いがたかった。
 深刻過ぎはしない、けれど、少しだけ寂しそうな悲しそうな。
 だが、やきもきしながらもラ・カンパネラで演奏を締めくくってテーブルに戻ると、綱吉の表情は常と変わらないものに戻っていて、結局そのまま、獄寺は綱吉に問いかける機会を失してしまったのだ。
 そして今、綱吉は即答はしないで、答え方を探しているかのような沈黙越しに獄寺を見つめている。
 そんな綱吉のほのかな困惑が混じった静かな表情に、獄寺は質問を取り下げるべきだろうか、と迷った。
 会話の内容を知りたいのはもちろんだが、どうしてもか、と言われたならそうではない。綱吉が困るのであれば、自分のささやかな好奇心や心配など幾らでも箱に仕舞い込んでしまえる。
 だが、余計なことを聞いてすみません、と獄寺が口にするよりも先に、綱吉がほのかに困ったような顔のまま小さく笑った。
「……言ったら、獄寺君が気を悪くしそうな気がするんだけど」
「俺が、ですか?」
「うん」
 うなずき、しかし、それ以上だんまりを続ける気はないようで、綱吉は頬杖を付いて外を眺めるために車窓の枠にかけていた肘を下ろし、獄寺に向き直る。
「ディーノさんがね、君の性格はピアニスト向きだって」
「は……」
「それで……状況によっては、いいピアニストになってただろうになって。でも、親や家業は選べるものじゃないからってさ……」
 そんなことを、と獄寺は思う。
 だが、それで綱吉の表情の理由が分かったような気がした。
 獄寺の感覚が正しければ、綱吉は彼自身の進むべき道は決めていても、獄寺を含む他の連中を道連れにすることに、まだためらいを感じている。他の仲間には『もしも』の道が、まだ残されていると考えているのだ。
 もしも、マフィアにならなかったら。
 もしも、沢田綱吉という人間に関わらなかったら。
 そう考える綱吉の気持は、分からないでもない。むしろ、悩まなければ彼ではないだろう。しかし、獄寺にとっては無用な気遣いだった。
 獄寺自身はピアノを弾くことは好きでも、本職のピアニストになろうと思ったことはないし、子供の頃から胸にあったのは、いっぱしのマフィアになって周囲から一目置かれたいといったような物騒な願望ばかりだった。今ではマフィアになることについて、もう少し複雑な感情もあるが、基本的に自分は裏社会でしか生きてゆけない男だと思っている。
 親がファミリーを率いていたことは、単なるきっかけでしかない。血の気の多い自分は、たとえ堅気の家に生まれても、どこかの時点で道を外れていたのではないかという気がするのだ。
 他人を傷つけることが別に好きなわけではないし、戦いの中でしか生きている実感がないというほど物騒な性分でもない。
 ただ、世界が綺麗事では動かないことを知っているし、どこにでも人を傷つけることを喜ぶ外道がいることも知っている。  政治も経済も暗黒社会と緊密な繋がりを持っていて、大切なものを守るために時には暴力に頼らざるを得ない。そういう国で生まれ育った獄寺にとっては、暴力とは振るうことをためらうものではなかった。
「余計な世話ですね。俺はプロのピアニストになりたいと思ったことなんか、一度もないですから」
「……そうなの?」
「むしろガキの頃は、強制されて弾くのが嫌でたまりませんでしたよ。自分で好きなように弾くのはいいんですが、とにかく誰かに教わるとか監督されるってのが駄目で……。俺のピアノは、基本の運指だけを教わった後は、自分でCDを聴いたり演奏会で本物が弾くのを見たりして独学した部分が殆どです。だから正攻法の演奏でもないですし。弾くのは好きですけど、それ以上にはならない。一生、ピアノを仕事になんかしませんよ」
「そう」
 獄寺が言うと、じっと聞いていた綱吉は、困ったような安堵したような微妙な表情で微笑む。
「君が何を選ぼうと、俺は口出しする気はないんだけど。……ただ、俺は君のピアノの音、好きだから。ディーノさんの言葉じゃないけど、もしかしたら君が、って考えたことがなかったわけじゃないんだよ」
「そのお気持ちは嬉しいですけど、俺は今の状況に不満があるわけじゃないですから。十代目はご自分のことだけ考えて下さればいいですよ。俺のことは俺が考えますから」
「……うん、そうだね」
 自分がどうするかの方が大事だよね、と自嘲というほどではない淡い笑みを綱吉は浮かべて、再び車窓の外へとまなざしを向ける。
 その静かな横顔を、獄寺は黙って見つめた。
 ──君のピアノの音、好きだから。
 他意のない言葉だということは分かっている。
 綱吉はいつも自分が弾くピアノを喜んで聴いてくれるし、そうでなくとも弾いて欲しいと思っている時には、ちらちらとピアノの方を気にしているから、すぐにそれと分かる。
 そして獄寺も、綱吉が聴いてくれるのなら、何時間であろうと弾き続けても飽きなかった。
 生まれた時から、常に自分の傍らにあったピアノ。
 獄寺にとって、ピアノはいつも幸福の象徴だった。
 幼い頃は母の想い出に、少し成長してからは心を通わせた人々との想い出に直結し、現在に繋がるボンゴレ九代目との出会いも、下町の酒場のピアノがきっかけだった。
 幼少時のピアノ演奏会でひどい目に遭い続けた記憶も、トラウマとなったのは姉ビアンキの存在だけで、ピアノに対する忌避感には繋がらなかったのだから、それだけピアノという楽器が獄寺の内に占めるものは大きいのだろう。
 だが、ピアノを弾くということは、獄寺にとってはそのまま自分を弾くことを意味していた。
 根っから嘘が下手な性分が影響しているのだろうが、悲しい気分の時には悲しい音しか、嬉しい気分の時には嬉しい音しか出せないのである。
 そのことを自覚したのは日本に来てからのことだが、以来、獄寺は公共の場でピアノを弾くことをしなくなった。
 自分の部屋で一人きりでいる時だけ、ピアノに触れる。
 その孤独な習慣が崩れたきっかけは、やはり綱吉だった。
 中学二年生の夏休み、宿題を片付けるために初めて獄寺のマンションを訪れた綱吉は、リビングの中央に据えられたグランドピアノに目を丸くし、その黒く艶々と輝いている楽器に興味津々の様子を見せたので、獄寺も弾いて見せないわけにはいかなかったのである。
 そしてクラシックに興味がない人間でも、どこかで必ず聞いたことがあるような名曲ばかり選んで聴かせれば、綱吉はひどく感激したようで、それ以来、彼の中での獄寺の認識が少し変わったようだった。
 思えば、綱吉と本格的に打ち解けて話をできるようになったのは、あのピアノがきっかけだったかもしれない。
 あの夏の日から、獄寺は機会あるごとに綱吉にピアノを弾いてきた。
 嘘をつけないピアノの音は、決して穏やかで優しいばかりではなかったはずだが、その音を綱吉は好きだと言ってくれる。
 それは何にも変えがたい宝石のような言葉だったが、一方で、どうにもならない棘の痛みを感じないではいられなかった。
 ──いつも指慣らしにと弾く、リストの『愛の夢 第三番』。
 この曲に歌詞があることを……冒頭に掲げられているフライリヒラート作の詩を、綱吉はおそらく知らない。知っていたとしても、獄寺がこの曲を指慣らしに弾く理由とは繋げて考えない。
 無論、獄寺とて知って欲しいわけではない。むしろ、知らないでいてくれなければ困る。
 なのに、この曲を弾き続けてしまう。そんな自分の浅ましさを自覚してしまうから、綱吉から与えられる賛辞は喜びである一方、かすかな後ろめたさをも獄寺に覚えさせた。
(でもね、俺はこの先もずっと、あなたのためだけに弾き続けるんです)
 沢田綱吉という存在を知らなかった頃ならばいざ知らず、今はもう他の誰かに自分のピアノを聴いてもらいたいとは思わない。否、聴かせたくない。
 世界でただ一人を喜ばせ、その慰めとなるのなら、それ以上のことなど必要ないし、ピアノを仕事になど決してしない。
(「愛せよ。汝、能得(あたう)る限り」。フライリヒラートの詩の通り、俺は……)
 独り言にすら出せない想いを、唯一つ具現化する手段。
 ピアノのことをこんな風に思う時が来るなどと、幼い頃には思いもしなかった。
 けれど、綱吉が望むのなら何でもできるように、彼が好きだと言ってくれるのなら、ピアノだっていくらでも弾く。
 そんな自分を獄寺は愚かだとは思わなかった。



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