誰が為に陽は昇る 22

 その小さな騒ぎに気付いたのは、四人で食後のワインとデザートをホテル内のバーラウンジで楽しんでいる時だった。
 どこかの城のサロンを思わせる優雅でシックな内装のバーは程々に混んでいて、生演奏のピアノをBGMに心地好いざわめきが空間を満たしている。
 だが、それが唐突に破られて、綱吉はその元凶となっているピアノのある辺りを見やった。
 グランドピアノの傍らで、ピアノを弾いていたロングドレスの女性と、蝶ネクタイをした中年男が言い争っている。
 よくは聞き取れないが、デートの約束がどうのという女性の声と、それを宥めるような男の声で、何となく事態は理解できた。
「あーあ、何やってんだか」
 溜息混じりにディーノが立ち上がり、そちらへと歩み寄ってゆく。すかさずロマーリオも付いてゆき、綱吉と獄寺の二人がテーブルに取り残される形になった。
「あ、女の人、出て行っちゃったよ」
「まぁ、珍しくないっスけどね」
 大して興味も持てない様子で、獄寺は肩をすくめる。
 何しろ、鉄道やバスですら客が少ないからと勝手に欠便にし、美術館や博物館も客が少ないと平気で休館にして、窓口の職員も、客の行列もそっちのけに携帯電話で恋人と延々お喋りしているようなお国柄である。
 あのピアニストはデートの約束があるのにもかかわらず仕事に来て、途中まででも弾いただけ偉いと言うべきなのかもしれない。
 そう思いながら綱吉が成り行きを眺めていると、蝶ネクタイの男となにやら低い声で話をしていたディーノが戻ってきた。
「隼人」
 スモーキン・ボムと呼ばない時のディーノは、獄寺のことを名前で呼ぶ。
「今の見てただろ。今夜のピアニストが逃げちまったんだ。代わりにお前、弾かねーか?」
「はァ?」
 突然の申し出に、獄寺は思い切り眉をしかめた。綱吉も目が丸くなる。
「CDでも流しときゃいいだろうが」
「それがなー、オーディオも故障中でな。せめて生演奏でもねーと、締まらないだろ」
「他の奴に頼め」
「そー言うなって。なぁツナ、お前だって隼人のピアノ、聴きたいだろ。前に聴いたのはいつだ?」
「前? えーと」
 いつだったっけ、と綱吉は考える。
 獄寺がピアノを弾くのは、彼のマンションの部屋でだけのことである。学校の音楽室では、彼は決してピアノに触れない。
 どういうこだわりなのか、自宅のリビングのど真ん中に据えられたグランドピアノでしか弾かないのだ。
「イタリアに旅行に来る一週間くらい前、だったと思うけど」
 そういう事情ゆえに他者が獄寺のピアノを聴くのは稀なことだったが、土曜日ごとに彼のマンションでイタリア語を教えてもらっている綱吉は、毎週とまではゆかなくとも、月に最低二度は獄寺のピアノの音を聴いている。
 獄寺自身、ピアノを弾くのは好きらしかったが、綱吉が聴かせて欲しいと願うと尚更に嬉しそうに鍵盤に指を躍らせ、そんな彼の姿と、彼の奏でる音が綱吉もとても好きだった。
「じゃあ二週間くらいは聴いてないわけか。だったら、そろそろ聴きたいだろ?」
「それは……」
 もちろんだけど、と思いながら綱吉は、獄寺の方へと視線を向ける。
 獄寺は何とも言いがたい、渋い顔をしていた。その表情を解読するのなら、十代目以外の人間の前で弾きたくないが、十代目が聴きたいとおっしゃるなら弾かないわけにいかない、といったところだろうか。
「俺は獄寺君次第、かな」
「十代目?」
 獄寺を見つめながら答えると、ディーノばかりでなく獄寺も不思議そうな顔になった。
「俺はいつでも獄寺君のピアノ、聴きたいけど、獄寺君がこういう場所で弾くのがいいのかどうか、分からないから。獄寺君が弾きたいのなら弾いて。弾きたくないと思ったら弾かないで」
「十代目、俺は……」
「そーいうことなら話は早い。隼人、あのピアノ、すげーいい音出るぜ。素人の俺が聞いてもはっきり分かるくらいだ。なんせベーゼンドルファーの逸品中の逸品、インペリアルだからな」
 どうだとばかりに、満面の笑みでディーノが獄寺の肩に手をかける。
 至極迷惑そうな顔をした獄寺だったが、ベーゼンドルファーと聞いた途端に、ぴくりと表情が動いた。
 音楽の素養は全くない綱吉だが、獄寺との付き合いも長くなったおかげで、ベーゼンドルファーが最高峰のピアノメーカーだということは知っている。そして、双璧とされるスタインウェイよりもベーゼンドルファーの音質の方が、獄寺が好きだということも。
「獄寺君、ちょっと触ってくる?」
「十代目」
「行っておいでよ。俺、ここで聴いてるから」
 まるで、友達に誘われて遊びに行きたいのに痩せ我慢しようとする、意地っ張りな子供のような表情をした獄寺に、笑顔で綱吉は言った。
「ね?」
 そして綱吉の笑顔は、獄寺に対してだけは絶対的な威力を誇るのであって。
「──はい。じゃあ、ちょっとだけ」
「うん」
「リクとか、ありますか?」
「ううん。獄寺君が好きなの弾いてくれればいいよ」
「分かりました」
 うなずいて獄寺は立ち上がる。
「助かるぜ、スモーキン・ボム」
「こういう場所で、その名前で呼ぶんじゃねえ」
「悪いな、ついうっかり」
「言ってろ、ヘタレ馬」
 何やかやと言いながら、獄寺とディーノは連れ立ってグランドピアノのほうへ歩いてゆき、蝶ネクタイの男と少々の言葉を交わして、ディーノだけが戻ってくる。
 そして、獄寺はピアノの前の椅子に腰を下ろし、全ての指輪を外してから、確かめるように鍵盤に触れて短い音を出した。
「あ、気に入ったみたい」
 感心したようにわずかに眉を開く、その小さな仕草で獄寺の心理を読み取って、綱吉は微笑む。
 そうして獄寺が弾き始めた一番最初の曲は、綱吉も知っている曲だった。
 普段でも指慣らしとして、最初に弾くことが多い、甘い旋律のゆったりとしたロマンティックな曲。
 獄寺の奏でる音はシルクのようでもあり、真珠が零れ落ちるようでもあって、綱吉はその響きに聞き惚れる。
 と、テーブルに戻ってきたディーノが半分呆れ、半分感心するような声で呟いた。
「ったく、参るぜ。渋っておきながら、指慣らしがリストの『愛の夢』かよ」
「いつも最初はこれですよ?」
「いつも、って簡単に言うなよ、ツナ。この曲はそうそう簡単に弾けるもんじゃねーんだ」
「それは聞いたことがありますけど」
 もちろん獄寺から教えてもらったことだが、リストはとても背が高くて指も長い、並外れた技巧を持つピアニストだったため、彼の作った曲は彼と同じように長くて強い指の持ち主でないと、完璧に弾きこなすことは難しいという。
 その難しい曲を美しく聞かせてくれる獄寺の才能に、綱吉はいつでも感動し、尊敬の念を抱いているのだが、ディーノの感想はそう単純ではないらしく、微妙な表情で、グランドピアノに向き合っている獄寺を見やる。
 そして、獄寺を見つめたまま、言った。
「なぁ、ツナ。俺はガキの頃から、あいつのピアノを何度も聴いてるんだ。その度ごとに、あいつの才能は並のものじゃねーと思ったよ」
 そう言う間にも、曲が変わる。甘い旋律から、躍動的な親しみやすい旋律へ。綱吉の知らない曲だったが、周囲の人々が軽く体を揺らしたりしているところを見ると、この国では良く知られた曲であるらしい。
「俺は音楽をやったことはねーが、レコードや演奏会では散々聴いてるからな。弾き手の良し悪しくらいは分かる。おまけに、あいつは気性も芸術家向きだしな」
「気性……ですか?」
「ああ。集中力とプライドの高さ、攻撃性。ついでにロマンティスト。絵でも音楽でも、そういう奴が生み出すものは、大勢に訴えかける力を持つんだ。あいつの音は、聴いてる奴の魂に噛み付いてくるんだよ」
「……あんなに綺麗な音なのに?」
「それが噛み付くってことさ。あいつの音は、一度聴いたら忘れられねーんだよ。ピアニストも色んなタイプがいて、聞き込むほどに味わいの増す地味なタイプもいれば、最初の音を聴いただけで分かるくらいに破天荒な個性を持つタイプもいる。
 隼人は後者の方だ。あいつは自分の感情を音に乗せるのが上手い。っつーより、感情抜きに弾けねーんだな。で、その感情に観客を引き込んじまう」
 それは綱吉にも思い当たる部分があった。
 獄寺のピアノは彼の瞳の色と同じく、とても素直で、獄寺が落ち込んでいる時にはどんなに明るい旋律でも悲しそうに聞こえるし、逆に獄寺が幸せな気分でいる時には、憂鬱な旋律ですらはずんで聞こえる。
 そして、そんな獄寺の奏でる音を聴いていると、綱吉の気分も同調して、沈んだり楽しくなったりするのだ。
「あいつも親がマフィアさえでなけりゃな。いいピアニストになってたと思うぜ。まぁ、誰だって親や親の職業を選べるんなら、苦労はねーんだがな……」
「ディーノさん……」
 名を呼ぶと、ディーノは綱吉を振り返って屈託のない笑みを見せた。
「俺も、家業が嫌で逃げ回ってた時期があるからな。ちっとだけ分かるんだよ、あいつの気持ちも、ツナ、お前の気持ちもな」
「──…」
「でもな、俺が今後悔してるのは、なんでもっと早く自分のやるべきことをやらなかったのかって、そのことだけだ。俺がもっと早く覚悟を決めてりゃ、親父だってあんな死に方はしなかった」
「おいボス」
 自嘲気味に言ったディーノの言葉を諌めるように呼んだのは、ロマーリオだった。だが、心配するなとばかりにディーノは、ロマーリオに片手を上げて見せる。
「だからな、ツナ。お前も隼人も、後悔するような道だけは選ぶなよ。誰だって、親も家業も選べねえ。だったら、そこから出発して、一番いい道を自分の力で探すしかねーんだ。後から後悔しなくてもすむような、自分と自分の大事な人たちが皆で幸せになれるような道をな」
「──はい」
 ディーノの兄のような温もりに満ちた言葉に、綱吉は真摯にうなずいた。
 ──自分と自分の大事な人たちが、皆で幸せになれるような道。
 夢物語のようだが、それを選ばなければならないのだ。大事な人たちを不幸にしないためには。
 それはもはや、できるできないの問題ではない。
 そうして話している間にも、獄寺は次から次に曲を弾き続け、十分に指がほぐれたのだろう。仕上げとばかりに再びリストに戻る。
「ラ・カンパネラ……」
 イタリアの街に鳴り響くカテドラルの鐘の音を映した、不世出のヴァイオリニスト・パガニーニの名曲。それをリストがピアノ用にアレンジした、大練習曲の第三番。
 いつだったか、世間に良く知られたこの曲ではなく、同タイトルかつ同モチーフでありながら遥かに難易度の高い、リスト本人にしか弾きこなせないと言われる超絶技巧練習曲を一度でいいから完璧に弾きこなしてみたいのだと、獄寺が話してくれたことがあった。けれど、練習不足で一生無理だろう、と笑いながら。
 切ないほどに美しく、胸に迫る激しい旋律が、水晶珠がぶつかり合うような透明かつ艶やかな音で響き渡る。
 全身でその音色を受け止めながら、綱吉はそっと目を閉じた。



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