誰が為に陽は昇る 21

 綱吉がその人影を見出したのはローマ市内でのホテル、それもチェックインした直後のことだった。
「よう、ツナ。スモーキン・ボム」
 まるで待ち伏せしていたように、というよりも正真正銘待ち伏せだったのだが、エレベーターホールの、フロントから見ると影になる位置のソファーに、にこやかに微笑むディーノとロマーリオの姿を見つけた時の綱吉の驚きは、一体どう表現すればいいだろう。
「ディーノさん!? なんでこんなとこに……」
 ここはイタリア国内であるから、イタリア人のディーノがいるのは別におかしくもなんともない。
 問題なのは、どこかの路上や施設でばったり、ではなく、この場所が今夜、自分たちが宿泊予定のホテルの中、ということだった。
 だが、綱吉の問いかけにディーノは、きょとんとした顔で返した。
「なんでって、そんなの宿泊予約見りゃ一発だろ」
「へ?」
 しゅくはくよやく。
 日本語であったにもかかわらず、一瞬その単語が漢字変換ができずに、綱吉はひらがなで呟く。が、きちんと翻訳するよりも早く、ディーノが続けた。
「あれ、その顔だと知らなかったのか。ここはうちが経営してるホテルの一つだぜ」
「ええ!?」
 まさか、と綱吉は傍らの獄寺を振り仰ぐ。
 すると、獄寺は微妙に複雑な、表情を選びあぐねたような顔で、うなずいた。
「そうです。色々条件を考えると、ここが一番良かったもので……」
「そうだったんだ……」
 だったら最初に言っておいてくれればいいのに、と思ったものの、それは綱吉の中で怒りには転じなかった。
 獄寺の考えていることなど、基本的に見え透いている。おそらく彼は、綱吉に余計な気を遣わせたくなかったのだろう。
 獄寺の気遣いは、時には余計なこともあるが、どれもこれも綱吉のためだけを思って組み立てられていることが殆どである。それが分かっている以上、綱吉は怒る気になれなかった。
「ええと、それじゃあ一晩お世話になります、でいいのかな?」
 半分は獄寺を、もう半分はディーノを見るような形で、半端に軽く頭を下げながら、どちらにともなく問いかける。
 すると、ディーノは楽しそうに笑った。
「ああ。つーわけで、ほい、これ」
 そのままソファーからするりと立ち上がり、豹かピューマを思わせるようなしなやかで隙のない動作で綱吉との間の距離を詰め、何かを差し出す。
「あ、はい。……って、何ですか、これ」
 反射的に上げた綱吉の右手に乗せられたのは、どう見てもホテルの部屋の鍵だった。
 たった今、フロントでもらったものと同じ、部屋番号のついた大きなキーホルダーがついている。
「もちろん、部屋の鍵だ。せっかくだから、お前たちにはその部屋じゃなくて、こっちの部屋を使ってもらおうと思ってな」
「へ?」
 こっちの部屋って、と思いながら綱吉が見ると、当然のことながらキーホルダーに刻印された部屋番号は確かに違っていた。
 フロントでもらったのは、417号室、ディーノが渡してくれたのは1001号室である。
「1001号室は俺が個人でキープしてる部屋なんだ。オーナーズルームって奴だな。お前たちみたいに特別な客が来た時に使ったり、俺自身がローマで仕事がある時に使ったり……。自分ちの持ち物をどうこういうのもアレだが、すげーいい部屋だぜ」
「おい跳ね馬」
 綱吉が何かを言うよりも早く、幾分低めた声で獄寺がディーノを呼んだ。
「なんだ?」
「最上階で、お前がキープしてる部屋ってことは、特別室のオーナーズルームだろ? 十代目は今回、『十代目』としてイタリアに来てるわけじゃない。目立つのは……」
「ああ、それなら気にすんな」
 眉をしかめての獄寺の苦言にも、ディーノはあっさりと笑って返す。
「支配人は、俺が誰を1001号室に招いてるのかなんて知りやしないさ。フロントにも、あくまでもお前たちが417号室に泊まったっていう記録しか残らねーよ。そもそも1001号室はいつも空調整備中で、空室なんだ」
「──そーかよ」
 溜息混じりにうなずくと、獄寺は綱吉を見た。
「十代目、どうされますか」
「どうって……」
 問われて、綱吉は獄寺を見、ディーノを見、そして手の中の鍵を見る。
 ディーノが保障してくれたこと、そして獄寺の反応を見る限りは、チェックインした部屋ではない特別室とやらに泊まることには、特に問題はないのだろう。
 あるとしたら、おそらくは超豪華な部屋だろうその特別室とやらで、自分がくつろげるかどうかということだけだ。
「どうも何も、遠慮せずに泊まっていってくれよ。お奨めの部屋なんだぜ。サンタ・マリア・マッジョーレもよく見えるしな。ロマーリオ、エレベーター呼んでくれよ」
 言いながらディーノはさりげなく、しかし明確な意思のこめられた手のひらで綱吉の肩を押し、エレベーターの方へいざなってゆく。
「あ、あのディーノさん」
「いーからいーから。おら、スモーキン・ボムもさっさと乗れって」
 そして、1階で停まっていたらしいエレベーターの扉が開くと、綱吉を押し込み、ついでに獄寺をも押し込んで、ロマーリオが扉を押さえている間にすばやく十階のボタンを押した。
「荷物置いたら、夕飯一緒に食おうぜ。俺たちはロビーにいるからな」
 その言葉を最後に、にこやかな笑顔は閉まる扉の向こうに消えて。
 何だかよく分からないままに、綱吉はゆっくりと昇ってゆくエレベーターの階層表示へと目線を向け、それから獄寺を見やった。
「えっと……状況がよく分かんないんだけど、いいのかな。この部屋に泊まって」
「まあ問題はないと思いますよ。跳ね馬は大ボケのヘタレですけど、ロマーリオもついてますし、まずいことは何もないはずです」
「ふぅん」
 そんなものなのかな、と思いながら綱吉は、再び階層表示のランプへとまなざしを戻す。
 向けられたのが悪意なら、小さく縮こまってやり過ごすのは幼い頃から得意だったが、好意となると、十三歳の時にリボーンが沢田家にやってくるまで、とんと縁がなかった分、かわし方が分からない。
 というよりも、かわしてはいけないような気がする、と言う方が正しいだろう。
 友達が一人もいない時期があまりにも長かったため、向けられる好意には、つい卑屈と紙一重の反応をしてしまうのである。何でもかんでも感謝して受け取らなければならないような気がしてしまうのだ。
 もっともディーノは気心の知れた兄のような存在であるため、慣れもあって綱吉もそこまで卑屈な反応はしないが、特別室という響きには十分すぎるほど気が引けるものがある。が、好意を断るだけの理由もない。
 仕方がない、と綱吉は覚悟を決めた。
「でも、どうして獄寺君、ディーノさんのホテルを選んだの?」
「ああ、それはすみません。黙っていて」
「いや、別に黙ってたことはいいんだよ。教えては欲しかったけど、獄寺君なりに考えのあったことなんだろうし。でも、なんで?」
 重ねて問いかけると、獄寺は少しだけ困ったような表情で、ちょうど止まったエレベーターのドアの開ボタンを押した。そしてエレベータの外を用心深く窺ってから、綱吉を振り返る。
「どうぞ、十代目」
「ありがと」
 礼を言って、綱吉は降りる。
 初めての場所では、獄寺が安全確認をするまで綱吉は動かない。それはもう、鉄則のようなものだった。
 日本でもだが、イタリアで綱吉が無用心に行動することは、いくらお忍び旅行でも命取りである。そう主張したのはもちろん獄寺だが、これまでがこれまでであるから、綱吉も今さら反論したりはしない。
「あ、この部屋だね」
「鍵、貸して下さい」
「うん」
 いつもと同じく、素直に獄寺に鍵を渡して、開けてくれるのを待つ。
 もちろん正直なことを言えば、綱吉も男である。お姫様扱いされるのは好きではなかったが、こういう場面での獄寺の表情や指先には、ぴんと張り詰めた美しさがあって、そんな横顔と手元を眺めるのは、綱吉の密かな楽しみの一つだった。
 そして、
「大丈夫みたいですね。入って下さい、十代目。跳ね馬が言うだけあって、なかなかいい部屋っスよ」
 内部に人の気配がないことを確認した獄寺が、一瞬で鋭い表情を崩し、笑顔で振り返る。その瞬間も、綱吉は好きだった。
「う…っわぁ」
 だが、そのひそかなときめきも、客室内に足を踏み入れた瞬間に霧散する。
 まるでどこかの城内の王様の部屋のようだった。深い緋色のベルベットが張られたソファー、サファイア色のドレープが美しい天蓋が付いたベッド、豪奢な装飾彫りの前飾りが印象的な暖炉、象嵌細工の優雅なテーブル……。
 薄いレースのカーテン越しに届く黄昏の光と、凝ったアンティークのシャンデリアから零れ落ちる光が、重厚な装飾に彩られた室内を幻想的なまでに美しく照らし出していて。
「すっごい……」
「続き部屋がありますから、俺はそっちで寝ます。そっちにもシャワールームがありますから、この部屋は、十代目が御自由に使って下さい」
「うん。でも、こんなすごい部屋、興奮しちゃって今夜眠れないかも」
「大丈夫っスよ。夕飯の時に少しワインを多めに飲めば、嫌でも眠くなりますし、どうしても眠れなかったら、明日の電車ん中で寝ればいいだけですから」
「それはそうなんだけど」
 言いながらも、綱吉はゆっくりと窓辺に近付いた。
 黄昏時のローマの街並みは、薔薇色と琥珀色が入り混じったような空の下、幻想的な影絵のように浮かび上がり、ネオンを星のように瞬かせている。その光景は夢のように美しかった。
「……ローマは本当に美しい街ですけど、美しいだけじゃないんです」
 綱吉の考えを読んだかのように、不意に獄寺が言った。
 綱吉はゆっくりと振り返る。獄寺は真面目な顔で、ローマの街並みを見下ろしていた。
「政治と宗教の聖地である永遠の都は、同時に暗黒社会の聖地の一つでもあるんです。名の知れたファミリーで、ローマ市内にアジトを持っていないファミリーはありません」
「……だから、このホテルを選んだんだね」
「はい。幾つか候補はありましたけど、どう考えてもここが一番安全でした。跳ね馬の知り合いだと思われたとしても、差し引きで考えれば大した問題じゃありません。ここなら万が一のことがあっても必ず、十代目を守り切れますから」
「──そう」
 取り越し苦労だとも思わなかったし、黙って手配した獄寺の行動に腹も立たなかった。
 今の綱吉は、そういう立場の人間なのだ。だから、ありがたいとも嬉しいとも思う。綱吉のためだけに獄寺は心を砕き、尽くしてくれているのだから。
「ありがとう。俺のためにいっぱい気を使ってくれて」
「いいえ、俺は当然のことをしてるだけです」
「そうかもしれないけど、やっぱり嬉しいよ。誰かに自分のことを大事に考えてもらえるのはさ」
「十代目のことを大事に考えるのは当然っスよ。俺はもちろん、十代目のことが一番大事ですけど、俺だけじゃありません。ファミリーの連中は全員、十代目のことを大事に考えてます」
「……うん。俺も皆が大事だよ」
 だから、十代目になるのだ、とは口にはしなかった。けれど、獄寺は何かを勘付いたかもしれない。しかし、彼はそれ以上何かを言わなかった。
 おそらく獄寺は、それ以上何か言って、ボロが出ることを恐れたのだろう。彼自身の個人的な想いや綱吉の嘘を、危うく燻り出してしまうことを避けたのだ。
 獄寺隼人という人間は、不器用で人間関係も下手くそだが、綱吉のためならどんな不得意なことでもやってのける。
 そうと分かっているから、綱吉も不器用な沈黙を不用意に壊したりはしなかった。
「そろそろ下に行かなきゃね。ディーノさんが待ってるよ」
「そうですね」
 言いながら、けれど、と綱吉は思う。
 互いの肩書きも立場もなく、ただの両想いの恋人としてこの美しい街の美しいホテルに二人で来ることができたなら。
 そんなことが叶ったなら、どんなにロマンチックで幸せだっただろう。
 未練がましくそんな風に思う自分を小さく自嘲しながら、綱吉は獄寺を振り返った。
「行こう、獄寺君」
「はい、十代目」



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