誰が為に陽は昇る 20

 フィレンツェのホテルは、ドゥオーモの大クーポラが見える居心地のいい部屋だった。
 部屋の明かりを消しても、美しい色柄のカーテンを透かして街の灯りが淡く届く。その中で、静かに獄寺はカーテンの隙間から、ホテル前の路上や向かい側の建築物といったものに注意深いまなざしを向け、ひとまず異常はなさそうだと感じると、その場に立ったまま、携帯電話を操作して短いメールを日本宛に送った。
『ホテル・エルディーラ503号室。カヴール通りに面した東角から3つ目の部屋。現在異常なし』
 そして、ちらりと室内へ視線を走らせる。
 奥のベッドで、綱吉は静かに眠っていた。
 細い見かけに反して、リボーンに鍛え上げられた持久力を持つ綱吉は、連日、この暑い中を歩き回っても大して疲れた様子を見せず、食欲も旺盛で、よく動いてよく食べてよく眠る、という良い子の見本のような日々を送っている。
 もともと綱吉は、枕が替わると眠れないというようなひ弱さの持ち主ではない。ましてや今回は、ただの観光旅行であるから、綱吉はどこのホテルでも素早くくつろぎ、こうして日付が変わる前にはあっさりと眠ってしまう。
 そういう綱吉の順応性の高さが、獄寺としてはありがたかった。
 早い時間帯に熟睡してくれれば、その分、夜のうちに必要な手配ができるし、こうしたメールを送るにしても、眠りを妨げることを心配しなくてもすむ。
 ──移動するたびに現在地を知らせるメールは、日本にいるリボーンに向けて送られているものだった。
 イタリア国内にいながら、シチリアのボンゴレ総本部に連絡しないのは、ボンゴレ十世『候補』の綱吉は、まだリボーンの後見下にあるからである。
 綱吉が次期ドン・ボンゴレであることは既に周知されているが、それでも、初代の直系であり、門外顧問として実力を発揮している沢田家光の実子とはいえ、日本生まれ・日本育ちの少年をボスの座に据えてよいのか、といった声も、いまだ組織内部にないわけではない。
 それゆえに、少しでもイタリア国内における危険を排除するために、獄寺はイタリア行きが認められた時点で、リボーンにこうして逐一、報告を送ることを自分から申し出ていた。
 無論、綱吉にはそのことを知らせていない。が、おそらく、それを知っても綱吉は自分を咎めはしないだろう、と獄寺は思う。
 ボンゴレ・ファミリーに取って、どんな犠牲を払ってでも守り通されなければならない存在──それが、沢田綱吉なのであり、彼自身もそれはもう承知している。
 だが、この旅行は綱吉にとって、最後の自由……あるいは我儘とでもいうべき意味合いを持っていることを十分過ぎるほどに分かっていたから、獄寺は、この旅行にわずかでもボンゴレの影を感じさせたくなかった。
 この旅行の間は──この夏が終わるまでは、『ボンゴレ十世』ではなく、『沢田綱吉』であって欲しい。
 それは獄寺自身の願いでもあり、そのためにも、この秘密は守り通されるべきものだった。
「───…」
 小さく溜息をついて、獄寺は携帯電話をしまい、それから煙草とライターを取り出す。
 そして空調の風向きを確認してから、煙草を口にくわえ、火をつけた。薄闇の中で数秒間、橙色の炎が灯り、ほどなく、ぽうっと赤い小さな光が燃え上がる。
 この国では煙草がやたらと高価なのと、教会や美術館はほとんどが禁煙であるため、日本にいる時よりも煙草の消費量自体は減っている。が、禁煙には至らず、何やかやで二日に一箱は消費していた。
 ゆっくりと立ち上る煙を目で追い、そっとそのまなざしを、綱吉へと向ける。
 窓際にいる獄寺と、入り口側のベッドで眠っている綱吉との間には、ベッド一台分以上の距離が開いていたが、この旅行が始まって以来、獄寺は、綱吉が眠った後はその距離を決して詰めようとはしなかった。
 距離を詰めてしまえば、もっと近付きたくなる。
 すぐ傍まで近づいてしまったら、今度は触れたくなる。
 そうと分かっていて、そんな危うい橋を渡れるわけがない。
 綱吉が起きている間ならば、普通の顔をしていられる。二人きりでいること、互いの間の距離がゼロに近くなることは、これまでの年月で決して珍しいことではなかった。だから、自分の心を切り離すことには慣れているし、耐えて諦めることにも慣れている。
 だが、綱吉が眠ってしまうと、話は全く別だった。
 沢田家の綱吉の部屋のカーペット上や、小さなシングルベッド上でのことなら、日常の風景であるから、ああ勉強に飽きて眠ってしまったのかと、ほろ苦いような甘くてとろけそうな、切なくも幸せな気分で寝顔を見ていられる。起こさないようにそっと物音を殺して、自分のマンションに帰ることもできる。
 けれど、見慣れない美しい壁紙やヨーロピアンサイズのベッドと、その中で眠る綱吉の姿は、ここが日常の場ではないことを否応にも獄寺に自覚させる。
 そしてその自覚は連鎖的に、獄寺自身が恐れを感じずにはいられない衝動を呼び覚ましかねなかった。
 ───このまま、ずっと二人きりでいられたら。
 ───このまま、どこかへ二人で行ってしまえれば。
 ───この人に触れて、この人の瞳に自分だけを映すことができたなら。
 そんなことを考えそうになる自分が怖かったから、獄寺は極力、そういった物思いから距離を置くようにしていた。
 自分が考えるべきなのは、この旅行をいかにトラブルなく終えるかということ。
 いかに十代目に楽しんでもらえるかということ。
 ……そして、帰国後──この夏が終わった後のこと。
 それ以外のことを考えている余地などないのだと、毎日毎晩、繰り返し自分に言い聞かせて。
 だから、そういう意味でもリボーンへの逐次報告という、これ以上ないほどに現実を思い知らせてくれる任務はありがたかった。
(──この旅行が終わったら)
 自分と綱吉の今の関係は、終わりを告げる。
 自分は主従を主張し、綱吉はそれを受け入れつつも友達だと思いたがっているような曖昧な関係。
 それらは全て消えて、今度こそ真実、ボンゴレ十世とその右腕へと立場が変わる。
 自分たちの何が変わるというわけではなくとも、取り巻くもの、課せられるものはがらりと質量を変えて重くなり、そしておそらくそれらは、自分たちの命が絶えるまで消え失せることはないのだろう。
(全部、俺が望んでいたことだ。全部……)
 けれど、今になってそれがひどく苦しい。
 誰よりも綺麗で優しくて、自分に生きることの意味を、命の尊さを教えてくれた彼が、犯罪組織のボスになるなんて。
 そんな皮肉があってたまるものかと思ってしまう。
 彼以外のボスなど要らないのに、彼にだけはボスになって欲しくない。
 何故なら、自分は。
(あなたを……愛してる)
 『十代目』ではなく、『沢田綱吉』という一人の人間が、何よりも大切だから。
 世界でただ一人、命を懸けて愛する人だから、彼がこの先、『十代目』として苦しむだろうことが辛い。
 世界で一番、幸せになって欲しい人なのに。
 それでも。
 それがどんな道であっても、彼が選ぶ道であるのなら。
(俺はこの命が尽きるまで、あなたに従います)
 どれほど苦しくとも、辛くとも。
 決して、それを口にも態度にも出したりなどしない。
 少しでも自分が負の感情を表に出せば、誰よりも優しい彼は、それを感じ取って更に苦しむだろうから。
 何も言わず、態度にも出さず、傍に在り続けよう。
 自分が必要とされる限り。
(十代目……沢田、綱吉さん)
 短くなった煙草を灰皿にもみ消し、もう一度綱吉を見つめてから、獄寺は小さく溜息をついて、自分のベッドへと上がった。
 少しでも睡眠不足になれば、勘のいい綱吉はすぐに気付いてしまう。だから、眠らないわけにはいかない。
 高い天井を見上げ、そして目を閉じる。
 それから眠りにおちるまでの短い時間、許されないと分かっていても、この甘くほろ苦い二人だけの時間が、永遠に続けばいいと祈らずにはいられなかった。



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