誰が為に陽は昇る 19

 二人がたたずんでいた大運河からサン・マルコ広場までは、三百メートル程度の距離だろうか。話しながら歩いているうちに、建物で長方形に区切られた大広場が見えてくる。
 バカンスシーズンだけあって観光客があふれんばかりだったが、最初からカフェ・フロリアンの店内席に座れることを期待していなかった二人は、広場のオープン席にさっさと空席を見つけ出して腰を下ろした。
 そして、注文をすませてジェラートとカフェ・シェケラートを待つ間、広場を行き交う大勢の人々へとまなざしを向ける。
 観光客ばかりだと感じるのは、解放的な服装でカメラを手にしていたり、土産物の紙袋を大量に持った人がやたらと目に付くからだ。
 対して地元の人々は観光客相手の商売人以外、本能の命じるままにバカンスに赴いているのだろう。それらしい感じの人は、ざっと見た限りでは見当たらない。
 この雑多な人混みの中で、自分たちはどう見えるのだろう、と綱吉はふと考えた。
 イタリアは歴史的に混血が激しいため、ありとあらゆる髪と肌の色をした人々がいる。
 だが、それでも東洋と西欧の血が混じった綱吉と獄寺の容姿は、純粋な東洋人に比べれば幾分、この国の風景にすんなりと馴染むが、かといって、風景に溶け込むというほどでもない。
 やはり観光客か、あるいは留学生か。
 カメラや土産物の袋を持っていないとはいえ、少なくとも地元の人間とは見られないに違いなかった。
 そんな風に意識を飛ばしていたのがまずかったのだろう。
「Testa di cazzo!!」
 不意に獄寺が鋭い声を上げる。
 その尋常でない響きに、何?と思った時には、素早く動いた獄寺が、いつの間にか綱吉の背後に近付いていた十歳前後とおぼしき少年の腕を掴んでいた。
「Che cazzo vuoi!!」
 きつく腕を捻り上げながら獄寺が怒鳴ると、少年はもがき、何かを叫ぶ。
 どちらの台詞も常用の慣用句ではないらしく綱吉には意味が聞き取れなかったが、状況は理解できて。
「Smetti per favore! (止めて、お願い!)」
 反射的にイタリア語で言いながら少年の腕を捻り上げている獄寺の腕に、綱吉は手を触れた。
「獄寺君、大丈夫だから。この子はまだ俺のバッグには触ってない。触る前に君は気付いただろ? だからもういいよ、離してあげて」
 今度は日本語で言うと、獄寺は鋭く光る銀灰色のまなざしを綱吉に向ける。
 その翠緑が失せた冷たい色合いは敵を前にした時の彼の瞳の色だったが、綱吉は小さく首を横に振った。
「もういいから。お願いだよ、獄寺君」
「……分かりました。Va cagare! Fanculo!!」
 どん、と乱暴に突き放されて、少年はよろける。が、倒れることなく、Pezzo di Merda! と綱吉には意味を把握しきれない捨て台詞を残して、人混みの中に駆け去った。
 その後姿が消えるのを見届けて、綱吉は大きく安堵の息をつく。
 そして、憤りの色を残したまま元の席に戻った獄寺を見やった。
「ありがとう、獄寺君。気付いてくれて」
「──いえ」
 むっつりと眉間にしわを刻んでいるのは、スリを近付かせてしまった自分の不手際を苦々しく思っているからだろう。
 こういう時、綱吉の方にあからさまな非があったとしても、獄寺がそれを責めることは決してない。
「ごめんね、俺が不注意だった。つい、ぼーっとしてて」
「いえ、十代目は何も悪くありません。俺の不注意です」
「そんなことないよ。日本と同じような感覚で気を抜いてた俺が悪い。だから、気にしないで」
「無理です」
 何を言っても即座に否定して自分の責任にしてしまう獄寺に、ああまた始まった、と綱吉は心の中で小さく苦笑する。
 こうなると獄寺はしつこいのだ。昔のように派手に落ち込んだり土下座をしたりとかいうことはなくなったが、その分、延々と自分の不手際を責め続ける。
 ちょっとやそっと綱吉が慰めただけでは、どうにもならない。
 どうしようか、としばらく考えて、綱吉は一つだけ、彼の気をそらすいいネタを思いついた。
「ねえ、獄寺君。さっき君が言った幾つかのイタリア語なんだけど」
 そう切り出した途端、
「……え」
 獄寺の眉間のシワが消え、代わりに、ぎくりと表情そのものがこわばる。
 その様子を内心、面白いなーと見つめながら、綱吉は何にも気付かぬ顔で続けた。
「俺、よく聞き取れなくって。えーと確か……」
「駄目です!!」
 綱吉が記憶の断片を再現するよりも早く、青ざめた獄寺が叫ぶ。
「絶対、駄目です! そんな言葉を十代目が覚えられたら、俺がリボーンさんと九代目に殺されます!! 十代目のお母様にも顔向けができません!!」
「──ってことは、かなりすごい言い回しだったんだね」
「………はい」
 綱吉がにっこりと笑って言うと、獄寺はがっくりと沈み込んだ。
 そのうなだれた銀灰色の頭をなでてやりたい衝動を覚えながら、綱吉は小さく笑う。
「いいんだよ。パロラッチャ(イタリア語のスラング)が、普段の会話レベルでも滅茶苦茶きっついってことは知ってるから。タチの悪い相手には、それくらい言わないと効果がないんだよね、きっと」
「………はい」
「大丈夫。別に俺は覚える気ないし、獄寺君がそういう言葉を使っても嫌ったり、軽蔑したりってことはないから。ただ、俺の前では、あんまり下品すぎる言い回しはやめてね。連発されると、覚える気がなくても覚えちゃうからさ」
「──十代目、本当に聞き取れなかったんスか……?」
「単語の一つ一つはともかく、パロラッチャとしての意味は分からなかったよ。ニュアンスは通じたけど」
「……すみません」
「いいよ」
 獄寺の頭を撫でる代わりに、綱吉はテーブルの上の獄寺の腕を、ぽんぽんと軽く叩いた。
「俺がスリ天国の広場でぼーっとしてたのと、おあいこ。これからはお互い、気をつけようね」
「俺と十代目とじゃ、あいこになんかなりませんよ!」
「あいこでいいんだよ。俺は君と口論するためにイタリアまで来たわけじゃないんだから。この国を君と一緒に見て、この国のことを知るために来たんだ。だから、この話は、どっちもここまで。ね?」
 もう一度優しく繰り返すと、渋々ながらも獄寺はうなずく。
「分かりました。十代目がそうおっしゃるなら」
「うん、ありがとう」
 そう言った所に、ちょうど注文の品が運ばれてきた。
 注文から飲み物が出てくるまで、普通のバール(立ち飲みカフェ)と違って随分と時間がかかるのは、この店の常なのか、それとも観光シーズンで混み合っているせいなのか。
 分からないながらも、綱吉は目の前に置かれたレモンと葡萄の二段重ねジェラートに相好を崩す。
 そして獄寺も、エスプレッソと氷とシロップを合わせ、ふんわりとした泡状にシェイクしたカフェ・シェケラートのグラスを引き寄せて、一口味わってから満足そうに口元をほころばせた。
「うん、美味しい。獄寺君の言った通り、甘いんだけど、甘酸っぱくてさっぱりしてる」
「そりゃ良かったです」
「うん」
 うなずきながらも、綱吉はさくさくとジェラートを崩してゆく。
 そして、そんな綱吉を、冷たいグラス片手にわずかに目を細めて獄寺は見つめ、やがて世界一美しい広場は静かに暮れていった。


※文中で獄寺が口にした台詞は、イタリア国内でも放送禁止用語とされている超弩級のスラングなので、文中での日本語訳は割愛させていただきました。
 各センテンスについて辞書を引いても、スラングとしての意味は殆ど出ていません。単語自体、載っていないものもあります。
意味合いとしては、「この野郎!」「何してやがる!」「失せろ、クソ野郎」、少年の捨て台詞は「クソッたれ」の最も下品な表現、という感じです。
 が、日本語訳に比べるとかなり単語の選び方がえぐく、品性を疑われる言い回しばかりなので、絶対に応用されないようお願い致します。



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