誰が為に陽は昇る 18

 イタリアに来て綱吉が驚いたことの一つは、獄寺のこの国に関する知識の豊富さだった。
 どこの街に足を踏み入れても、その街の歴史や史跡、風景についてなめらかに説明してくれるし、また食事の美味い店や、雰囲気のいいバール(カフェ)も良く知っている。
 もちろん綱吉たちが訪れているのは、ガイドブックにも詳しく情報が載っている観光地ばかりではあるが、綱吉が獄寺の立場だったら、並盛町内ならまだしも、日本の有名観光地をくまなく説明することなど到底できない。
 それゆえに、あまりの博学ぶりに半分感心、半分驚きながら綱吉がその理由を尋ねると、獄寺は少しばかり困ったような顔で笑いながら、それでも答えてくれた。
 つまりは、どの街も一度は来たことがあるのだと。
 幼くして家を出た後、生活基盤そのものは実家のあるシチリア島に置いていたが、小銭が溜まると、それを資金にしてイタリア各地を回ったのだと。
「なんでだったんでしょーね。時々、無性にどこかに行きたくなったんですよ。ここじゃないどこかに、って……。それで電車に乗ったり、ヒッチハイクしたりしながら、あちこち行ったんスけど、なかなか気に入る街は見つからない。ここだと思っても、一月もするとやっぱり違うっていう気がしてくる。そのうち金も尽きてきて、何となくシチリアに戻る……それの繰り返しだったんです」
 十三歳になる寸前にボンゴレ九世に出会うまで、そんな暮らしを続けていたのだと獄寺は言った。
「このヴェネツィアも、結構早い頃に来ました。北の方の雰囲気は基本的に好きじゃないんですけど、この街だけは何か嫌いになれなくて、年に一度くらいは来てます。今でも」
「今でもって……イタリアに戻った時に?」
「はい。ここに寄ってカフェ・フロリアンでエスプレッソ飲んでるせいで、日本に帰るのが一日遅れるんスけどね。つい何となく」
 悪戯がばれた少年のように、少しだけ決まり悪げに獄寺は綱吉に笑いかける。
「でも本当に、あちこち行きました。そのついでにイタリア国内だけじゃなくて、線路続きでフランスやスイスやドイツにも。特に西の方はフランスを突き抜けて、イギリスやベルギー、スペイン、ポルトガルまで行っちまいましたし……。ガキが一人でパスポートと財布だけ握り締めてですよ。あの頃の俺は、一体何を考えてたんでしょうね」
「……どこかに行きたかったんじゃない?」
 遠い目をした獄寺の横顔を見ながら、ひっそりと綱吉は言った。
「さっき、獄寺君も言ったじゃないか。どこかに行きたかったって。俺、少しだけその気持ち、分かる気がするよ」
「十代目……」
「だって俺も、どこかに行きたいと思ってたから。俺を知ってる人のいない所、ダメツナな俺の全部を認めて、君は何もしなくてもいいんだよって許してくれる場所。そうでなかったら、煙みたいに消えてなくなっちゃいたいって、リボーンに出会うまでは、ずっとそう思ってた」
 あの頃、父も母もそんな自分をちゃんと受け入れてくれていることには気付かないまま、子供特有の身勝手さで、そんなことをいつも思っていた。
 綱吉は、目の前に広がる運河を見つめながら、これまで明かしたことのない思いをそっと言葉に変える。
 アドリア海の真珠とたたえられるこの街を満たす運河は、真夏の夕暮れ時の日差しを受けて黄金色にきらきらと輝いていて。
「君も、そうだったんじゃないの……?」
 運河にかかる橋の欄干に寄りかかりながら、静かに問いかけると、獄寺が驚いたようにまばたきをするのが見えた。
 それから、カモメの鳴き声に耳を済ませるほどの時間を沈黙して、獄寺はふっと表情を崩して。
「やっぱり十代目はすごいっスね」
「え? なんで?」
「だって、俺の話を聞いて、昔の俺の気持ちを言葉にして下さったじゃないですか。俺自身でさえ、よく解ってなかったことなのに」
 微笑んだ獄寺は、再び運河へとまなざしを戻した。
 風に揺れる銀灰色の髪が、傾いた日差しを受けて運河と同じ色に輝いている。
「十代目の言う通りです。俺はどこかに行きたかった。俺を認めて、受け入れてくれる場所。でもどれだけ彷徨っても見つからなかったのも当然っスよね。そんな場所は、この大陸にはなかったんですから」
「──今は、見つかった?」
 これは訊いてはいけない質問──自分たちの間に無数に転がっているパンドラの箱を揺さぶる問いかけだろうか、と綱吉は一瞬迷ったが、それよりも早く口が言葉を紡いでいた。
 そして、獄寺の答えは微塵の迷いもなく。
「はい。ちゃんと見つけました」
 夕暮れの光の中で、獄寺は微笑む。
 誇らしげに、そして、嬉しげに。
「十代目はどうですか? まだ、どこかに行きたいですか……?」
 そして、夕暮れ時の中で金色がかって見える灰緑色の瞳が優しい、けれどよくよく見れば、もっと深い切なさのひそんだ瞳で問いかける。
 その瞳を真っ直ぐに見返して。
「リボーンに出会うまで、って言っただろ。ちゃんと自分の居場所は見つけたよ。……でも、まだ探してる、かな。これから行きたい場所は……」
「十代目……」
「大丈夫だよ、獄寺君」
 心配しないで、と綱吉は笑いかけた。
「俺はちゃんと、答えを見つけるから」
「──はい」
 きっぱりとした綱吉の言葉に、獄寺はうなずく。
「十代目なら大丈夫です。あなたなら必ず、本当に正しいものを見つけられると俺は信じてます」
「だといいけど」
「絶対です。十代目は、大事な時には絶対に間違えたりしません。それは俺が一番良く知ってます」
「そんな買いかぶったものじゃないと思うけどね。でも、ありがとう、獄寺君」
 ──ほんの自分の一言で獄寺の表情は翳り、気遣わしげなものに変わる。そのことを分かっていても嘘を付き続け、それに彼を付き合わせるずるい自分が、少しだけ胸に痛い、と綱吉は感じる。
 本当は、行く先などもう決めているのに、今はまだそう言えない。
 何故なら、この国には、それを決めるために来たはずだったから。
 それが、夏前に獄寺が許容してくれた、自分の嘘。
 けれど、まだ「決めた」とは言ってしまいたくなかった。言ってしまったら最後、この『お友達ごっこ』は続けられなくなってしまう。
 自分たちの行く先に何が待っているのか分かりすぎるほどに分かっていたから、綱吉はこの旅行が終わるまで──夏が終わるまでは、獄寺と友人のような主従のような、今だけ許された曖昧な関係のままでいたいと思う自分を止められなかった。
 そして、抱いている気持ちが同じものであるなら、きっと獄寺も同じ思いでいるに違いない、と思う。
 綱吉がわずかな執行猶予を求めたように、嘘を許容し続ける彼もまた、綱吉が真実、『十代目』になるという重さを受け止めるための執行猶予を望んでいるはずだった。
 それとも、獄寺はただその優しさから自分の嘘に付き合っていてくれるだけであって、この現状は所詮、自分の我儘の結果でしかないのだろうか。
 ふとそんな風に考え、綱吉は運河を見つめたまま、わずかに目を細める。
「日が傾いた分、ちょっと過ごしやすくなってきましたね。海風も涼しくなってきたし……そろそろサン・マルコ広場に行って、お茶しましょうか。腹が減ってるんでしたら、夕飯にしてもいいですけど。もう七時近いですし」
「ううん、食事は後でいいよ。ちょっと一休みして、それから御飯にしよう」
「はい。ただ、カフェはこれからの時間帯かなり混みますから、座れないようなら諦めて、どこかで飯にしてもいいですか?」
「うん。その辺は臨機応変にね」
 強い日差しと石畳の照り返しを避けて、昼間のうちはあちらこちらの教会や美術館の建物内で過ごした二人は、まだこの街の心臓部であるサン・マルコ広場には、足を踏み入れていなかった。
 歩き出しながら、綱吉は獄寺を見上げる。
「俺、どっちかっていうとコーヒーよりジェラートの方がいいな。カフェ・フロリアンってジェラートも美味しいんでしょ?」
「ええ、お奨めっスよ。この時期だとリモーネ(レモン)やアランチャ(オレンジ)とか、ウヴァ(葡萄)とかのフルーツ系が、さっぱりしてて食いやすいです。どれにしたって、かなり甘いんですけどね」
「うーん。その三段重ねはキツイかな?」
「そうですねぇ……夕飯を軽めにすれば大丈夫だと思いますが、結構ボリュームありますよ」
「じゃあ、リモーネとウヴァのダブルで我慢するよ」
「はい。分かりました」
 楽しげに獄寺はうなずく。
 目指す広場と、この国で最も長い歴史を誇るカフェは、もうすぐそこだった。



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