誰が為に陽は昇る 17

 獄寺が手配したミラノ市内のホテルは、中央駅から少し歩いた所にある、こじんまりとした二つ星ホテルだった。
 何でも二週間後には、経営者家族がホテルを夏季休業にしてバカンスに出てしまうとかで、オフシーズンゆえに料金は安く、フロント係の女性は既にバカンス中のような全開笑顔で迎えてくれて、それだけで綱吉は何だか楽しい気分になった。
「いい感じのとこだね」
「ええ。家族経営の小さいホテルですけど、結構人気あるとこなんですよ」
 綱吉が褒め言葉を口にしたのが嬉しいのだろう。少しだけ誇らしげに微笑みながら、獄寺はフロントで渡された鍵を使って、部屋のドアを開ける。
「うわぁ、綺麗だね」
 そして室内に一歩踏み込んだ途端、綱吉は感嘆の声を上げた。
 別段、贅沢な調度品があるわけではない。
 ただ、小さな中庭に面した大きな窓からはまばゆい陽光が差し込み、色鮮やかな美しい図柄のシーツでメイキングされたベッドや、腰板までがヒヤシンス色で上方がアイボリーの壁紙を輝かせている。
 そして、窓際のサイドテーブル上のガラスの花瓶には黄色と白の夏の花が生けられ、「ようこそ」と笑顔でさざめいていた。
「一泊でチェックアウトなのが勿体ないくらいだなあ」
「うーん。十代目が御希望なら、フロントに延泊できるかどうか聞きますけど?」
「あ、いいよいいよ。ちょっと言ってみただけ。まぁ、一週間くらいここに泊まって、ゆっくりこの街をみてみたい気はするけど」
 空港から中央駅までのバスの窓から見ただけでも、ミラノという街には綱吉を魅了する何かがあふれるほどにあった。それは素直に認める。
 だが、他にもまだまだ見たい所は山のようにあるのだ。
 とにかく、今回は駆け足でイタリア全土の名所名跡だけを見よう、という旅行なのだから、一つの街で何日も、という贅沢は次以降に回すべき話であり、そのことは綱吉も十分に承知している。
 だから、予定通りでいい、と獄寺を制して、壁際のスペースにトランクを置き、改めて綺麗に整えられた室内を見回した。
「十代目、とりあえずシャワー使って下さい。さっぱりしてから、今日と明日の行動を決めましょう」
「うん。ありがと」
 なにしろ極東から南欧までは遠い。一日で移動できる距離であるとはいえ、日本を発ってから、既に十五時間近くが過ぎている。
 おまけに、空港バスは冷房が故障していたのか、外気温は三十五度を超えているのに窓を全開にして一時間走り続けたから、このホテルにたどり着くまでの間で、既に二人とも汗だくだった。
 もっとも湿度が低いせいだろう、汗をかいても日本の夏には付きものの肌のべたつきはなかったし、汗臭さもさほど感じなかったが、だからといって、現状が快適というわけではない。
 ゆえに獄寺の気遣いに素直に感謝して、綱吉は取り急ぎ着替えだけをトランクから出し、バスルームへと向かった。
 バスルームは少々狭かったが清潔で、シャワーも水勢が弱かったもののちゃんと湯も使え、さっぱりした所で綱吉はバスルームを出る。
 と、獄寺はソファーにくつろいで、手荷物で持ち込んだモバイルパソコンを立ち上げ、何やらやっていた。
「お先でしたー。獄寺君もシャワー使って。ちゃんとお湯も出たよ」
「そりゃラッキーですね。幸先がいいですよ」
「あはは。やっぱりラッキーなんだね」
「はい。この国はそーいう国です」
 諦めと呆れが半々に混じった小さな笑みを浮かべて獄寺は答えると、ソファーに近付いた綱吉にモバイルパソコンの画面を向けて見せた。
「今、天気予報見てたんスけど、とりあえず今週は晴れ続きみたいですよ。まぁ、夏のイタリアなんて雨が降る方が珍しいんですが」
「うん。でも、ちょっとくらいは曇ってもいいかもね。思ってた以上に日差しが強烈だもん。そりゃ晴れてた方が、何を見るにしても綺麗に見えるに決まってるけどさ」
「そうですね。とにかく日射病と熱中症には要注意ですよ。昼間はできる限り屋内で過ごして、水分をこまめに摂らないと、マジでぶっ倒れますから」
「うん。ホント、日本の夏とは違うね」
「はい」
 湿度の高低で、これほどまでも変わるものかと感心するくらいに、体感温度も体のバテ方も違う。地中海気候のからからに乾いた夏は、日本の蒸し暑い夏とはまったく別種のきつさだ。
 それは、このホテルへたどり着くまでの一時間余りで実感していたから、綱吉は素直にうなずいた。
「とにかくさ、獄寺君もシャワー浴びてきなよ。君も疲れてるだろ」
「疲れてはないですよ。飛行機ん中でもずっと寝てましたし」
 言いながらも獄寺は、短くなった煙草の火を消して立ち上がる。
「じゃあ、ちょっと失礼します。ネット、繋いでありますから、好きに見てて下さい」
「うん。ありがと」
 うなずいて、綱吉はソファーに腰を下ろし、小さな液晶画面に目線を落とす。
 そして、獄寺がバスルームに姿を消した所で、パソコンから目を逸らし、うーんと小さく唸りながらソファーの背に寄りかかった。
 そのまま顔だけを横に向けて、居心地の良い室内に二つ並んだシングルベッドを見やる。
「二人っきりで二十日間かぁ。分かってたことだけど、実際にこうやって一緒にいるとなると、結構ヘヴィかも……」
 このホテルもだが、今回の旅行で手配したホテルの部屋はほとんどがツインルームである。
 その方が料金が安いこと、そして万が一の事があった時のことを考えれば、それは当然の選択だったのだが、果たして心理的には正しかったのかどうか。今更ながらに、綱吉は考え込む。
「でも、だからって何か起きるような気はしないしなー…」
 水面下では両想いの健全な青少年が、24時間×21日も二人きりで何もないというのもどうかという感じだが、禁断の実をうかつにもいで口にするには、獄寺も綱吉もこれまでに修羅場をくぐり過ぎていた。
 出会ったばかりの頃ならいざ知らず、今の綱吉は、自分と獄寺の関係はボンゴレ・ファミリーあってのものだということを理解している。
 獄寺が真実、一人の人間として自分のことを想っていてくれることは分かっているが、それでも綱吉がドン・ボンゴレ十世となることを拒絶したとき、マフィアとして生まれ育った獄寺は一般人の綱吉を追うすべを持たないことも、また分かっているのだ。
 そして、綱吉にとってのファミリーは、獄寺とはまた別の意味でかけがえのないものだった。
 いわば今の綱吉は、右手に獄寺、左手にボンゴレを掴んでいるようなものであって、どちらか一つを捨てることは、それぞれ半身を捨てることに等しい。
 それは獄寺の方もおそらく同じであって、究極の選択を迫られれば彼はファミリーを捨てて綱吉を選ぶだろうが、しかし綱吉としては、獄寺に彼がやっと見つけた仲間を捨てるような真似は決してさせたくはなかった。
 ──結局の所、ファミリーという絶対的な存在の前では、獄寺と綱吉の個人的な想いは存在する余地などない、というのが現実なのだ。
 雨続きの天の川を挟んで向かい合う織姫と彦星のように、あるいはロミオとジュリエットのように、ただ切なく想いをひた隠しにして、相手をそっと見つめることしかできない。
 お互いにそれを十分過ぎるほど分かっているから、獄寺は微塵もそんな感情を表には出さず、綱吉も何も気付かず知らないふりをする。
 どうしようもなく滑稽で、哀れで、愚かしい。
 けれど、どれほど辛くとも、綱吉はこの恋を捨てたくなかった。
 否、捨てられないという方が正しい。初めて本当に好きになった相手を、叶わない恋だからといって、そうそう簡単に忘れられるはずもないのである。
「おまけに、俺はずるいし……」
 少なくとも、自分は獄寺の想いに気付き、獄寺の方はこちらの想いに気づいていないという一点で、アンフェアだといえるだろう。
 しかも、何も気付かないふりをしながら、綱吉は言葉で彼をがんじがらめにして、その誠実さや優しさに溺れている。
 何もかもずるい。
 ずるいけれど。
「お待たせしました、十代目」
 濡れて鈍い銀色に光る髪をタオルでぬぐいながら、獄寺がバスルームから戻ってきて。
 その髪と瞳の色合いに胸をかきむしられるような切なさを覚えながら、綱吉は何でもないように微笑む。
「ねえ獄寺君、髪を乾かしたら、街に出て何か食べない? 俺、少しおなかが空いたよ」
「そうっスね。スカラ広場のすぐ近くにお奨めのピッツェリーアがありますけど、どうですか? 地下鉄乗って、下りてからまたちょっとだけ歩きますけど」
「うん、獄寺君のお奨めなら行ってみたい」
 どれほどずるくとも、滑稽であろうとも。
 泣きたいほどに彼が好きだ、と思う。
 そしてそれは、獄寺の方もおそらく同じだろう。
 そんな想いを水面下に隠したまま、おそらくは最初で最後の二人きりの旅行──最後の『友達ごっこ』は、今、始まりを告げたばかりだった。



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